大平・古墳のミステリー
2月
19日
考古学には推理の部分が多い。本質的にミステリーの要素をもっているわけで、高松塚の被葬者をめぐる推測や憶測は、下手な推理小説よりも面白い。
高松塚などは考古学の本質にからまるケースだが、発堀ではまれにミステリーがまがいのことの起る場合がある。ツタンカーメンの発堀に関係した人々が、相次いで十数人も死んだ事件は、王の墓ののろいとしてよく知られている。
私にも、もしかしたら死ぬかも知れない、と思った発堀経験がある。幸い死なずにすんだが…。
下都賀郡大平町の山すそに、七回り鏡塚という、6世紀ごろの古噴があった。直径30mほどの円墳で、中からヒノキの大木を割って造った舟形木棺と、板材を組合わせた組合せ式木棺が出土した。
舟形木棺は主棺で、長さは約5m。組合せ式木棺は副棺で、長さは2m余。ともにだいたいの原形を保っていた。舟形木棺が古墳から原形のまま発見されたのは、日本で初めてのことである。
主棺には被葬者の人体が、黒色の死蝋になって残り、2つの棺の中には弓、鉾、大刀の外装の木部、革製品、木製品がほぼ完全な姿で収められていた。古墳時代にあっては、珍しい発見である。
このうち最も重要な遺物は、玉纏大刀と呼ばれる2本の刀で、木部の外装が完全に残っており、これまで全くわからなかった刀の姿が明らかになった。大形の儀礼刀である。
木製の鏑矢の発見も初めての例だし、平根の鉄鏃に連結する丸木の軸が見つかったのも、従来不明だった茎のない鉄鏃の装着方法を明確にしてくれた。
出土品がこのように空前絶後のものだったばかりでなく、発堀中に奇妙な現象が相次いで起った。
発堀開始の翌日と翌々日は、まだ4月中旬というのに、ひどい暑さになった。現場が湿地だったので、素足で作業をしていたが、気温の急上昇に伴って湿度が高くなり、とうとう半ズボンで上半身はハダカという真夏なみのスタイル。昼すぎには、暑さで目まいがしたことを覚えている。
発堀は当初から、木棺のわきにテントを張り、ここを発堀本部にして、夜は幕営した。
暑さでうだっていた4日目の夜半すぎ、天候が急変して、今度は大雪になった.重いばたん雪が横なぐりにテントを襲い、湿地は底冷えがひどくなってきた。寒さでとても寝ていられなくなった。
天候の変化に悩まされながら、調査を続けているうち、一人の顔がはれぼったくなっているのに気ついた。漆にかぶれたという。だが、漆の製品は木棺の中にしかない。弓、矢、鉾の柄、靱は黒色の漆で美しく仕上げられている。千数百年も前の漆が、棺の中で生きていたという事実に、一同はなんとなく恐怖を感じた。
2週間にわたった調査もそろそろ終りに近づき、最後の副葬品はその都度、少しずつ取上げられすぐ密封して保存されていた。最後に残った遺物は、玉組、大刀、鉾、弓など重要な品ばかり。
当日は午後5時半に取上げ作業を始める予定で、このことを町内放送しておいた。見学者の便を考えた処置である。
図取り、写真撮影が終り、密封容器のテストがすんだのは、予定時刻の5分前だった。
抜けるような青空であった。カメラが定位置についた。数百人の見学者がじっと見守る中で、定刻に作業が始った。
私はその瞬間をよく覚えている。玉纏大刀に手をかけたその時、突然、北の山で雷鳴がとどろいた。振返ると、青空のはしに雲がわき上がり、南に向って早い速度で広がり始めていた。
刀をそっと上げた瞬間、2発目の雷鳴が響いた。雷は身近にせまっていた。あたりが急に暗くなり、青白い稲妻があたりを照らした。豪雨が降りはじめ、雷は次第に頭上に近づいてきた。
見学者が四散した。強風にのって、たたきつけてくる雨が痛かった。調査員はずぶぬれの上に金属の遺物を持っている。落雷すれば全員がやられる危険にさらされた。
だが、雷雨の中で作業は続けられた。逃げこむ場所はなかったし、世紀の遺物を手にした誇りが、人々を捨身にさせた。死ぬかも知れないと思ったが、こわくはなかった。ツタンカーメンの故事が頭を通りすぎた。雷雨は古墳の主の怒りだったのかもしれない。
遺物の収容が終ったとき、西の空が明るくなり、雷鳴が遠くなった。暮れかかった夕空に虹が出ていた。