化灯籠(日光・二荒山神社)献納者の謎
2月
9日
その一つは、日光・二荒山神社本殿前に化灯籠が奉納されているが、その献納者のことである。唐銅製の化灯籠の由来はともかくとして「願主、鹿沼権三郎入道教阿、正応五年(1292)壬辰三月一日」とある人物のことだ。
教阿は藤原秀郷流佐野家の一族で系譜によれば、鹿沼姓を称した行綱の子になる。佐野家は日光山信仰について、行綱以前から強い帰依を示していた。
鹿沼氏が鹿沼の在地豪族であることは「鹿沼近郷を領し日光神領を掌り支配してありし人なるべし故に神徳を仰ぎて灯籠を献ぜしなるべし」と伝えられている通りだ。しかし鹿沼氏について、教阿以後は消息がなく、正応以来200年余も過ぎたころ、初めて鹿沼氏がでてくる。
大永(1531-)年中、鹿沼右衛門太夫教清というものが宇都宮忠綱と争い、鹿沼の東、黒川を波った上野台の合戦で討死、鹿沼氏は没落してしまった。そのあとに現れたのが壬生氏である。初め壬生氏はいまの壬生町に居を構えていたが、二代綱重が鹿沼に在住その子綱房が鹿沼城を構築し、日光神領惣政所として鹿沼一円を支配した。綱雄、義雄と続き、宇都官氏、小山氏の二大家族間に介在する在地勢力として勇名をはせていた。
義雄の時、すなわち天正18年(1590)、秀吉の小田原征伐があり、義雄は小田原に味方して、相模国酒勾川に陣殻した。それゆえに小田原陥落後、壬生氏は秀吉によって所領を没収され、家名は断絶してしまった。鹿沼城も廃城になって、江戸時代にはいる。
治乱興亡の流れが、まことに順序よく記載されたかのように見えるが、われわれにとって最大の謎は鹿沼教阿以来200年余もの鹿沼氏の空白である。さらに、そのあとに出てきた壬生氏の鹿沼入部の時期も謎である。一部では鹿沼築城の綱房が鹿沼入部とされているようだが、その父綱重はすでに永正7年(1510)鹿沼に館を構えていたことは、連歌師宗長の旅日記「東路のつと」に明らかだ。
鹿沼宿の先覚者山口安良はすでに文政年間(1818-)、その著「押原推移録」でいち早くこうした点をつき、論考を残している。山口安良から150年を経た現在、再びこの問題を提起しなければならないということに、いささか郷土史家として情けない気がする。しかしこうした謎は鹿沼史ばかりでなく、限られた史料にしか頼ることのできない郷土史記述にとって共通の問題ではなかろうか。
偶然にも「日光山列祖伝」の中に、三八世権別当昌喩(応永元-18年、1394-1411)は当国の豪族壬生氏の一族であるという記載を発見したが、早くから鹿沼史は日光山との関係において考察せねばならないという信念をもっている筆者にとって、これが事実とすれば、その10代あとに現れる、壬生綱房の次男とされる権別当昌膳の存在とともに鹿沼氏壬生氏の動向について新しい展開がでてきそうな予感がある。日光山列祖伝とは日光山座主の系列を示したものである。
未公開の史料が今般県史編さんの史料編として数多く発表されることになるが、県内の郷土史家のために従来の郷土史の謎を解く重要なカギになってくることを強く信じている。