中世の市場~昔もあった「公正価格」
7月
3日
下野の豪族・御家人の宇都宮氏が定めた〝法律〟、「宇都宮家弘安式条」の中には、3ヵ条にわたる〝市場〟関係の規定がある。これで、弘安年間(1278─87)、宇都宮氏の領内にも、市場があったことがわかる。
その規定は「迎買」(むかえがい)「押買」(おしかい)の禁止、宇都宮二荒山神社の職員の商売の禁止である。
平安時代、売買が円滑にいくのを和市(わし)、おどしたり、暴力を使って、強いて物を買うことを「強市」(ごうし)と呼んだ。この場合、当時の市司(いちのつかさ)という役人が取り調べに当たったらしい。公正価格を設定し、売買を円滑にしようというのである。
この強市が、中世にはいると、迎買とか押買といわれるようになった。鎌倉幕府法も、しばしば押買を禁止している。不法行為は絶えなかったものとみえる。
社寺の門前は、祭りなどのとき多くの参拝者が集まり、臨時の市がたった、といわれている。宇都宮氏の領内では、二荒山神社が、崇敬(すうけい)を集めていた。式条にみえる市は、恐らく二荒山神社の社前に開かれた市場だろう。
しかも式条には「市々」とある。複数の市が存在したとみることができる。このように、宇都官氏が、領内の市場を統制。保護したのは、取引をふやし、領主の財源である市場税や営業税を取るためだった。
下野の市場にふれた、数少ない文書の一つに、「武州文書」所収の延文6年(1361)9月9日付、応永22年(1415)7月20日の追記のある〝市場祭文〟がある。
この文書は、市場のはじまりを天竺(てんじく=インド)、中国から説きおこし、わが国では古来、大きな社寺の祭礼に市場が成立したと述べている。その一節に、
「下野国日光権現も中市を立たまふ」(前後略)
という部分が出てくる。この後武蔵国内の市場が列挙されている。
中世の日光山は、広大な所領と強大な武装力を持っていた。宗祇門下の連歌師宗長の紀行文「東路のつと」によると、「坂本」(現在の日光市中鉢石付近)は永正6年(1509)ごろ、民家や院、僧坊がたくさん立ちならび、大変なにぎわいだった。応永期(1394─1427)、日光に市場があった、と考えてもいいだろう。
このように記録上、下野では、鎌倉、室町期に、2つの市場を数えることができる。いずれも、社寺の門前に発達したものであることに注目したい。
室町、戦国期は、市場の数がふえ、市の開かれる日数も、月に6回のいわゆる六斎(さい)市が多くなったといわれている。
しかし、下野市場については、「二つあった」という以上のことは目下のところ不明、誠に残念である。
時代は下がるが、足利を根拠地に、勢力を張った長尾氏の「禁制」には「おしかゐろうぜきの事」というくだりがある。これは文明4年(1472) のことである。
また、明応5年(1496)の長尾景長の「禁制」には市場において「慮外之義」(無礼な行為)をかたく禁じた条文がある。
足利市鑁阿寺所蔵の「足利城之絵図」は長尾氏支配時代の足利城下を描いたものという。これには地名として「二日(市)町」「三日(市)町」「八日(市)町」などの地名が見え、市日との関係をしのばせる。戦国期、長尾氏の領内に市場の存在したことがわかり興味深い。