10月3日(土)の夜、NHK・Eテレ「SWITCHインタビュー達人達」という番組で、言わずと知れた「さかなクン」と、静岡文化芸術大学教授で歴史学者の磯田道史先生の対談が再放送されていました。
実は自分、「さかなクン」の大ファンでして、当初、7月下旬に放送された時もしっかりと番組をチェックしていました。
テレビで「さかなクン」を視ていると、微笑ましく、羨ましいような、憧れるような、不思議な気持になります。
彼の、自分が大好きなことに、とことん夢中になりながら、生き生きと目を輝かせて、楽しそうにお魚の話をする姿は、視ているだけで幸せな気持になります。
それに、「さかなクン」を視ていると、「この人は、つまらぬことで腹を立てたり、人を怨んだり、妬んだり、一切しないんじゃないか・・・?」とまで思えてきます。
もちろん、彼も人間ですから、我々の知らない所で、人知れず悔しい思いをしたり、腹を立てたりすることもあるのでしょうが、人前ではそんな所を微塵も感じさせないのが格好良く、憧れてしまいます。
一方、対談相手の磯田道史先生は、映画化もされた『武士の家計簿』の著者で、子どもの頃からの筋金入の、自他共に認める歴史「オタク」だったそうで、「さかなクン」に対しては、「自分と同じ匂いがする」と仰っていました。
それは例えるならば、「虫取り網を持って蝶をどこまでもどこまでも追い続けていた結果、いつの間にか、誰も到達したことのない山の高みにまで来てしまった」ようなものだとも仰っていました。
そんな、分野は違えど一つの道を窮めんとする二人の対談は、合氣道の道を窮めんと日々精進する自分にとっても、大変勉強になるものでした。
対談の中で、磯田先生は、所謂「オタク」である両者に共通する行動原理として、「無償の遊戯性」というキーワードを使って説明しておられました。
「無償の遊戯性」で行動する人間にとっては、結果の損得は関係なく、ただ楽しいからやる、むしろ遊びとしてやる、のであって、この「無償の遊戯性」を江戸の言葉で言い換えるならば、それをまさに「道楽」というのだそうです。
思わず目から鱗が落ちる思いとはこのことでしょうか。
昔から「道楽」という言葉は、物好き、放蕩、不品行といったマイナスイメージで語られることも多かったと思いますが、「道楽」とは、まさに「道」を「楽」しむと書くわけで、武「道」も合氣「道」も、どうせやるなら「道」を「楽」しんでやれたら、それは理想的ではないかと思います。
更に磯田先生は学者の立場から、こんなことも仰っていました。
「無償の遊戯性」を持って研究している人は、「一生懸命労力をかけて研究しても、成果が得られなかったらどうしよう・・・」などとは決して考えず、ただ楽しいからやるのである、と。
そして、研究者には、成果や損得で考えてしまうと、どうしても乗り越えられない壁が存在するのだと。
これは合氣道修行にもぴったり当てはまることだと思います。
練心館を含め、現在、世の中の殆どの道場が級・段位制を採用していると思いますが、級・段を取得するために必死に頑張るような努力の仕方は、全くの初心者のうちは確かに一定の効果があります。
しかし、いつまでもそのような成果や損得を求める姿勢での取り組み方を続けていると、目に見える判り易いものしか求めなくなってしまい、結果、中身のない形骸のようなものになり果ててしまうことが多いようです。
むしろ、本当の実力とは、丹田や氣の感覚、心身統一といった、形に現われない判り難いものの中にこそあるのであって、稽古を通じて、そうした本質的なものを構築していくためには、試行錯誤を繰り返しながら探究していく過程である「道」そのものを「楽」しめるようでなければなりません。
また、この「無償の遊戯性」というキーワードは、あらゆる分野で「ブレイクスルー」を達成するための条件だとも言えるのではないかと思います。
私は専門家ではないので決め付けることはできませんが、絶滅種とされていたクニマスの発見も、学界の常識に囚われない、在野の研究者であり、「無償の遊戯性」を持って「道」そのものを「楽」しんでいた「さかなクン」がいたからこそ、達成することのできた「ブレイクスルー」ではないかと考えます。
今後、あらゆる分野で「ブレイクスルー」を達成できるような人材を育てようとするなら、必要なのは熾烈な競争原理と成果主義などでは決してありません。
「無償の遊戯性」を持って「道」そのものを「楽」しめるような人間を、温かく見守ってやれる社会、これで十分なのではないでしょうか?
