足利氏といえば、すぐ南北朝の動乱に活躍し、室町幕府の基礎を築いた尊氏(源姓足利氏)を思い出すが下野とより密接に関係していた足利氏は、藤原秀郷の流れをくむ、いわゆる藤姓足利氏である。去る48年1月、佐野市石塚町の池沢正三氏所有の「足利忠綱宇治川先陣図」が県の重要文化財に指定された。これを機会に、いま一度、足利忠綱像に照明をあててみよう。
「是れ末代無雙の勇士なり。三事人に越えるなり。所謂、一は其力百人に対するなり。二は其声十里に響くなり。三は其歯一寸なり」(吾妻鏡 養和元年閏二月廿五日条)
これは足利又太郎忠綱についての「吾妻鏡」(鎌倉幕府の公用日記) の記録である。これによると、忠綱の力は百人力で、声は40キロ四方にも響き、歯の長さは約3センチもあったという。この記事が事実であったかどうかは別として、勇猛な坂東武者であったことだけは想像できよう。
足利忠綱は下野押領使(地方の内乱や暴徒の鎮定、盗賦の逮捕にあたる)藤原秀郷十一代の孫である。秀郷は、平将門が乱を起すと、その鎮圧に功績があり、従四位下、下野・武蔵守に任ぜられ、鎮守府将軍を拝領した。その子孫は下野一帯の豪族的領主として発展し、鎌倉幕府の地頭御家人となって、頼朝政権の有力な基盤となった。
当時、中でも最も勢力があったのは宇都宮、那須、小山、足利の諸氏だった。この小山、足利氏が同族でありながら、「一国の両虎「として「権威を争う」ことになる。これはある意味で、武家社会の悲劇でもあった。
治承4年(1180)5月、源頼政は以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を奉じて、平家打倒の兵をあげた。いわゆる源平合戦の開始である。平家方に属した足利忠綱の活躍は「平家物語」の巻四「橋合戦」にいきいきと描かれている。今それを引用しながら、戦況をながめてみよう。
舞台は宇治川。時は5月末。ちょうど梅雨の季節にはいり、宇治川はいつもに比べ大きく増水し、いつになく激しい流れとなって駆け下っている。
宇治平等院に陣取った頼政の源氏軍は、橋板をはずして懸命に防戦に努めた。渡るに術を失った平家軍は浅瀬を渡ろうと軍議をこらし、いたずらに時間を浪費していた。そこに進み出たのが、下野の住人足利又太郎忠綱であった。
「やあやあ、遠からん者は音にも聞け、近からん者は目にもみよ。われこそは下野の住人足利又太郎忠綱なり。三位入道殿(源頼政)の御方に我と思はん人々は寄り合へや。見参せん」と大音声を発し、敵陣めがけて切込んでいった。
あとに続くのは大胡、大室、深須、山上、那波太郎佐貫四郎太夫広綱、小野寺禅師太郎通綱、部屋子七郎有綱など総勢300余騎。平家方の軍勢は、足利忠綱の指揮により馬筏(いかだ)を組んで、激流の宇治川を渡りきり、敵陣に攻め入ったので、頼政軍はついに壊滅した。忠綱の初陣をかざる壮挙である。時に弱冠17歳の若武者であった。
治承4年、源頼朝は伊豆に平家打倒の兵をあげたが寿永2年(1183)には頼朝の伯父にあたる志田先生(せんじょう)義広が反頼朝の兵をあげ、2月には下野国に侵入してきた。ここで劇的な対立が起る。
同じ秀郷流に属し、一国の両虎として互いに権威を争っていた小山朝政は頼朝方に、足利忠綱は志田方に組し、野木宮で弓矢をまじえた。その結果、志田方が敗北して、足利忠綱は西海へと没落し、消息を断った。
ここに藤姓足利氏は滅亡し、源姓足利氏がとって替った。覇者となった小山朝政は戦功の賞として、建久3年(1192)9月源頼朝から常陸国村田下庄地頭職を与えられ、のち下野国守護職に任じた。
一方藤姓足利氏は、その直系を失ったが、成俊・有綱が跡を継ぎ、有綱の嫡子基綱が、佐野氏を称し、佐野庄の地頭として領主的発展の基礎を築いた。
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