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結城氏の「新法度」~家臣統制「大名」維持

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 下野の小山氏は平安時代以来、下野の国衛(こくが=国司の役所)を中心に勢力を張った名族であった。小山政光の子、朝光は将軍源頼朝に仕え下総国結城に拠り、はじめて結城氏を名乗った。この結城氏は本宗(=宗家)小山氏、同族長沼氏らと肩をならべる有力な御家人として活躍。さらに南北朝、室町の戦乱の時代をたくましく生き抜き、佐竹、宇都宮、小山の諸氏とともに「関東屋形」とよばれた。その結城氏は「法度」と呼ばれる一種の法律で軍事的統制を強化し、領国支配を確立、小さいながらも戦国大名としての面目を保持していた。
 結城氏は朝光よりかぞえて11代目の氏朝の時、有名な「結城合戦」で敗れ、一時、衰えた。この合戦は永享12年(1440)、結城氏朝が鎌倉公方足利持氏の遺児である春王、安王らを擁して幕府に反抗した事件である。しかし、結城氏の奮戦むなしく、翌年結城の城は落ちて氏朝は自殺をとげ、春王、安王らは捕らえられ、のち殺された。
 ところが14代の氏広、15代の政朝になって再び勢力を回復させた。とくに政朝は、結城家の中興に尽力するところが大であったといわれる。この政朝の子、政勝こそ「結城氏新法度」の制定者である。政朝は父祖の遺業を継承し、戦国大名としての才覚をいかんなく発揮し、宇都宮氏や常陸の小田氏らとしばしば戦っている。
 この法度は別名「結城家法度」「結城家新法度」「結城政勝法度」などとも呼称される。本文の後に次のような奥書が見える。
 弘治二年丙辰十一月二十五日新法度書レ之政勝(花押)
 さらに、この後に2カ条の追加と家臣連署の請文があり、おわりに政勝の次代晴朝審判の1カ条がある。政勝は「結城系図」によれば永禄2年8月1日に56歳で死去している。この没年を信ずる限り、この法度の制定は政勝の晩年、53歳の時にあたる。
 まず、この法度は冒頭に法度制定の趣旨を述べた前文があり、ついで104カ条に及ぶ本文がある。その前文は欠字などがあるが、その末尾に「後代に於ても此の法度たるべく候」(原漢文)とあるところからして、この法度を制定した決意がうかがわれ、家臣に対する強力な統制の姿勢がは握できる。下野とも関連ある結城氏の法度のうち、とくに注目できる規定について紹介してみよう。
 新法度第4条は、けんか口論などの沙汰に加担することを固く禁じている。第5条では、けんかをしかけられ、やむなく相手になった者を改易に、また、けんかの一方に加担した場合は一族を改易に処し所帯や屋敷を没収するとある。さらに第6条は非常識・不当な言動をしかけられても自制して、とりあわないこと、慮外(りょがい=ぶしっけなこと)をしかけた者には処罰を加え所帯、屋敷を没収する。
 戦国家法のなかでもけんかに関する規定は決して一様ではない。「大内氏壁書」によると、はじめ当事者間の私的解決に任せていたが、後に主君である大内氏が理非を裁決することになっていた。伊達氏の「塵芥集」では、しかけた方を罰するとあり、「今川仮名目録」では、けんかの本人は死罪、力を合わせて助けた人の負傷、死亡は沙汰に及ばずとみえる。今川氏自身の裁量がかなりあったことがわかる。
 さらに「甲州法度」によれば、けんかの本人は是非を問題とせず両方に成敗を加える、けんかをしかけられても堪忍した者は処罰しない。力を合わせて助けた人は同罪であるという。いわゆる「けんか両成敗」の規定であり、誠に厳しい掟である。
 けんかをしかけられても堪忍を重ね、こらえ自制してとりあわないことである。戦国の武士にとって耐えられるものではなかったはず。けれども結城氏は、けんかをしかけられても、とりあうなという。私闘によって家臣たちの間が分裂し統制力の及ばなくなることを憂慮して、このような「堪忍」「忍耐」の規定が加えられたのであろう。
 けんかの当事者を理由のいかんにかかわらず処罰するのも厳しい。しかし、けんかをしかけられても決してとりあうな、応じるならば処罰を加えるという規定はさらに厳格ではないか。けんかの発生自体を恐れ、このような規定を加えた点に結城氏の家臣統制をゆるがせにしない態度を感じる。
 このほか結城氏の承認なしに家臣が結婚をしてはならない▽朝夕の寄り合いにおける飲酒の制限▽私の相談事の厳禁▽酒に酔い結城家の当主の目の前にでて申し立てをしてはならない▽敵地の者と音信してはならない▽結城氏の定めた制礼に違反する者は厳重に罰する。これは何人の弁護をも許さない、などが定められている。
 第56条に放火犯は特別の重罪として「はりつけ」にすることがみえる。また、第17条には市場や神事、祭礼の場所に奉行を置くことがみえる。商業活動に何らかの統制を加えていたのだろう。
 第54、55の両条にわたって家臣の放れ馬を稲作を食い荒らしたといって尾を切ったり、たたいたり殺したりしてはならぬこと、やたらと捕らえて金とひきかえに渡すということは盗人同様の所行であるという規定がある。戦闘における機動力は馬にかかっていたことを示すものである。
 ひとたび合戦となると、結城の本城に螺貝の音がとどろき(=第67条)、家臣はその身代、財産に合った所定の武具や兵員を従え、かけつけた。10貫文以上の手作り地(直営地)をもつ侍は、一匹一領(馬1匹、具足1領、従者なく自分一人で乗馬する)、5貫文以上の者は具足被り物持ちという、いでたちであった(=第66条)。
 螺貝が鳴ったら使者を出し、どこへかけつけるべきかを確認した上で、かけだすことをすすめている(=第67条)。大きな貝の音は外の事件、小さな音は結城のおひざもとでの事件であった。しかし、武装せず一騎でかけだすことは禁止されていた(=第68条)。
 鎌倉時代のころには先懸(さきがけ)の功名という言葉の通り抜けがけすることは軍功の一つであった。しかし、戦闘法はもはや、かつての一騎打ちから歩兵である足軽隊を中核とする集団戦法に変化していた。命令をうけたわけでもないのに、抜けがけをし、敵に殺されても、それは忠義の行為ではなく(=第69条)、軍陣においても退却の際に、ひとり踏みとどまり、あるいは進撃の時に単身で飛び出すという行動を禁止している(=第70条)。
 さらに結城氏の親衛隊というべき馬まわりの武士については他の部隊に加わってはならない、独立の部隊として10騎、20騎一隊となって行動すべきこと(=第71条)。また、出陣中、勝手に帰ることも禁じている(=第96条)。
 このほか注目できるのは、寄親、寄子制である。寄親(親方)、寄子(寄騎、与力、同心、指南などともいう)の制は戦国大名の軍事組織の中心であった。従来は惣領(一族の長)が一族を統率していたが、戦国期にはいると大名は有力家臣を寄親とし、これに小武士を寄子として配属させ支配させる傾向がおこってきた。これは崩壊しつつあった族的結合にかわるものであり、百姓、牢人(ろうにん)などを、あまねく軍事組織にくみこむ必要があったからである。
 第8、31の両条から結城氏の領内にも、この制があったことがわかる。戦国の世にあっては平時も戦時体制であったから、この寄親。寄子の関係は常に保たれ平時には上意下達がおこなわれ、結城氏の命令が家臣に徹底的に伝えられた。また、寄子の訴訟を寄親が主君に上達する権限をもっていたのである。

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