少なくとも、そういったタイプの人間にとっては、高額な報酬も、特別な待遇もあまり興味の無いことなのではないかと思います。
番組の最後の方で「さかなクン」も素晴らしいことを仰っていました。
(彼らのような)オタクと呼ばれるような人たちは、自分自身が納得するためにひたすら追究し、そこで色々なことが見えてきて、色々な喜びを得る。
しかし段々と、「自分一人だけで自己満足しているのがもったいない」と思うようになってくるのだと。
そして、自己満足している段階ではまだアマチュアの域を超えないけれど、「この感動を誰かと共有しないともったいない」と思うようになってくると、それが仕事に繋がったりもし、アマチュアからプロへと変化していくのだと。
私事で恐縮ですが、10年前、自分が練心館の館長を継いだ時の気持ちが、まさにこれでした。
「さかなクン」が、かつての自分の思いを代弁してくれている。
そう考えると、特に魚に関して詳しくもない自分が、何故か「さかなクン」に惹かれてしまうのは、磯田先生と同じように、「自分と同じ匂いを感じてしまう」ということがあるのかも知れません・・・。
話は変わりますが、以前は、よく周りの人たちに冗談で、「自分は合氣道界の内村鑑三になりたい」などと言っていました。
内村鑑三は、立派な教団組織や立派な教会の建物がなくとも、純粋に信仰に生きることは可能であるとし、「無教会主義キリスト教」というものを提唱しました。
しかし一方で、彼は既存の教会を否定することは決してしませんでした。
無教会主義は決して反教会主義ではない。
そこが内村鑑三の素晴らしさであると個人的には思っています。
合氣道練心館も、大きな組織や立派な建物はなくとも、純粋に合氣道の奥義を追究することは可能であるとする、言わば、「無団体主義合氣道」を目指しています。
そして私たちも、既存の合氣道団体、組織を否定することはしません。
それぞれがそれぞれに、天から与えられた大切な役割があり、それらを全うすることが天から与えられた使命だと考えます。
近頃は、「合氣道界の内村鑑三」に加えて、もう一つ、「自分は合氣道界の『さかなクン』になりたい」というのを追加しようか?と考えています。
自分も、「無償の遊戯性」を持って、「道」そのものを「楽」しむことで、いつの日か「ブレイクスルー」を達成できたら・・・、本当に素晴らしいと思いました。
最後に、最近、「さかなクン」のことを改めて見直したエピソードを紹介します。
今年の夏は、太平洋側の海水浴場のあちこちでサメが出没し、遊泳禁止になったり、防護ネットを設置したりと、色々と騒動になりました。
そんな最中、夜遅くNHKの「NEWS WEB」に「さかなクン」が出演し、コメントを求められていました。
自分はてっきり、「どうやったら恐ろしいサメから身を護れるか」とか、「どうやったら獰猛なサメを撃退できるか」といった話が聞けるものだと身構えていました。
コメントを求めたキャスターもそういう意図だったのではないかと思います。
ところが、「さかなクン」のコメントはその期待を見事に裏切ってくれるものでした。
「さかなクン」曰く、
「サメちゃんは、人間がこの地球上に現われる遥か昔の太古の時代から海に棲息している、言わば海の大先輩であると。」
「サメちゃんは、確かに危険な魚かも知れないが、無暗矢鱈に人間を襲ったりは決してしないのだと。」
「なので、徒にサメちゃんを悪者扱いし、嫌ったりして欲しくはないのだと。」
サメ(ちゃん)に対する「さかなクン」の、愛に溢れるコメントを聞いて、自分はまたもや、目から鱗が落ちるような思いがし、心の底から反省しました。
考えてみれば、海はもともと人間のためというよりは、魚たちが棲息するためのフィールドであり、そこに人間にとって都合の悪い魚が現われたからといって問題視するのは、まさに人間の身勝手というものでしょう・・・。
自分は合氣道師範をしていますが、合氣道の大切な教え、「万有愛護の精神」は、少なくとも、自分なんかよりも「さかなクン」の方がよく解かっていらっしゃる、と猛省させられた次第です。
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投稿日 2015-10-07 07:42
ワオ!と言っているユーザー
投稿日 2015-10-07 19:02
ワオ!と言っているユーザー