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坂東の大学足利学校 起源には諸説

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 「坂東の大学に学ぶ者には博学の者が多いから、日本布教のためには、特に優秀な宣教師を派遣しなければならない」―布教のため日本にやってきたフランシスコ・ザビエルが本国にこう報告しているように、遠くヨーロッパにまで名前を知られていた足利学校は武蔵の金沢文庫とともに、中世における学問の一大中心地であった。だが、この足利学校の起源については古来、諸説があり、まだ定説をみていない。
 すなわち①小野篁創建説(「鎌倉大草紙」)②平安時代国学遺制説(「足利学校事蹟考」)③藤原秀郷曽孫創建説(上野伝説雑記」)④足利尊氏創建説(「上野名跡考」)⑤上杉憲実創建説(「鎌倉大草紙」)⑥足利義兼創建説(八代国治「足利庄の文化と皇室御領」)などの説がある。
 八代国治氏はその論文で、いろいろと批判を加え、「講書始の事、先規に任せその沙汰を致すべし、本願の御素意かたがた少輔入道殿の仰せる所也、緩怠謂れ無きか」という「ばん阿寺文書」を根拠にして、「講書は義兼の素意で、緩怠することなからしめて属るのを見ると、義兼は書籍を蒐集して文庫を起し、一族の子弟井に僧侶等に、学問を勧めたことと思われます。これによれば、足利学校の基礎は、義兼が造ったといっても差支えないことと信ずるのであります」と述べている。現在のところ、ほぼ足利義兼創建説が有力である。
 現在の足利学校遺跡図書館は、明治36年に開設された。これは足利市昌平町にあるが、当時の足利学校はどこにあったのだろうか。
 これまた諸説あって、確証を得ない。①学校地先説(「足利学校事蹟考」)②両崖山足利城付近(吉田東伍「大日本地名辞書」)③ばん阿寺境内説(八代国治治)④勧農付近説(渡辺世祐「足利荘及足利学校に就て」)
 いずれにしても足利学校は、平安末から鎌倉初期には創設されていた。しかし、名実ともに学校としての形態を整え、隆盛をみたのは、関東管領上杉憲実が永享11年(1439)に再建してから以後のことである。
 憲実は学領のみならず「尚書正義」・「春秋左伝」・「礼記正義」など、宋時代の書籍も寄進し、それらに「比書学校の閫外に出るを許さず」とか「足利学校の公用也」などと自筆している。
 また、書籍閲覧規定や校規も定め、鎌倉円覚寺から五山の僧快元を招いて初代序主(しょうしゅ=校長)とした。講義内容は主に儒学だったが、易学・天文学・医学・兵学なども教えられた。
 上杉憲実・憲忠・憲房と三代にわたって手厚い保護をうけ、足利庄の支配が長尾氏にかわってからも、ますます隆盛をきわめた。血なまぐさい戦国の争乱をさけて、全国各地から学究の徒が集まり、一日中、読書の声が絶えなかったという。
 その様子を、連歌師宗長は「東路のつと」という紀行文で「下野の国佐野といふ所へ出で立ち、足利の学校に立ち寄り侍れば、孔子・子路・顔回の肖像をかけて、諸国の学徒かうべを傾け、日ぐらし居たる体はかしこく旦つあはれに見え侍り」と述べている。
 天文のころには「時に講筵に侍する学徒八百余人」といわれ、第七世岸主九華のころに、隆盛の極に達した。九華は「学業尤も盛ん、生徒蓋し三千、在三庠十年、天正六年戊寅八月十日を以って卒す。年七十九」といわれ、歴代序主の中でも特に学殖深く、在任も長かった。
 九華永正3年(1506)、任終えて故郷の九州へ帰国する途中、小田原の北条氏康・氏政父子をたずね、求められるままに周易豊一略の講筵を開いた。氏康・氏政は非常に感激し、このまま帰国させるにしのびず、もう一度学校へもどってくれるよう懇願した。九華はそれを入れ、再び足利の地を踏み、この地で没した。
 この時、氏政は九華に金沢文庫所蔵の宋版「文選」21冊を贈っている。これはいまなお国宝として、足利学校遺跡図書館に保存されている。
 現在、同図書館には43,000余冊の書物が保存されれ、うち貴重書は800冊余。その中には、すでに中国にないものも含まれており、研究上きわめて重要な価値をもっている。
 こうして、足利学校が後世まで存続し、栄えたのは上杉氏をはじめ北条氏、武田氏、徳川氏らが代々、手厚い保護を加えてきたからにほかならない。
http://www.city.ashikaga.tochigi.jp/site/ashikagagakko/

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