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無明残日抄

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太鼓パイオニア

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2002年11月北米報知掲載。

 ずぅーん、ずぅーん‥‥。ずうん‥でもなければズーン‥でもない。欅の大木をくりぬいた大太鼓の音と響きに、太古から眠っていた祖先の血が騒いだのか、得も言われぬ震えが背筋を駆け昇る‥‥。 実はこれ過日ベナロヤホールに於ける「鼓童」演奏会での経験ではない。23年前の1979年、シアトル桜祭に於いて「鼓童」の前身である初代「鬼太鼓座」の生演奏を初めて聴いた時の感動である。
 和太鼓というと「鼓童」や現在の「ザ・鬼太鼓座」に代表される組太鼓と思われがちだが、この組太鼓の形は古くからあったものではない。現在の組太鼓の形式は戦後の民族芸能復活の中で「御諏訪太鼓」創設者小口太八師が古来の演奏法をオーケストラ的に組み合わせものを初とするのが定説のようだ。この組太鼓が世界に日本音楽の代名詞ともなる今日の礎を築いたのが、田耕(でん・たがやす)氏であった。早大時代、学生運動の闘士だった氏が学生運動に挫折放浪の中、和太鼓に出会い急成長の社会から落ちこぼれた青年達と共同生活で新潟県佐渡に「鬼太鼓座」を作ったのが1968年頃、そして1975年、その成果をアメリカ、ボストンマラソンにて女子を含む座員全員が完走後、ただちに舞台に駆けあがり大太鼓の演奏という衝撃的デビューで飾るのである。この年からボストンマラソンには連続して出場。その帰途79年、80年とシアトル桜祭に参加する。83年の桜祭には天野宣師指導の山梨県航空学校生徒の「雄飛太鼓」参加。これらの公演がシアトルの音楽青年達に与えた影響は現在、七組もの太鼓グループの活躍で計り知れよう。1979年は文字通りシアトルにとっては太鼓元年だったのである。79年の「鬼太鼓座」シアトル公演に関して隠れた逸話がある。シアトル桜祭は当時、日米協会の主催だったのだが、「鬼太鼓座」というのは、どうも共産主義者の集まりらしい、そのような団体を後援するのはいかがなものかという意見が出たのである。共産主義者というのは田氏の前歴に言及してのことだが、いまだ東西冷戦の只中のことで、今なら笑い話しになるのだが。もちろん取り越し苦労であった事は言うまでもない。
 世界各地での興行の成功でスターとなった青年達に自立の気持ちが芽生えたのは当然のこととはいえ田氏の考えとに溝を生ずる結果となる。自ら育てた若者に道を譲り、田氏は佐渡を去り九州の地で第二の「鬼太鼓座」を作ることとなり、佐渡のグループは「鼓童」という洗練されたプロ集団として成長、今日に至る。そして独立したメンバーからは、一流ソロ太鼓奏者の林英哲などが出るのである。分裂の際の確執はあろうが、源を一つとする両団体が互いの存在を無視するかのような昨今の態度は発祥を知るものとしては残念な気がしてならない。
 田氏は一時期、シアトルに事務所を置いていたことがある。森口富雄氏の子息タイラー君が「鬼太鼓座」にスタッフとして加わっていた縁もあっての事だが、その頃「鬼太鼓座」の公演を日本館劇場でした際が田氏と話した最後だった。しばらく前に森口氏から田氏の健康が優れない由をうかがった事があったが、又の再会を楽しみにしていた。氏が昨年四月、合宿地である富士の裾野の近辺で交通事故により亡くなられた事を知ったのは最近である。享年69才だっだ。
 はじめてのシアトル公演の時、わずかな出演料でホームステイ自炊の青年達を不憫と思ったのか、後援者の方が日本料理店に招待して下さったのだが、気がつくと全員が左手に箸を持っているのである。全員が左利きというのも妙ときいてみると、太鼓に両手を均等に使えるよう普段から食事は左手を使うようにしているとの答えである。けっしてパブリシテーをねらった行為でないことは特別のこととは考えていない様な彼等の言動で明らかだった。彼等はうまく演奏しようとは考えていなかったろう。走り抜いて鍛えた身体から溢れるエネルギーの全てを太鼓にぶつけていたのが彼等の演奏だった。
 あれから20年以上が過ぎている。今のシアトルの太鼓グループのメンバーの多くは生まれてもいないのである。
 田耕(でん・たがやす)本名:田尻耕三。その名の通り田さんは田を耕し続けてきた。彼の後ろで田は世界に広がり新しい稲穂が次々と実るのを、歓喜する客席の後で壁に張り付くようにして静かに見つめる氏を、私は今日も太鼓演奏会場に見るのである。
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