古文書にみる中世のお天気 五重塔も吹き倒さる
12月
2日
このように徴妙に変化する〝お天気〟は、人間の生活を制約し、おびやかしさえする。科学文明の高度に発達した現代でもこんな訳だから、江戸時代にはなおさら。鎌倉・室町時代には、最も深刻な問題の一つだった。
とりわけ中世には、干ばつは非常に恐れられた。田植えどき、カンカン照りが続くと田にひび割れができ植え付けることができず、秋の収穫は激減。必ずといってよいほど飢饉になった。
その一つに、治承4年(1180)から養和元年(1181)にかけての飢饉があげられる。鴨長明の随筆「方丈記」からも、その惨状が想像できる。
世の中、飢渇して、あさましき事侍りき。…ついひぢ(築地)のつら、路の頭に飢死ぬる類ひは、かずもしらず。
気象災害史の研究家としても知られる気象学者荒川秀俊博士は、この養和の飢饉について専門の立場から面白い結論を出している。
つまり、干ばつで大きな被害をうけるのは西日本であること、西日本はいうまでもなく平氏の根拠地であり、兵糧米の補給地であること、平氏が源氏と富士川で対決したのは治承4年(1180)10月20日、ちょうど古米と新米のいれかわる端境期に当たり、米の大消費地である京都では、すでに深刻な食糧問題がおこっていたことなどを挙げ「平氏を走らせたものは水鳥にあらずして飢餓の大衆であった」と指摘している。
いわば干ばつが平氏を敗退させたというのだ。天候が歴史上の事件に影響を与えた一例として興味深い。
近世史料のうちで、日誌類のなかには、天候をこまめにつけたものもあり、気象学者が指摘するように、こうした史料を一括して保存するとか、一覧表をつくっていくことが確かに急務だろう。
誠に幸いなことに、栃木県では日光東照官に「御番所日記」が所蔵されている。17世紀から幕末までの東照宮御番のありさまが、克明に記されている。同時に200余年の日光の天候が、わかることも忘れてはならない。
今市市文化財保護委員長の森豊氏は、「御番所日記」を丹念に調べ、「日光の災害」としてまとめ、日光東照宮の社報「大日光」に発表されている。
ところで、栃木県の中世史料のうち〝お天気〟に関するものとなると、極端に乏しい。氏家町の西導寺に所蔵されている「今宮祭杞録」については、すでに紹介したが、その記述のなかに気象関係の記事が含まれている。
天文元年(1532)、現在の氏家町を中心とする地域では、穀物の実りが悪く「不作」だったことがみえる。続いて天文9年(1540)8月には、異常な「大風」のため著しい被害がでている。
八月十四日、亥剋(午後9時)より丑の時(午前1時)まで大風吹き、世間の様体中す計りなく候。宮(宇都官)にては東勝寺の五重塔を吹き返し候。なおも世間の堂塔など、みなことごとく吹きふせ候。さる間、人民あまた、吹きころされ候、当社にも古木数九十本かへり申候
宇都官の東勝寺とは、田川沿いにあった寺で、宇都宮貞綱が父景綱のために建立したもの。七堂伽藍の備わった、立派な寺院だったらしい。宇都宮氏の没落にともない廃寺になった。
東勝寺の五重塔が倒れ、神社の古木が数多く倒されれ、人間が吹き殺された、というのだから、大変な「大風」である。
また永禄6年(1561)7月29日から「大風」に加えて「大雨」が降り、8月1日の己の刻(午前9時)には「大水」になった。台風の襲来によるものだろう。
さらに天正4年(1576)には「長雨」が降り、穀物の実りが例年の「半作」だったため、祭礼が営めなかった、という。
さて、栃木県の中世史料の宝庫の一つは、日光山常行堂である。この堂の本尊は宝冠阿弥陀如来。護法神として摩多羅神をまつり、正月初めの修正会、正月14日の慈覚大師の忌日会などが営まれる。ここには多くの古文書・古記録が伝えられている。
そのうち「常行堂施入帳」という記録は僧侶や武士からの施入物を、年代を追って記述したもの。源頼朝、源実朝の念珠施入から始まり、天正12年(1584)8月の施入で終わっている。
このうち応永21年(1414)12月23日のこととして、
大風に常行堂、吹き破られるなり。然る間、本尊ならびに摩多羅神、立て奉るところ無きによって、当上執事恵乗坊へ入仏奉るなり。
寒冷前線の通過に伴う突風だった、とみられる。ほかにも相当な被害があっただろう。今のところ、ほかの史料には全く見えない、きわめて重要な記事といえる。