◇◇◇桜物語◇◇◇ ◆桜の章◆ 5
9月
25日
光祐さまが都に戻り、祐里は、女学校への入学準備で慌しい日々を過ごしていた。文彌からは、執拗なまでに恋文が届けられた。心配する旦那さまと奥さまの厚意で、祐里は、森尾の車で女学校に通学することになった。
入学して一月経った女学校の帰りに、祐里は、図書館へ立ち寄った。窓の外では遅咲きの桜の花弁が陽射しの中で舞っていた。探していた本に背伸びしてやっと手が届いた祐里の背後から、星稜高等学校の制服姿の男子がすっと本を取って渡してくれた。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
祐里は、長身の男子を見上げてお辞儀した。
「難しい本を読むんだね」
優しい視線が注がれた。
「先生が薦めてくださった本でございますの」
祐里は、光祐さまの他に優しく話しかけてくる男子に出会ったことがなく、心臓がドキドキする不思議な気分を感じながらお辞儀をして、貸出受付に向かった。
白百合女学院の並びには、星稜高等学校が在り、春の花咲く学園通りは、行き交う男子学生と女子学生で賑やかだった。
「萌、毎日、声をかけられて困ってしまう」
萌は、取り巻きの級友に毎朝声をかけられた人数を自慢するのが楽しみだった。女学校の制服も萌の生地は舶来物で仕立てがよく、一目瞭然で良家のお嬢さまと誰もが認めた。
「萌さまは、可愛くていらっしゃるから」
祐里も級友たちも声を揃えて相槌を打った。
「祐里さまは、桜河のお嬢さまだから、みなさん、遠慮されて声をおかけになれないのでございますわ。それに虫が付かないようにお抱え運転手付きでございますし。今度の土曜日の昼食会に祐里さまもご一緒しましょう。杏子さまのお家の銀杏亭をお借りして、星稜の方々と盛大にいたしますの。萌からも薫子叔母さまにお願いいたしますから」
萌は、学校が終わるといつもすぐに帰ってしまう祐里を昼食会に誘いたくて、林杏子に目配せした。萌は、幼馴染の久世春翔と共に昼食会を企画していた。
「そういたしましょう。萌さまと祐里さまがお揃いになれば、杏子の家の銀杏亭も三ツ星レストランに格上げですもの」
杏子は、萌の気持ちを察して祐里を誘った。勿論杏子も昼食会の企画に加わっていた。
「それでは、ご一緒させていただきます」
女学校の級友たちは、祐里が『榊原祐里』と名乗っても、違和感なく桜河のお嬢さまとして接してくれていた。
土曜日の放課後の銀杏亭は、制服姿の男子学生と女子学生で賑わっていた。
「また、会えたね。鶴久柾彦です。どうぞ、よろしく」
先日の図書館で出会った方だった。優しい微笑を湛えて祐里を見つめていた。
「先日は、ありがとうございました。榊原祐里と申します」
図書館では、ドキドキしてきちんとしたお礼の言葉も言えなかったが、今日は級友たちと一緒で心強く、祐里は、落ち着いて挨拶ができた。
「柾彦さま、祐里さまとお知り合いでいらしたの」
杏子が話に割りこんできた。
「先日、図書館で会ったばかりだよね」
柾彦が、祐里に相槌を求めた。
「ええ、鶴久さまに高い書架から本をお取りいただいて」
「まぁ、祐里さま、ご縁ですわね。柾彦さまは、鶴久病院の御曹司でなかなか昼食会にお誘いしても来てくださらないのよ。柾彦さまはお目が高い。祐里さまは、昼食会に初登場の桜河家のお嬢さまですの」
杏子は、二人を仲人のように紹介すると次の席へ移って行った。
「杏子は、小さな時からお調子者だから気にしなくていいよ。噂の姫に早速会えて光栄だな」
柾彦は、女子学生との昼食会には興味がなく誘われても断っていたが、今回は幼馴染の杏子から「桜河のお屋敷の祐里さまをお誘いしたのよ」と聞いて、参加する事にしたのだった。柾彦は、自己主張ばかりの鼻持ちならないお嬢さま方が苦手だった。初めて見かけた図書館といい、今日といい、祐里は、控えめで可憐であった。
「何か悪い噂になってございますの」
