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栃木県の歴史散歩

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出土の瓦は百済様式

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 那須国造碑の研究から、那須地方の帰化人は新羅人だったように考えられているが、果たしてそれだけだったろうか―というのが、前回の問題提起だった。
 那須官衛跡(小川町)のすぐ北隣にある浄法寺廃寺跡から7世紀末(白鳳期)の瓦が出土する。この瓦の模様は百済様式である。那須地方には、百済からの帰化人が住んでいたのではないか。
 というのは―わが国の瓦造りの技術は、仏教伝来と同時に、帰化人がもたらしたものである。大和飛鳥寺の百済様式の瓦が、最も古いものとされている。
 7世紀末といえば、地方に建立される寺は極めて少なかった。浄法寺跡から出土する瓦は、下野薬師寺の瓦とともに、関東地方で最も古い瓦である。
 この時期、わが国の瓦の生産は極めて少なかった。半島3国(百済、新羅、高句麗)から渡来した少数の工人が、それぞれ違った模様の瓦造りの技術を伝え、それが地方に少しずつ広がり始めた時期である。
 8世期中ごろ、各地の国分寺造営などが始まるころになると、瓦の需要は急増した。日本人が直接、瓦造りに参加し始める。この結果、半島3国の模様の違いはなくなり、日本的になってくる。
 浄法寺の瓦は、大量生産が始まる以前のもの、ということになる。中央と非常に距離のある下野国で、これだけの瓦が造られた背景には、百済人の造瓦技術の介入が強く感じられる。
 さらに渡辺竜瑞氏らの研究によれば、朝鮮でよくみられる鋳造の小仏像が、那須郡内から三体出土している。祖国で盛んだった仏教思想と共に、帰化人が運んできた渡来仏ではあるまいか。さらに渡辺氏は、渡来仏が出土した付近に、唐木田(唐来)、新久(新羅)などの地名が現存していることにも注目している。
 以上のことからも、那須地方に帰化人の集団が住んでいたことは十分推定できる。
 そこで、これらの帰化人政策を許容した歴史的な背景、つまり政治的側面についても考えてみる必要があろう。
 東国の開拓は、7世紀中葉以降のわが国政治体制(律令制)の中で、特別な懸案だったことは先に述べた。したがってその中心となる帰化人の配置には、中央政府との間に、何らかの協議があっただろう。
 異民族を配置する場合、言語、風俗、習慣の違いをめぐって、さまざまの問題が心配のタネとなる。
 ところが碑文をみると、帰化人にとって那須は、〝安住住の地〟であり、国造を強く思慕していることがわかる。つまり、那須国の為政者は、帰化人が農業技術や文化の面で有益であることを、十分知っていたのではないだろうか。
 そう考えてみると、小川町、馬頭町、湯津上村一帯の那珂川、箒川の沿岸に、4世紀末から特異な古墳文化が発達していたことを思い起こしてほしい。
 古墳文化の中心、大和からは遠く離れた地域である那須八幡塚、駒形大塚、上下侍塚を中心とする前方後方墳の分布、馬頭町の特殊な横穴墳。これらは前方後円墳を中心とするわが国古墳文化とは、質的にも違ったものだ。
 この地域には、早くから大陸文化、つまり、帰化人の文化が流入していたのではないか、と考えることはできないだろうか。
 碑文にもあるように、韋堤の祖先、「広氏」は、荒田別命、豊城入彦命である。この氏族は、朝鮮半島との交渉に深く関係した一族。こうみてくると、渡来人が古くから那須を訪れていた、と考えるのは、不自然ではあるまい。
 こうした文化的背景があったから、帰化人の配置の政策を、スムーズに受け入れることができたのではないだろうか。
 国造碑文には為政者「韋堤」の温厚な治政をたたえて「一命之期連見再甦…」(一命の期ふたたび再甦を見る…)ときざまれている。
 祖国は戦争にあけくれ苦しい毎日だった。ここへ渡ってきて生き返った思い、というのである。
 那須地方の帰化人は、農業技術による東国開拓の任務を負わされていたが、寺院の建立、瓦造り、産金などの技術も伝えた。那須地方の学問、文化にも大きな足跡を残している。
 那須国造碑―ここにきざまれた152文字は、遠いむかし、那須の地にくり広げられた開拓と豊かな文化の息吹きを今に伝えてくれる。

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