坂東の大学足利学校 起源には諸説
3月
2日
すなわち①小野篁創建説(「鎌倉大草紙」)②平安時代国学遺制説(「足利学校事蹟考」)③藤原秀郷曽孫創建説(上野伝説雑記」)④足利尊氏創建説(「上野名跡考」)⑤上杉憲実創建説(「鎌倉大草紙」)⑥足利義兼創建説(八代国治「足利庄の文化と皇室御領」)などの説がある。
八代国治氏はその論文で、いろいろと批判を加え、「講書始の事、先規に任せその沙汰を致すべし、本願の御素意かたがた少輔入道殿の仰せる所也、緩怠謂れ無きか」という「ばん阿寺文書」を根拠にして、「講書は義兼の素意で、緩怠することなからしめて属るのを見ると、義兼は書籍を蒐集して文庫を起し、一族の子弟井に僧侶等に、学問を勧めたことと思われます。これによれば、足利学校の基礎は、義兼が造ったといっても差支えないことと信ずるのであります」と述べている。現在のところ、ほぼ足利義兼創建説が有力である。
現在の足利学校遺跡図書館は、明治36年に開設された。これは足利市昌平町にあるが、当時の足利学校はどこにあったのだろうか。
これまた諸説あって、確証を得ない。①学校地先説(「足利学校事蹟考」)②両崖山足利城付近(吉田東伍「大日本地名辞書」)③ばん阿寺境内説(八代国治治)④勧農付近説(渡辺世祐「足利荘及足利学校に就て」)
いずれにしても足利学校は、平安末から鎌倉初期には創設されていた。しかし、名実ともに学校としての形態を整え、隆盛をみたのは、関東管領上杉憲実が永享11年(1439)に再建してから以後のことである。
憲実は学領のみならず「尚書正義」・「春秋左伝」・「礼記正義」など、宋時代の書籍も寄進し、それらに「比書学校の閫外に出るを許さず」とか「足利学校の公用也」などと自筆している。
また、書籍閲覧規定や校規も定め、鎌倉円覚寺から五山の僧快元を招いて初代序主(しょうしゅ=校長)とした。講義内容は主に儒学だったが、易学・天文学・医学・兵学なども教えられた。
上杉憲実・憲忠・憲房と三代にわたって手厚い保護をうけ、足利庄の支配が長尾氏にかわってからも、ますます隆盛をきわめた。血なまぐさい戦国の争乱をさけて、全国各地から学究の徒が集まり、一日中、読書の声が絶えなかったという。
その様子を、連歌師宗長は「東路のつと」という紀行文で「下野の国佐野といふ所へ出で立ち、足利の学校に立ち寄り侍れば、孔子・子路・顔回の肖像をかけて、諸国の学徒かうべを傾け、日ぐらし居たる体はかしこく旦つあはれに見え侍り」と述べている。
天文のころには「時に講筵に侍する学徒八百余人」といわれ、第七世岸主九華のころに、隆盛の極に達した。九華は「学業尤も盛ん、生徒蓋し三千、在三庠十年、天正六年戊寅八月十日を以って卒す。年七十九」といわれ、歴代序主の中でも特に学殖深く、在任も長かった。
九華永正3年(1506)、任終えて故郷の九州へ帰国する途中、小田原の北条氏康・氏政父子をたずね、求められるままに周易豊一略の講筵を開いた。氏康・氏政は非常に感激し、このまま帰国させるにしのびず、もう一度学校へもどってくれるよう懇願した。九華はそれを入れ、再び足利の地を踏み、この地で没した。
この時、氏政は九華に金沢文庫所蔵の宋版「文選」21冊を贈っている。これはいまなお国宝として、足利学校遺跡図書館に保存されている。
現在、同図書館には43,000余冊の書物が保存されれ、うち貴重書は800冊余。その中には、すでに中国にないものも含まれており、研究上きわめて重要な価値をもっている。
こうして、足利学校が後世まで存続し、栄えたのは上杉氏をはじめ北条氏、武田氏、徳川氏らが代々、手厚い保護を加えてきたからにほかならない。
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