祐里は、心配顔で柾彦を見つめた。柾彦は、そんな祐里が可愛く思えた。
「我が校では、車窓の美女で有名だよ。送迎の守りが固くて誰も姫に声をかける事が出来ないって」
柾彦は、大袈裟な身振りを交えて話した。
「まぁ。私は、そのような御伽噺のお姫さまではございません」
祐里は、慌てて否定すると恥ずかしげに俯いた。
「その証拠に、ほら、何人も姫に視線が釘づけですよ」
祐里は、柾彦に促される形で周囲を見回し、それぞれの視線に穏やかな会釈を返した。
「姫は、不思議なひとだね。初めて話すのに以前からの知り合いのように安心する。一緒にいるだけでしあわせな気分になるよ。ぼく的には、姫を解剖して分析してみたい」
柾彦は、大袈裟に顕微鏡を覗く格好をしてみせた。
「お医者さま的なお考えでございますのね。心の中まで見透かされているようで恥ずかしゅうございます」
祐里は、恥ずかしげに制服の上から胸を押さえて隠した。そのしぐさに柾彦は、ますます好感を持った。祐里の席には、次々に洋菓子と飲み物が自己紹介と共に届けられた。祐里は、にっこり笑って御礼の言葉を返した。柾彦は、祐里の横にいて、他の男子学生との会話をより楽しくさせてくれていた。祐里は、少しずつ柾彦に打ち解けていった。
銀杏亭の柱時計が午後三時を打った。
「鶴久さま、迎えの車が参ります。本日は、お相手をしていただいてとても楽しく過ごさせていただきました。ありがとうございました」
祐里は、柾彦に丁寧にお辞儀をして立ち上がった。
「また、会えるよね」
柾彦は、立ち上がり、出入り口の扉まで祐里を送った。
「ご縁がございましたら、またお目にかかりとう存じます」
祐里は、柾彦を見つめてにっこり微笑んだ。柾彦は、祐里の笑顔に見惚れていた。
森尾の車が銀杏亭の前に停まり、祐里は、杏子と萌に別れの挨拶をして外に出た。
「祐里さま、柾彦さまを独占でしたわね」
杏子が祐里の耳元で囃し立て、萌は、幼馴染みの久世春翔と一緒に祐里に手を振った。
柾彦との縁はすぐに訪れた。旦那さまのお供で行った美術館で、取引先の方と偶然に会った旦那さまが談話室で仕事の話をしている間、祐里は、気を利かせて中庭の散策をしていた。
大きな庭石の前で柾彦が笑顔を向けていた。
「姫、また会えたね。こんな所で会えるなんて、やはり縁があるんだね」
柾彦は、『縁』を強調した。
「まぁ、鶴久さま。こんにちは。奇遇でございますね」
祐里は、偶然の再会に驚きながら、笑顔でお辞儀した。
「柾彦でいいですよ。制服の姫も美しいけれど、今日のワンピースもとてもよく似合って眩しいくらいです」
祐里の白いレースのワンピースが、五月の新緑を背景に陽射しを浴びて輝いていた。首元には、光祐さまから贈られた桜の花の首飾りが揺れていた。
「お褒めいただきましてありがとうございます。柾彦さまは、おひとりでございますか」
祐里が話すたびに長い黒髪が風に揺れ、陽射しにきらきらと輝いて、柾彦の視線を釘付けにしていた。
「母のお供で、少々退屈していた時に、姫をみかけて中庭に出てきたところだけれど、姫は、誰と来ているの」
柾彦は、周りを覗った。
「柾彦さま、私は、姫ではございません。旦那さまのお供でございます。只今お取引先の方とお話をなさっていらっしゃいますの」
「桜河家ともなると、父上のことを旦那さまって呼ぶのだね」
祐里は、返事に窮して質問には答えずに話題を変えた。
「お母さまは、おひとりで大丈夫でございますの」
「お話好きの伯母と一緒だから大丈夫だよ。桜河の旦那さまに挨拶しておこうかな。鶴久病院とのお近づきもお願いしたいし」
祐里は、旦那さまに柾彦をどのように紹介すべきなのか思いあぐねて困惑した。
「柾彦さま、突然困ります」
「姫は、困った顔も可愛いね。冗談だから機嫌を直して」
柾彦は、しばらく祐里の困惑した表情を眺めて(なんて美しい瞳なのだろう)とこころをときめかせながら快活に笑った。
