BCA土曜学校のコラムVol.78〜読書のすすめ〜
読書は、読解力や想像力を高め思考の幅を広げます。時間にとらわれす、いつでもどこでも自分のペースで楽しめるのも良さの一つです。現実を離れて物語の中に入り、光景などをイメージしながら登場人物と一緒に行動するのは、いい気分転換にもなります。
BCA土曜学校の皆さんには、ぜひ日本の文学作品にも親しんで欲しいと思っています。
学校の閉鎖にともないBCA2内の「ともしび文庫」も閉館となり、本の貸し出しができない状況でとても残念ですが、 「インターネットの電子図書館」はいつでも開館していますのでお知らせします。
「青空文庫」https://www.aozora.gr.jp/
は、著作権切れおよび著者が公開を望んだ作品が無料で閲覧できるのです。
その中から、中髙の教科書に掲載されている作者を中心に、お薦めの十作品とその書き出しを紹介します。
中高部の皆さん、気になる本があったら読んでみてください。
自分で読みたいと思った本を読むのが一番ですから、サイトを見てお気に入りの本を見つけてくださいね。
1、芥川龍之介「羅生門」
ある日の暮方の事である。一人の下人《げにん》が、羅生門《らしょうもん》の下で雨やみを待っていた。
広い門の下には、この男のほかに誰もいない。
ただ、所々|丹塗《にぬり》の剥《は》げた、大きな円柱《まるばしら》に、蟋蟀《きりぎりす》が一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路《すざくおおじ》にある以上は、この男のほかにも、雨やみをする市女笠《いちめがさ》や揉烏帽子《もみえぼし》が、もう二三人はありそうなものである。それが、この男のほかには誰もいない。
2、太宰治「人間失格」
私は、その男の写真を三葉、見たことがある。
一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、それから、従姉妹《いとこ》たちかと想像される)庭園の池のほとりに、荒い縞の袴《はかま》をはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真である。
3、壺井栄「二十四の瞳」
十年をひと昔《むかし》というならば、この物語の発端《ほったん》は今からふた昔半もまえのことになる。世の中のできごとはといえば、選挙《せんきょ》の規則《きそく》があらたまって、普通選挙法《ふつうせんきょほう》というのが生まれ、二月にその第一回の選挙がおこなわれた、二か月後のことになる。昭和三年四月四日、農山漁村《のうさんぎょそん》の名が全部あてはまるような、瀬戸内海《せとないかい》べりの一寒村へ、若い女の先生が赴任《ふにん》してきた。
4夏目漱石「坊ちゃん」
親譲《おやゆず》りの無鉄砲《むてっぽう》で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰《こし》を抜《ぬ》かした事がある。なぜそんな無闇《むやみ》をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。新築の二階から首を出していたら、同級生の一人が冗談《じょうだん》に、いくら威張《いば》っても、そこから飛び降りる事は出来まい。弱虫やーい。と囃《はや》したからである。小使《こづかい》に負ぶさって帰って来た時、おやじが大きな眼《め》をして二階ぐらいから飛び降りて腰を抜かす奴《やつ》があるかと云《い》ったから、この次は抜かさずに飛んで見せますと答えた。
5、原民喜「永遠のみどり」
梢《こずえ》をふり仰ぐと、嫩葉《わかば》のふくらみに優しいものがチラつくようだった。樹木が、春さきの樹木の姿が、彼をかすかに慰めていた。吉祥寺《きちじょうじ》の下宿へ移ってからは、人は稀《ま》れにしか訪《たず》ねて来なかった。彼は一週間も十日も殆《ほとん》ど人間と会話をする機会がなかった。
6、森鴎外「高瀬舟」
高瀬舟《たかせぶね》は京都の高瀬川《たかせがわ》を上下《じょうげ》する小舟である。徳川時代に京都の罪人が遠島《えんとう》を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷《ろうやしき》へ呼び出されて、そこで暇乞《いとまご》いをすることを許された。それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪《おおさか》へ回されることであった。それを護送するのは、京都|町奉行《まちぶぎょう》の配下にいる同心《どうしん》で、この同心は罪人の親類の中で、おも立った一|人《にん》を大阪まで同船させることを許す慣例であった。
7、吉川英治「三国志」
後漢《ごかん》の建寧《けんねい》元年のころ。今から約千七百八十年ほど前のことである。一人の旅人があった。
腰に、一剣を佩《は》いているほか、身なりはいたって見すぼらしいが、眉《まゆ》は秀《ひい》で、唇《くち》は紅《あか》く、とりわけ聡明《そうめい》そうな眸《ひとみ》や、豊《ゆた》かな頬をしていて、つねにどこかに微笑をふくみ、総じて賤《いや》しげな容子《ようす》がなかった。
8、魯迅「阿Q正伝」
わたしは|阿Q《あキュー》の正伝を作ろうとしたのは一年や二年のことではなかった。けれども作ろうとしながらまた考えなおした。これを見てもわたしは立言の人でないことが分る。従来不朽の筆は不朽の人を伝えるもので、人は文に依って伝えらる。つまり誰某《たれそれ》は誰某に靠《よ》って伝えられるのであるから、次第にハッキリしなくなってくる。そうして阿Qを伝えることになると、思想の上に何か幽霊のようなものがあって結末があやふやになる。
9、中島敦「山月記」
隴西《ろうさい》の李徴《りちょう》は博学|才穎《さいえい》、天宝の末年、若くして名を虎榜《こぼう》に連ね、ついで江南尉《こうなんい》に補せられたが、性、狷介《けんかい》、自《みずか》ら恃《たの》むところ頗《すこぶ》る厚く、賤吏《せんり》に甘んずるを潔《いさぎよ》しとしなかった。いくばくもなく官を退いた後は、故山《こざん》、※[#「埒のつくり+虎」、第3水準1-91-48]略《かくりゃく》に帰臥《きが》し、人と交《まじわり》を絶って、ひたすら詩作に耽《ふけ》った。
10、江戸川乱歩「怪人二十面相」
そのころ、東京中の町という町、家という家では、ふたり以上の人が顔をあわせさえすれば、まるでお天気のあいさつでもするように、怪人「二十面相」のうわさをしていました。
「二十面相」というのは、毎日毎日、新聞記事をにぎわしている、ふしぎな盗賊《とうぞく》のあだ名です。その賊は二十のまったくちがった顔を持っているといわれていました。つまり、変装《へんそう》がとびきりじょうずなのです。