多くは新羅人原野切り開く
2月
21日
しかし、現在、碑造立の時期については疑問はなく、碑が那須国造を慕う帰化人によって造られた、という考え方も一般に認められている。
碑が建立されるからには、那須国造の統治国内に、多くの帰化人が住んでいたに違いない。古代東国の帰化人はどこから来たのか。那須地方の帰化人は―などについて、考えてみたい。
古代の日本で「帰化」という言葉は、どんな意味に使われていたのだろうか。
「日本書記」をみると「化帰」「来帰」「投化」「化来」などもみな同じ意味に使われていて「マウク」「マヰオモムク」などと読ませている。大宝令(701)、養老令(718)など古代法令の注釈や見解を集めた「令義解」(りょうのぎげ)、「令集解」(りょうのしゅうげ) をみると「欽化内帰」することであり、天皇の徳をしたって渡来してきた人々を「帰化人」と呼んでいる。
つまり、古代法では、わが国にやって来た外国人をすべて帰化人と呼んだわけではなく、日本国家の秩序―天皇の徳が国土を平らげていくという思想を受け入れた渡来人だけが、帰化人と呼ばれていたようである。
もっとも、こうした解釈が生まれてきたのは、税制などの上で国家的な色彩が強まってからで、それ以前の「古事記」の世界では、もっと素朴な解釈だった。「古事記」では「渡来」(わたってくる)という、極めて素朴な表現が使われている。
自分の意志でわが国に渡来してきた場合、奴婢(ぬひ=奴隷)でも、主人がいなければ居住の地を与え、暴風などで流れついたものでも、その意志があれば帰化人として戸籍に組み入れていたようである。
しかし、実際には、「日本書記」雄略天皇9年の吉備大海韓奴の場合のように、「みつぎもの」として送られて来た技術者や略奪で連れてこられた人々もあったようである。
「日本書記」などの文献では、天智天皇あたりから8世紀中ごろまでの間に、東国の帰化人に関する記載が急にふえてくる。たとえば、
「日本書記」
天智天皇5年(666)冬
東国に百済の男女2000余人
天武天皇13年(685)5月
武蔵国に百済の僧尼及び俗人男女23人
持統天皇元年(687)3月
常陸国に高句麗人56人、下野国に新羅人14人、同4月武蔵国に新羅の僧尼及び百姓男女22人
同3年(689)4月
下野国に新羅人
同4年(690)2月
武蔵国に新羅人12人
同8月、下野国に新羅人等
「続日本紀」元正天皇霊亀2年(716)5月
下野、常陸等東国七国の高麗人1799人を武蔵国に遷し、高麗郡を設置
聖武天皇天平5年(733)6月
武蔵国埼玉郡の新羅人53人に金姓を与う
淳仁天皇天平宝字2年(758)
新羅人僧尼及び男女を武蔵国の閑地に移し、新羅郡を設置、などである。余談になるが、武蔵国分寺跡、あるいは同瓦窯の調査では、高麗郡や新羅郡を表示する文字がわらが出土している。
このように長期にわたって帰化人が、東国に配置された日的は何だったのだろうか。
7世紀中葉は、国家統一の機運が高まっていたが、対外政策は行きづまっていた。このため、中央政府にとって未開な原野の多い東国の開拓と支配は大きな政治目的だった。そこで、高い農業技術をもつ帰化人を投入し、農業を中心とした東国の開拓を図った、と考えられる。
この点で、東国の帰化人は大和を中心にした帰化人とはかなり性格を異にしている。中央の帰化人は、厚遇され、政治、経済、学芸、技術の面で大きな任務を与えられていた。
一方、東国の場合、原野の開拓と農業技術を中心とした生産の拡大がおもな目的だった、
これらのことを頭に置いて、那須地の帰化人について考えてみよう。
「永昌元年」という碑文で始まる那須国造碑は、帰化人の手で造られたとみられることはすでに述べた。では、彼らは果たしてどこの国から渡来して来た人々なのだろうか。
文献によれば、大勢の新羅人が下野国に配置されていることがわかる。那須国は持統天皇元年(687)に下野国と合併されており、那須国造碑の造立者が、新羅人だった、という推理もできる。
しかし、こう考える場合、「永昌」という年号が新羅の年号ではなく、唐の年号である点がひっかかる。
当時の朝鮮半島はどういう政治情勢だったろうか。新羅が勢力を拡大し、唐と結んで百済を滅ばし(660)、高句麗も唐に併合された(668)。つまり、新羅と唐は当時、極めて密接な関係にあった。現存する当時の新羅の金石文には、しばしば唐の年号が使われている。
こう考えれば、新羅人が関係した那須国造碑の碑文に、唐の年号が使われているナゾも、いちおう解ける。しかし、文献には、東国に百済人を配置したとか、下野国などの高句麗人を武蔵国に移すとか「新羅人等」の表現も使われている。
那須地方に住んだ帰化人が、新羅人だけだったとは考えにくい点もある。