「柾彦さまは、意地悪でございますのね」
祐里も柾彦の笑顔につられて一緒に笑っていた。祐里は、柾彦の明朗快闊な性格がとても新鮮に思え、一緒にいることを楽しく感じていた。いままで、桜河の名が他の男子と祐里の間に壁を作っていたこともあり、男子とは親しく話をしたことがなかった。それに祐里がひたすらに光祐さまだけを見つめて過ごしてきたことも事実だった。
「そろそろ、旦那さまの元に戻ります。柾彦さま、お声をおかけくださいましてありがとうございました。ごめんくださいませ」
祐里は、柾彦の聡明な瞳を見上げてお辞儀した。
「また会える日を楽しみにしておくよ」
柾彦は、館内に消えていく祐里の姿を眩しそうに見つめて、儚げな桜の花弁の様でもあり、可憐な白い百合の様でもある祐里をますます可愛く思った。
しばらくして、柾彦は、立派な風格のある旦那さまと祐里が一緒に絵画を見ている姿を遠くから見つめた。旦那さまは、祐里をゆったりとした微笑で包み込み、目の中に入れても痛くないといった様子を見せていた。それに応えて、祐里もしあわせ溢れる笑みを返していた。柾彦は、噂に聞くと本当の娘ではないらしい祐里が旦那さまに大切にされているのが分かり、何故だか嬉しかった。
「綺麗な方でございますわね。桜河のお嬢さまでしょう」
気が付くと柾彦の後ろに意味ありげな笑みを浮かべて母の結子が立っていた。
「母上、いつの間に」
どきっとして、柾彦は、振り返った。
「柾彦さんが見惚れていたから、しばらくそっとしておいたの。恋愛に堅物の柾彦さんでも恋する年頃なのね。あれほどのお嬢さまなら恋をしないほうが無理でしょうけれど。伯母さまに知れたら大騒ぎになってよ。お気をつけあそばせ」
「そのようなことではありません。図書館で棚から本を取って差し上げただけですよ」
柾彦は、慌てて結子に返答した。
「さようでございますか。鶴久病院も家柄としては申し分ありませんけれど、桜河のお嬢さまをお迎えするには恐れ多くて自信がございませんわ。でも、桜河さまとお近づきになれたら、病院の格も上がり大きくできますわね。我が家には何時連れていらっしゃるの」
結子は、柾彦をからかうように話した。
「だから、そのようなことではありません。先日の昼食会で少しお話しただけです」
柾彦は、否定するつもりが口を滑らせて祐里との縁を語って赤面した。
「まぁ、いつもは昼食会なんて時間の無駄だとおっしゃって出たことがなかったのに・・・・・・初恋は人を変えるものなのね。あのように綺麗な方に看病していただけたら病気なんて、すぐに治りそう。鶴久病院は、名病院と評判になりますわ」
「母上、ぼくは、今でも堅物ですよ。さぁ、そのような絵空事よりも、伯母さまがあちらでお呼びですよ」
柾彦は、もう一度、祐里の姿を見つめ、結子の口を塞いで急き立てるように伯母の側に歩いていった。結子は、柾彦の微笑ましい恋心を喜んでいた。
梅雨の晴れ間の真珠晩餐会に、祐里は、奥さまに連れられて参会した。祐里の白絹のワンピースの首元に桜色の真珠の首飾りが可憐に輝いていた。この首飾りは、代々桜河家の女主人に伝わる家宝の品で、今宵の晩餐会のために奥さまが特別に祐里に貸し与えたものだった。桜色の真珠の首飾りは、祐里の白い肌に反射して華やいだ美しさをもたらせていた。祐里は、奥さまの横で参会の奥様方に挨拶をしてまわり、風に当たりたくなってテラスへ出た。下弦の薄暗い月夜で梅雨特有の生暖かい湿気を帯びた空気が辺りを取り巻いていた。大広間では、ちょうど管弦楽の演奏が始まった。
「やっと再会できたね。この日が来るのを首を長くして待っていたよ」
榛文彌が葡萄酒の杯を片手に大蛇のような視線で見据え、祐里の前に立ちはだかった。
「少し見ない間に一段と綺麗になったね。恋文の返事をもらっていないけれど、今度会う時は、全てを僕のものにする約束を覚えているよね」
