自立意識に目ざめた中世農民
6月
2日
天下の土民蜂起す。徳政と号し、酒屋・土倉・寺院等を破却せしめ、雑物等恣にこれを取り、借銭等悉くこれを破る。管領これを成敗す。凡そ亡国の基、これに過ぐべからず。日本開白以来土民蜂起是れ初めなり。
このように土民―農民が高利貸資本をおそい、借金を棒引きにするような動きは、畿内先進地帯だけにとどまらなかった。下野の草深い一農村においても、規模こそ異れ(当然質の相違もあろうが)、同様な農民の蜂起があったことは、たとえば日光輪王寺所蔵の文書にもみられる。
今ここでとりあげる武蔵国戸守郷(現在の埼玉県比企郡)の「一揆」は、もちろん直接下野国で起ったものではない。足利のばん阿寺領の一つである戸守郷での事件である。
周知のように、ばん阿寺は文治3年(1187)足利義兼がその居館の堀内に建立した持仏堂に起源をもつ古刹である。歴代足利氏の菩提寺として手厚い保護をうけ、鎌倉から室町時代にかけ、寺勢もっとも栄え、各地に広大な寺領を有していた。
この戸守郷は、至徳3年(1386)鎌倉公方足利氏満の寄進により、ばん阿寺領となった。その支配はばん阿寺から任命された寺家代官を通して行われた。この当時の代官は、沙弥の希幸という人物であった。彼が直接農民と接し、主に年貢徴税の実務を行っている。すなわち、支配機構の末端の一翼を担っていたのである。
当時の農民にとって、年貢の負担はかなり重かった。年貢のほか、農繁期には領主の田地に夫役労働として徴発され、臨時の公事も賦課された。もし年貢などを滞納すれば、土地を没収され、隷属的身分に落ちなければならなかった。したがって農民は、自らの力で自らの生活を守る以外に道はなかった。
全国各地で農民の蜂起が続発している時、戸守郷でも、農民が領主のきびしい収奪に「一揆」を起して抵抗している。そして農業経営上、不可欠な用水の堰を構築しなかったために、当地に限らず、この水利体系を利用している農村は、ほとんど耕作も不可能となった。たまたま部分的に耕作ができ、米がとれそうな所も、除草などの農作業をしなかったために収穫はあまり期待できなかった。
こうした現実に直面した農民は、今年の年貢を何とかまけて欲しいという訴訟を起した。この訴訟というのは、いわゆる訴訟逃散・強訴逃散といわれるもので、もし要求がいれられなければ、一村あげて逃げてしまうという実力行使である。
この集団的行動に指導的役割を果したのは、村落結合の中核に位置する「おとな」(老者)と呼ばれる上層農民であった。農民側の要求は66%の年貢減免であったが、結局、その半分しか認められなかった。すなわち三分の一免である。
その後、戸守郷の代官は希幸から希宥に代った。すると、再び農民は訴訟を起し、年貢免除を要求した。最初はガンとして受けつけようとしなかった領主側も、たび重なる農民の動きに圧倒され、戸守郷のうち六坊分の年貢については免除する。しかし桜本坊・大椙)の両分は認められないという回答をしてきた。
この妥協案に対して、六坊分の農民の反論は実に人間味あふれたものだった。すなわち、六坊分の農民は、「われわれの要求は戸守郷全体の年貢が平等に免除されてはじめて所期の目的が達成されるのであり、われわれの分だけが免除され、生活が楽になっても、満足できない。もし要求がいれられなければ、以後耕作に従事することはできない」と強硬に主張している。
この結果、いかなる形で和解が成立したか、史料的には確認できないが、注目すべきは、領主の苛政のままに身をゆだねることなく、自らの生活は自らの力で守らねばならない、という農民の意識の高揚である。その背景には、もちろん〝捴郷同心〟する農民の強い団結の力があったからにはかならない。こうした事例を通して、くみとるべき教訓は多々あるように思う。