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AZTスペシャルインタビューVol.02 プロバスケットボール 松田鋼季選手【前編】

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AZTスペシャルインタビューV... 松田鋼季(まつだ こうき) 1... 松田鋼季(まつだ こうき)
1985年2月22日生まれ。北海道礼文島出身。
身長185cmとバスケ選手としては小柄ながらも
3ポイントシュートを武器に、
10年以上アメリカでプロ選手として活躍。
2025年1月からはPhoenix Valley Outlawsに所属。
AZTスペシャルインタビューV... オフシーズンはアリゾナを離れ、... オフシーズンはアリゾナを離れ、
日本や海外でトレーニングキャンプに参加したり
子どもたちにバスケを教える生活を送っている。
10年以上にわたり、アメリカでプロのバスケットボール選手として活躍されている松田鋼季選手が、新たにプロチームの「Phoenix Valley Outlaws」と契約を結んでアリゾナ州に戻ってきました! 明るく親しみやすい性格で、アリゾナではすでに多くのファンに愛されている松田選手。アリゾナタウンで取材を申し込んだところ、快く応じてくださいました。
バスケとの出会いからアリゾナでの生活についてまで、松田選手へのインタビューを前編と後編の2回に分けてお届けします。
 

― はじめに松田選手についてお聞かせください。バスケとの出会いはなんだったのでしょうか?

父がバスケをやっていて、マイケル・ジョーダンや、当時Phoenix Sunsのエースプレーヤーだったチャールズ・バークレーのNBAファイナルの試合なんかをよく観ていたんですよ。それを僕も一緒に観ていて、幼心に「バスケの選手ってすごいカッコいいな」とか、「すごいお金持ちなんだろうな〜」といった印象を強く持ちました。そして、そんなカッコいいマイケル・ジョーダンに憧れて、自分もバスケをやってみたいという夢を抱くようになったんです。とはいえ、僕が育った礼文島という島は、人口3000人にも満たない漁業が盛んな小さな島。バスケのチームはなく、男子は野球、女子はバレーボール、冬はスキーをするというのが当たり前の環境でした。そのため、バスケをやりたい気持ちはありながらも、小中学校の間はほとんどふれる機会がありませんでした。本格的に始めたのは、札幌の高校へ進学してからなんです。
 

― マイケル・ジョーダンが夢のきっかけとのことですが、日本国内で憧れている選手や尊敬している選手はいますか?

正直、アメリカのバスケ選手たちの衝撃があまりにも強すぎて、日本国内で憧れの対象となる選手は思い浮かびません。もちろん、現役でNBAで活躍している八村塁選手は素晴らしいと思います。でも、現実離れした憧れという意味では、マイケル・ジョーダンを超える存在はいないですね。力強くダンクシュートを決める姿や、スーパーカーに乗って会場に登場する姿など、これまで見たことのない世界を見せてくれたことで強く憧れるようになったので、日本国内に同じような存在はいないですね。
 

― 高校からバスケを始めて、アメリカでプレーをするまでには相当な努力をされたことと思います。学生時代はやはりバスケ漬けの毎日だったのでしょうか?

まずバスケの経験がなかったので、高校はバスケがすごく強いような私立校ではなく、いい指導者のいる公立高校を選んで文武両道を目指しました。ここで、その“いい指導者”であるバスケの先生に基礎を築いてもらったんです。先生は当時20代と若かったのですが、国体選手の指導をするほどの実力を持つ方で、僕のことも何かと気にかけて公私にわたり熱心に指導してくださいました。今でもその先生とは連絡を取り合っていて、シーズン前にはアドバイスをいただいたりしているんですよ! 僕にバスケの楽しさや好きになるきっかけ、夢を与えてくれたのは父とマイケル・ジョーダンですが、技術や基礎を教えてくれたのは高校時代のバスケの先生で、今も心から感謝しています。
高校を卒業後は大学に進学し、約1年弱ロサンゼルスへ留学しました。実際のところは、語学学校に通う名目でバスケをしに渡米したようなものですけどね(笑)。留学中は、ストリートバスケで有名なVenice Beachでひたすらバスケに明け暮れました。それこそバスケ漬けの毎日ですごく楽しかったんですけど、同時にアメリカにおけるバスケのレベルの高さを痛感したので、日本に帰国後はバスケを続けることを諦めて地元の放送局に就職する道を選びました。
 

― なぜまた放送局という異色の職業を選ばれたのですか? 何か特別なきっかけがあったのでしょうか?
 
関東の大学に進学したんですが、東京は北海道の札幌と比べても人があまりに多くて、「正直、ここには住めないな」と思いました(笑)。そこで、就職は地元の北海道に戻りたいと考えて、札幌で就職活動をすることにしたんです。なんで放送局だったかというと、礼文にいた頃の唯一の娯楽がテレビを見ることだったので、「制作したり出たりする側になるのはおもしろそうだな」と思って興味を持ちました。その後、運よく札幌の放送局に就職でき、一番厳しいと言われる社会部に配属されて、報道記者として事件や事故の現場に足を運び、ニュースを伝える仕事に携わりました。
 

― 一度就職されたのになぜ再びバスケの道に進もうと思われたのでしょうか?
 
就職して2年目くらいですかね。突然、携帯電話に国際電話がかかってきたんです。相手は、留学時代にVenice Beachでバスケをしていたときに知り合って居候までさせてもらった親友のお母さんでした。彼女は、親友が銃で撃たれて亡くなったということを知らせてくれたんです。その親友は僕が日本に帰った後も、「いつになったらKoukiはプロのバスケ選手になってまたアメリカに戻ってくるんだ」とずっとお母さんに話していたそうです。その言葉を聞いたとき、バスケはすでに諦めたつもりでいたんですけど、アメリカ人との身体的・技術的なレベルの差を理由に諦めるのはどうなんだと考え直したんです。この出来事をきっかけに、報道記者として働きながら再びプロのバスケ選手を目指して練習を始めることになりました。それが2009年のときのことです。
 

― 過酷な報道の世界に身を置きながらプロを目指すというのは、さぞかし大変だったかと思います。どういった経緯で最初に所属したチーム、Chicago Steamに入られたのでしょうか?
 
報道記者という仕事は、事件や事故があれば夜中でも呼び出されることがあります。当然、深夜業務もあり、バスケの練習ができない環境の中で過ごさなくてはならない日々もありました。そんな中でプロになるために体を作って、気持ちも整えて、技術を磨くというのは本当に厳しかったです。そうした状況下で約1年半、バスケの練習とトレーニングを続けていたところ、2011年にチャンスがやってきました。シカゴのチームからオープントライアウトへの参加を受け入れるという連絡が来たんです。それが、後に僕が最初にプレーをすることになるABAリーグ所属のChicago Steamというチームでした。今考えるととても無謀な挑戦だったと思うんですけど、いくつものチームに連絡を入れた中で唯一前向きな返事をくれたのがChicago Steamだったので、3泊5日の弾丸スケジュールで渡米してトライアウトを受けに行きました。およそ200人弱が書類選考を通過してトライアウトに参加していましたが、2日間の選考中に自分でもびっくりするくらいシュートが次々と決まって、結果として僕1人だけが合格することができたんです。そうしてその場で契約を結び、プロの世界に飛びこむことになりました。アメリカでプロのバスケ選手になるという夢が叶った瞬間でした。
 
 
……【後編】につづく
 
 
 
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