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栃木県の歴史散歩

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戦国期の刀工たち 名王国広、足利に滞在 長尾氏のために鍛刀

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 わが国の代表的な武器として、まず第一にあげられるのが刀剣である。かつては、武士たちの盛んな需要と保護によって、鍛治の技術が発達し、諸国に名工が生まれた。下野の刀工といえば、幕末のころ鹿沼に輩出した細川一派が有名だが、それ以前にも、多くの刀工たちがいた。
 足利市にある真言宗の名刹・鑁阿寺所蔵の文書のなかに「綱切の太刀」という佐野天命宿の刀鍛治がつくった太刀のことがみえる。太い綱を一刀のもとに切ってしまう、豪壮なつくりの業物だったためにつけられた名であろう。時代は室町のころ。当時、天命(明)宿には鋳物師のほかに刀工がいて鍛刀に励んでいたことがわかる。
 また鑁阿寺の文書(年代欠) によれば「堀内」と「河原町」とに鍛治職人が住んでいた。堀内鍛治とは、鑁阿寺寺の境内かその周辺、河原町鍛治とは渡良瀬川の近くに住んでいた鍛治職人を指すのだろう。
 文書中には「古釘」のこともみえる。釘といっても現在使われているような短めのものではなく、14、5寸に及ぶ長いもの。現在、刀匠として人間国宝に指定されている宮入昭平氏などは、鍛刀の際には旧家を解体した時にでてくる長い「古釘」を使用するそうである。
 むかしも、刀つくりに古鉄を使うことが好まれたらしい。鑁阿寺文書の「古釘」も、その用途は鍛刀にあったのではないだろうか。
 さらに、天正18年(1590)8月、名工として名高い堀川国広が足利学校に滞在して、刀をつくっている。田安家旧蔵の天正18年8月年紀の小脇指(こわきざし)には「於野州足利学校打之」との銘がある。
 国広は日向国(宮崎県)古屋の人で、天正5年12月、主家の伊東家が没落し、伊東満千代(マンショ)に従った。刀剣研究・鑑定家の佐藤貫一氏の研究によれば、国広の現存する作刀は、天正4年から慶長18年に至る37年間にわたっている。この間、天正10年には伊東マンショが遣欧少年使節の一員として遠くローマヘ派遣され、国広は山伏として隠棲したという。
 さらに国広は「九州日向佳国広作」「天正18年庚寅(1590)弐月吉日 平顕長」と銘のある山姥切と号する刀を鍛造している。平顕長というのは足利城主長尾氏。国広が長尾氏のために鍛刀したことがわかる。
 天正18年は、豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼした年である。北条方に味方し、小田原に在陣した足利城主長尾氏は、この後領地を失って没落していく。短い銘文のうちに、激変する時代をかいま見る思いがする。
 宇都官市の北方、12キロ余。旧日光街道の宿駅徳次郎(とくじら)(宇都宮市徳次郎町)、最近は道路建設などで変わっているが、室町後期には、ここにも守勝、重勝、勝広という刀工がいた。
 なかでも守勝の作品は、室町期に流行した独特の相州彫をうまく模倣しているという。これらの刀工たちの作品のなかには、県の重要文化財に指定されているものもある。そのほか、永禄のころ、活躍した頼光、元亀のころの定勝なども「徳次郎の刀工」である。
 徳次郎には「鍛治打ち」の地名や「鍛治神」の小さな石のほこらが残っている。また、戦国大名宇都宮氏に仕えた新田氏の城跡の土塁や空濠がはっきりと残っている。刀工たちのつくった刀は、宇都宮氏や新田氏の需要に応じるものであったのだろう。
 昨今の刀剣ブームは実にすさまじい。一種の投資の意味もあるのだろう。だが、日本刀を優れた文化遺産として保護しようとするのであれば、もう少し別の面からの保護対策も必要ではないだろうか。
 東京都渋谷区代々木にある刀剣博物館は、わが国でただ一つの常設の日本刀博物館だが、余り知られていない。県立の総合博物館を設け、館内に刀剣室を設けて郷土にゆかりある刀工の作品などを常設したなら、どんなに刀剣の理解に役立つことだろう、と思われてならない。

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