祐里は、平静を装って文彌の脇をすり抜けるつもりが、文彌から腕を掴まれて、首を横に振りながらテラスの後方に後退った。文彌は、不敵な笑みを浮かべ葡萄酒の杯を円卓の上に置くと、後退る祐里の細い両肩を強引に掴んで回り込み、人の目の届かないテラスの大きな柱の後ろに押しつけた。そして、祐里のワンピースの襟元に手を滑らせて胸を鷲掴みにし、柔らかな首筋を伝ってくちづけを迫った。
「君は、遂に僕のものだ」
人々の集う晩餐会で、文彌と二人きりになるとは思いもよらず安心しきっていた祐里は、大蛇に睨まれた獲物のように身動きが取れずに(光祐さま・・・)とこころの中で助けを求めて震えていた。
「姫」
寸前のところに柾彦が割って入ってきた。
「柾彦さま」
驚いて腕の力を抜いた文彌の隙をついて、祐里は、柾彦に駆け寄りその背中に隠れた。
「誰、このひと」
柾彦は、文彌の顔を睨み付けた。
「お前こそ、誰なんだ」
文彌は、掴みかからん勢いで、円卓の上の葡萄酒の杯を掴むと柾彦に投げつけた。柾彦は、祐里を庇いながら上手に葡萄酒の杯をかわした。紅色の滴と共に後方で硝子の砕け散る音が管弦楽の演奏に共鳴した。
「ぼくは、姫の守り人です。このような公の場で、礼儀知らずの野獣から姫を守るのがぼくの務め。姫、もう大丈夫です」
怯むことなく柾彦は、文彌の前に立ちはだかった。背中に寄り添う祐里の柔らかな肌を感じ、勇気が漲っていた。
「へぇー、光祐坊ちゃんだけじゃなく、他にも男がいたとはね。おとなしい顔をして男を手玉に取るのが上手だな。そいつにも、もう抱かれたのか。そうやって、桜河の旦那さんにも取り入ったのだろう」
文彌は、待ち焦がれていた祐里との愛撫の時間を初対面の柾彦に阻まれ、祐里に罵声を浴びせた。
「榛様、柾彦さまに失礼でございます。お話は、旦那さまがお断り申し上げた筈でございます。このような事をなされては、御家の恥ではございませんの」
祐里は、柾彦の背後で安心して気を取りなおすと、毅然とした態度で言い返した。
「身分違いの君に恥などと言われたくないね。黙って僕の女になればいいものを」
文彌は、血相を変えて、柾彦に掴みかからん勢いだった。
「姫を侮辱する失礼な野獣など相手にしないで、さぁ、姫、大広間に戻りましょう」
柾彦は、文彌を無視して祐里を促した。このままだと文彌に殴りかかってしまいそうだった。(確か鶴久病院は、榛銀行から融資を受けていた筈だった。更に学生の身で大人の文彌と騒ぎを起こしては、鶴久病院の名を汚すことになる)と、瞬時に頭の中で思い巡らせている自分に気付き、柾彦は、悲しかった。
テラスにひとり残された文彌は、地団駄を踏み(必ず僕の女にしてやる)と祐里の胸の柔らかい感触の残った手を握り締めて、首筋の甘い香りを思い出しながら、祐里への恋情ゆえの憎悪を募らせていた。
「ありがとうございます。柾彦さまがいらしてくださって助かりました。申し訳ございません。お洋服に葡萄酒がかかってしまいました」
祐里は、レースの白いハンカチを取り出して、柾彦の肩口に飛び散った葡萄酒の滴を拭き取った。祐里の白いハンカチは、深紅の葡萄酒が沁み込んで紅く染まり、それはまるで祐里のこころの傷口から零れた鮮血のようで痛々しかった。柾彦は、祐里が小さく震えているのを気遣って、ハンカチを持つ祐里の手を取ると少しおどけて言った。
「ありがとう、姫。先程、姫に気づいて声をかけようと思ったら、なんだか野獣が姫を追いかけていて、守り人のぼくは疾風の如くかけつけた訳です。野獣を退治できなかったのは残念でしたが、姫のお命はお守りできました」
柾彦は、祐里に怖い思いをさせる前に間に合いたかったと悔やんでいた。
「柾彦さまったら、また、御伽噺になってしまいますわ」
祐里は、柾彦の優しさに包まれてすっかり機嫌を直して笑顔になっていた。柾彦は、先程文彌が口にした『光祐坊ちゃん』という名が胸の中で引っかかっていた。
「祐里さん、探しましたのよ。あら、どなたですの」
奥さまが祐里を見つけて側に歩み寄り、柾彦に目を留めた。
