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思わぬ〝副産物〟発掘

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 パサパサと乾いたローム層から、白い輪が出た。ポサポサして、まるで朽ちた木切れのようだが、まぎれもなく人骨、白い輪は頭がい骨の輪切りにほかならない。
 48年の夏休み、黒羽高校社会部が、黒羽町久野又の不動院裏遺跡を発掘した。
 そのときの副産物の一つが人骨の出土である。発掘地の隣に墓地があるので、その懸念が全くないわけではなかったが、不動院の住職から「発掘地は墓地にしたことはない」と聞き、安心して掘っていた矢先だった。
 とりわけ、それとは知らずにスコップで人骨を輪切りにしたF嬢は、飛びあがらんばかりに驚き、ジンマシンができるほどの気味悪がりようだった。ところが何の因果か、F嬢は調査中もう一体発見する〝殊勲〟をあげた。
 ローム層への埋葬なので、最初はよほど新しい骨と思い、掘るのをためらったが、いずれブルドーザーで整地されてしまうのなら、キャタピラの蹂躙にまかせるよりは、我々の手で掘りあげて再葬した方が仏も浮かばれるであろうと考え、住職に読経を願い、掘りあげた。
 一体の方はかなり骨がよく残っており、数珠玉や六道銭の副葬があったし葬法や副葬品からみて、それほど新しいものではないと思われたので、いささかホッとした次第である。
 それから1カ月後。発掘地周辺が整地されたという連絡をうけ、数日間追加調査をした。平安時代の住居跡などがみつかり、予想外の成果だったが、人骨の方も5体を掘りあげ、予想外の〝成果〟となってしまった。
 最初の調査のときは気味悪がって手出しをしなかった女子部員も、この時には平気な顔で掘った。骨がそれほど新しくないという安心感か、日焼けしてツラの皮が厚くなったせいかは、知らない。いずれにしてもシャレコウペを両手で取り上げている図なぞは、さしずめ縁談破綻のシロモノであった。
 計7つの墓からは、きせる5本(うち吸い口と頭たけが各1本)、数珠玉11個、鉄なべ、茶わん各1個、200枚を超す銭があり、なかなかバラエティーに富んでいた。
 墓穴の平面規模は、いずれも1平方メートル前後で、とうてい寝棺が納まる大きさではない。人骨は写真のように、屈葬のような姿勢をとっているが、穴の大きさを考えあわせると、竪棺だったことがわかる。
 竪棺は、現在当地では、全く使われていないから、ごく近年のものではないということになる。では、どこまでさかのぼらせたらよいであろうか。
 それには、副葬品が有力な証拠になりそうだが、案に相違してそううまくはいかない。たとえば鉄なべ。片口とっ手付で、今こんなものは使われていないが、いつごろのものか、となるとはっきりしない。
 木棺に使われた鉄くぎも同じである。断面矩形の金くぎ流よろしく頭を折り曲げたもので、これまた現在使用されていないが、明確な時期はわからない。数珠玉やきせるにいたっては、最近のものとの識別さえ困難である。
 頼みの綱は、古銭だけである。古銭は総数220枚がみつかった。若干の唐銭や北栄銭を含んでいたが、ほとんどは寛永通宝だった。渡来銭は今考慮外においてよいと思うが、寛永通宝が墓の年代を与える材料になるだろうか。残念ながら、否である。
 というのは、寛永通宝は明治以降も一厘として通用し、制度上では昭和28年まで残っていたからである。もちろんそれまで使われていたとは思われないが、年配の方に聞くと、第二次大戦ごろまでは、葬式の時にこうした古銭をまいたというし、墓に入れたともいう。頼みの綱も断たれてしまった。もともと地獄の沙汰に使われるべき六道銭は、現世に戻ってはやはり役に立たぬもののようである。
 きせるが示す喫煙の普及は、江戸時代後半である。結局、この墓は第二次大戦前から江戸後期の間というまことにばく然とした時期しかわからない。
 7体も人骨(この他に、2つの墓を確認している)がでれば、墓地であったことは疑いない。その墓地が当地の人の記憶にないというのは、どういうことであろうか。山林が水田になるというのとは訳が違う。少なくとも3、4代の経過があったのだろう。
 ところで、発掘地のすぐ南に、かつて寺があったという伝承がある。土手に礎石と思われる石があるところからも、信用してよいように思われる。我々が掘った墓は、おそらく伝承の寺に付属したものだろう。
 とすれば、言い伝えの中に、寺の崩壊年次が含まれていないのは、いかにも残念である。しかし、人の記憶の消失時間や寺の崩壊から推察すれば、排仏毀釈あたりが当たらずとも遠からずの年代ではあるまいか。人骨は近世末期に生きた人々、いずれにしても庶民であったろう。
 いささか冗漫な書きぶりをしたが、人骨諸氏を悔蔑したつもりはない。かつての墓制をじかに知ることができたのは、何といっても得難い経験であったし、人骨を前に多感な部員たちは、おそらく死後の世界をかいま見たことであろう。
 骨はあくまで死者のムクロに過ぎないが、我々が教えを受けた時、あるいは何かを感じとったその時、まさに死者は生き返る。何かを感じとることも、人骨をことさら気味悪がることも、結局死の呪縛に過ぎないが、超克できぬ死であれば、死者から感じとった教訓を今生で生かす工夫をすればよい。合掌!

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