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栃木県の歴史散歩

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下野薬師寺の瓦

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 大化改新以後、わが国は律令制の確立を目指し、全国統一の歩を急進して行くが、特定の地方にあって、その歴史的な過程を直接的にうかがえる資料は極めて少ない。ところが、下野薬師寺から出土する瓦の中から、律令制時における中央と下野の関係の側面を知る興味ある資料を発見した。
 去る48年度に、それまで6回にわたった下野薬師寺跡の発堀調査の報告が県教委から公刊され、出土瓦の系譜も大和川原寺、平城宮などの畿内諸大寺の造技術に極めて接近していることが指摘された。その後奈良国立文化財研究所の知人から、播磨国溝口廃寺(兵庫県)の瓦の中に下野薬師寺と同笵の宇瓦(軒平瓦)があることを知らされた。
 屋根の軒先を飾る鐙瓦、宇瓦は文様を彫り込んだ木版に粘土をたたき、瓦当面(文様面)を作成する。従って、同じ木版から製作される瓦は全く同じ文様を構成することになる。これらの瓦を同笵瓦と称している。この場合の比較には、かなり厳密な認識が必要とされ、他に使用される単なる「同系」「同様式」などの意味とは区別して考えなければならない。
 問題の瓦は、下野薬師寺202型式と呼んだもので、外区(周囲)に珠文、内区(中央部)に中心飾りから左石に三転する唐草文を配している。しかし、極めて特徴的なことは、三転目(外側) の唐草は互いに文様が異なり、正確には均正(左右対称)を保持していない。さらに特異なことは、このことが同笵を認定する契機となったのであるが、瓦当面の左端部(三転目の主葉)に割れ傷をもっている。この傷は長期間使用するうちに何かの原因で木版に割れが生じた結果もたらされるもので、「笵割れ」は、その使用の経過によって、傷の深さを増して行く。従って笵割れの大小によって、その瓦の製作の時間差がわかる。下野薬師寺の中で最初は極めて小さい傷であり、気をつけてそれを確認しないと見逃すほどであるが、次第に傷は大きくなって行く。
 溝口廃寺の瓦も、基本的には下野薬師寺と全く同じ文様を構成するが、全て笵割れの大きいものばかりである。つまり、両寺の瓦の製作時間の先後が明白となる。
 また、双方の瓦の顎(文様面の下の部分)の造りは、下野薬師寺の瓦が全て段顎なのに対し溝口廃寺の場合はすべて曲線顎となり対照的である。
 こうしてみると、瓦の顎の製作技法においても時間的変化が求められそうである。つまり、段顎から曲線顎への変化である。
 この現象は下野薬師寺の他の瓦の中でも明確となるが、先述の両寺の瓦と文様構成が極めて類似する平城宮の瓦においても興味ある結果が得られる。
 平城宮におけるこの種の瓦は「平城宮6682型式」と呼ばれる瓦で、基本的には先述の2寺の瓦と同様な文様を構成するが、全体の造りがやや大きく、文様も左右対称の均正唐草文となっている。
 しかし、珠文の数や文様の深さをはじめ細部にわたって極めて類似したデータを得ることができる。平城宮の歴史的な性格、下野薬師寺との距離等を考慮するとき、両瓦のもつ、驚くべき共通性は研究者に何らかの興味を引かせないではおかない。
 平城宮のこの種の瓦は、顎の製作法に段顎と曲線顎の二者があり、現在までの調査結果から、これ以前に製作される瓦は段顎で、この瓦を境に以後は曲線顎となるという。つまり、この6682型式の造瓦期に顎の製作技法の転換がみられるようであり、この点でも重要な意味をもつ瓦でもある。奈良国立文化財研究所では、この瓦の製作時期を神亀末年から天平末年(728-748)という年代観を与えている。
 ここで同笵現象が発生する理論的な事例を考えてみよう。
 ① 一つの造瓦所(窯場)から複数の寺に供給された(笵不動)。②造瓦所の移動により、供給寺も変わる(笵移動)。③ 一方の寺が廃絶後、他の寺に再利用。①③の場合は瓦の運搬によってもたらされ距離的にも限定されるのが一般的であろう。時代は後になるが、愛知県の渥美半島や、四国から東大寺に瓦を供給する例はある。
 ②の場合は笵の移動であり、前二者の場合よりも距離的な移動は容易だ。しかし、この場合、笵そのものの単純移動か、氾と共に工人集団全体の移動かが問題となろう。つまり、笵を携えた人、集団の性格、さらに笵の所有関係などにも問題が派生する。https://www.city.shimotsuke.lg.jp/0390/info-0000000644-1.html

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