「はじめまして、桜河の奥さま。鶴久病院の鶴久柾彦と申します」
柾彦は、突然の奥さまの登場で驚きながらも、はきはきと快活に自己紹介をした。
「星稜高等学校にお通いの方で、先日、図書館と美術館でお会いしましたの」
祐里は、柾彦から慌てて手を放し、頬を染めながら出会いの経緯を申し添えた。
「桜河薫子でございます。鶴久病院は、ご立派な病院でございますわね」
奥さまは、恥ずかしげな祐里に目を細め、はきはきとした柾彦に好感を持った。
「ありがとうございます。桜河の奥さまにそのように病院を誉めていただけましたら、父母も喜ぶと思います」
柾彦は、奥さまの美しい気品の前にも臆することなく返答した。
「はじめまして、鶴久結子でございます。息子が桜河さまのお嬢さまと親しくさせていただいているようで、一度ご挨拶申し上げようと思っていたところでございました。早速、お近づきになれて光栄でございます」
いつの間にか、柾彦の後ろに母・結子が立っていた。シルクタフタの多彩なドレスを身に纏った結子は、真珠の長い首飾りをつけモダンな雰囲気を醸し出していた。それとは打って変わり、奥さまは、真珠色地に紫陽花文様の着物姿で帯留めに真珠をあしらい、しっとりとした美しさを見せていた。
「こちらこそ、はじめまして。桜河薫子でございます。祐里さんが親しくしていただいているようでございますわね。よろしければ、お近づきの印に次の日曜日にお茶にいらっしゃいませんか」
「まぁ、ありがとうございます。嬉しいですわ。お言葉に甘えて伺わせていただきます」
「お待ち申し上げております」
奥さまと結子は気が合って、柾彦と祐里の横で世間話を始めていた。
「母上の長話に付き合っていたら夜が明けてしまうからね。姫、あちらで何か飲み物をいただきましょう」
柾彦は、結子に聞こえないように祐里の耳元で囁いた。祐里は、頷いて柾彦に従った。
「祐里さんとあちらで飲み物をいただいてきます」
柾彦は、結子と奥さまに断ると祐里の手を取り誘導した。
柾彦は、林檎の果汁を二つ取り、傍らの椅子に祐里と一緒に腰かけた。
「びっくりしたなぁ。姫の母上さまに会って緊張したところに、母上まで登場してくるのだもの」
「私も驚きました。柾彦さまのお母さまは、とても優しそうなお方でございますね」
祐里は、柾彦の快活さは母親譲りだと感じていた。
「姫の母上さまだって優しそうだし、姫に似てすごく綺麗な方だね」
柾彦は、奥さまと祐里の雰囲気が血は繋がっていなくてもよく似ていると思った。
「奥さまは、私の理想の方でございますもの。柾彦さま、私は、桜河のお屋敷でお世話になっておりますが実の娘ではございませんの。本当はこのような晩餐会に参会できる身分ではございませんし、柾彦さまと親しくお話しさせていただける立場ではございません。先程は、あの方の非礼な言葉に気分を害されましたでしょう。私のような者のために申し訳ございませんでした」
祐里は、柾彦に誤解されたままでは申し訳なく思い、真実を話して深々と頭を下げて謝った。柾彦には隠し立てをしたくなかった。
「それで、旦那さまや奥さまと呼んでいるのだね。ぼくには、お二人が姫のことを実の娘のように可愛くて仕方がないと思っていらっしゃるって感じられるよ。姫が頭を下げる必要なんてないよ。姫は、素敵な女性なのだから誰にも引けを取らないし、気兼ねすることもないさ。姫の誇りを汚すような失礼な野獣の言うことなんて気にしないほうがいい。姫は、誰がみても桜河家の気高き姫なのだからね」
柾彦は、上着から漂う葡萄酒の香りと隣に座る祐里の甘い香りに酔いしれながら(慎ましやかでありながら、誰よりも気品を感じさせる美しさを持ち合わせた祐里が気にする身分や立場とは、いったい何なのだろう)と祐里の美しい顔を見つめながら考えていた。
「柾彦さまは、本当にお優しい方でございますのね。光祐さまもいつもそのようにおっしゃってくださいます」
