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栃木県の歴史散歩

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大和政権の勢力の範囲を示す鏡

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 栃木県からは、当時の大和政権の勢力範囲を知る上で、貴重な鏡が2面出土している。いずれも舶載鏡で、三角縁神獣鏡と画文帯神獣鏡とよばれる鏡である。今回は、これら2面の鏡にまつわる話をすることにしよう。
 三角縁神獣鏡は神像と獣形とを主文様とし、外縁の断面が三角形をなしている鏡である。同鏡は魏の鏡でわが国では相当数出土している。しかし、不思議なことに、中国における出土例は知られていない。このことは、同鏡が、日本向けの輸出鏡であった可能性が強いということになる。
 『魏志倭人伝』によると、邪馬台国の女王卑弥呼が最初3年(239)に魏を朝貢した際、銅鏡100枚を下賜されたという記事がある。そして、同鏡は、正始元年(240)に魏の使者によって邪馬台国にもたらされている。三角縁神獣鏡は魏の鏡であるので、この時下賜されたものではないかと思われる。また、同書に依れば、当時、魏国と邪馬台国とが何回か交渉があったことが知られるので、そのような際にももたらされたものと考えられる。
 後述するように、三角縁神獣鏡は各地から出土しているが、同鏡の配布は輸入後しばらくしてはじめられたものであろう。このことは、『魏志倭人伝』をみると、下賜品に関する記事で、「悉く以って汝が国中の人に示し、国家(魏を指す)汝を哀れもを知らしむ可し」とあることからもうかがえるところである。
 三角縁神獣鏡には、同笵鏡が存する。同笵鏡というのは同じ鋳型で鋳造した鏡で、同鏡の場合は、5面を一組として幾組も輸入されたものといわれている。
 同笵三角縁神獣鏡は、北九州から群馬県までの範囲で出土している。この分布の中核をなすのは、36面以上の鏡を出土した京都府の大塚山古墳である。同墳からは、三角縁神獣鏡だけでも32面出土しており、うち22面は各地の古墳からすでに同笵鏡が発見されている。
 小林行雄氏は、三角縁神獣鏡に関する綿密な研究によって、三角縁神獣鏡は大塚山古墳の首長から各地の古墳の首長に、大和政権への服属のしるしとして配布されたものであり、同鏡の分布範囲は、大和政権の支配区域を示すものであろうと考えている。これは、4世紀頃の話である。
 最近、栃木県からも、三角神獣鏡が発見された。木鏡は、残念ながら破片となっている。復原径13.3㎝。本鏡には、現在のところ、同笵鏡は発見されていないが、大和政権との関連を考える上で、非常に貴重なものということができる。
 本鏡は文珠山と呼ばれる古墳から出土しているが、同墳はすでに消失している。出土地は石橋町上古山で姿川流域の台地末端である。本鏡には銅鏃などが伴出しており、出土遺物によって判断する限りでは、古墳は4世紀末から5世紀前半頃までの間に築造されたものかと考られるところである。
 画文帯神獣鏡は神像と獣形を主文様とし、その外側に画文帯、即ち飛禽走獣文がまわっている鏡であるし同鏡は、栃木県では宇都宮市雀官の牛塚古墳から出土している。同墳は前方後円墳の変形をなす古墳である。築造時期は、5世紀末から6世紀初頭頃と考えられている。
 画文帯神獣鏡には、同笵鏡が10面存する。宮崎県持田、同県持田24号、熊本県船山、広島県西酒屋、岡山県茶臼山、大阪府西車塚、三重県神前崎、福井県丸山、静岡県岡津、栃木県牛塚の10基の古墳から、それぞれ1面ずつ出土している。このことは、牛塚古墳と各地の古墳との被葬者間には、当時、何らかの関係があったことを物語っている。史家小林行雄氏は、大和政権の支配区域が北九州中央部から栃木県にまで拡大したものと考えている。これは、5世紀の話である。
 しかし、残念なことには、画文帯神獣鏡には、その中核となる古墳が知られていない。しいていえば、6面の鏡を出土した船山古墳ということになろうが、それでは不満なところが多い。今後の発堀によって、このような古墳が出現することを期待したい。
 以上、述べてきたように、鏡は、単なる化粧道具ではない。鏡は往古の豪族の憧れの品であり、貴重品であったのである。このため、鏡が、このような政治関係の場にまで持ち出されたものということができよう。

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