「兄上さまのこと」
「はい。今は都の大学に行っておられますが、とても強くてお優しい御方でございますの」
祐里は、頬を桜色に染めて遠くの光祐さまを想った。柾彦は、祐里の瞳が隣にいる自分を透り越して光祐さまに注がれているのを感じた。それでも、野蛮な文彌のような男から祐里を守りたいとこころから思った。祐里といると柾彦のこころは満たされ安らぎを感じることができた。柾彦にとって祐里への想いは、初恋のようでもあり、姫を警護する『守り人』の使命感に溢れていた。
「姫の兄上さまにも会ってみたいな」
柾彦は、祐里のこころを夢中にしている光祐さまを自分の目で確かめたいと思った。
「もうすぐ夏の休暇でお帰りになりますわ。柾彦さまと気がお合いになると思います」
「兄上さまにお会いできる日が楽しみだよ」
柾彦は、祐里と共に遠くの光祐さまに思いを巡らせた。
帰りの際、柾彦は、祐里と結子が挨拶をしている隙に奥さまに文彌との経緯を告げた。
「また、祐里さんに近付いてくると思いますので気を付けてください」
「まぁ、そのような事がございましたの。ご忠告、ありがとうございます」
奥さまは、無垢に微笑む祐里を心配して見つめ、女性として今まさに蕾が開花を始めた祐里の色香に気付いた。そして、尚更、好青年の柾彦に好感を持った。
帰りの車中でも、祐里は、何事もなかったかのように、いつもの笑顔で奥さまに話しかけた。奥さまは、そんな祐里がいじらしくて思わず抱きしめていた。祐里は、奥さまの優しい胸の香りに包まれて安堵していた。
寝る前に湯に浸かった祐里は、文彌から触れられた首筋から胸にかけての肌を石鹸で念入りに洗った。ふと、気が付くと湯気よけの天窓の隙間から、深緑の桜の葉がひとひら舞い降りて、祐里の首筋にはらりと留まった。すると不思議なことに赤みが消え、祐里は清められたようにこころが安らぐのを感じた。(桜さん、ありがとうございます)祐里は、両手で桜の葉を包み込んで手を合わせた。庭の桜の樹は、緑色の葉をさやさやと風に靡かせて祐里の感謝の声に耳を傾けていた。
その夜、奥さまは、文彌のことを旦那さまに報告した。旦那さまは(祐里は、十六になってから一段と匂いやかになった。悪い虫が付かないように気を付けねばならぬ)と考えていた。翌日、旦那さまは、弁護士を通じて榛家へ抗議した。榛家では、面目を保つ為に文彌を地方の支店へと転属させることにした。
次の日曜日、鶴久結子と柾彦は、桜河のお屋敷のお茶会に招かれ、おみやげに桜の挿し木を持ち帰った。その桜の挿し木は、鶴久病院の庭で見事な枝を広げることになる。それとともに鶴久病院は、大きな病院となり、ますます医療を発展させていった。
夏の休暇に入り、お屋敷に帰省した光祐さまは、祐里から柾彦を紹介された。祐里に優しいまなざしを向ける柾彦に対して光祐さまは、弟のような既知の親近感を抱いた。柾彦は、光祐さまの隣にいる祐里が一段と美しくそれでいて寛いでいるのを実感し、光祐さまの絶大なる存在を思い知った。光祐さまに会うまでは、祐里の相手として自分にも可能性があるのではと考えていたのだが、柾彦の恋心は瞬時に打ち砕かれた。
光祐さまは、夏の休暇中、事ある毎に柾彦を誘って祐里と三人で楽しんだ。それからというもの柾彦は、光祐さまを兄のように慕い、末永く二人の交流は続くこととなった。
投稿日 2008-09-25 15:38
ワオ!と言っているユーザー
投稿日 2008-09-26 02:17
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投稿日 2008-09-26 02:58
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投稿日 2008-09-26 05:08
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