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合氣道練心館 館長所感集

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合氣道の本番は「生まれて死ぬまで・・・!」

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合氣道の本番は「生まれて死ぬま...










 「合気道は試合がない ずーっと稽古 ただひたすら稽古だ そんな合気道の本番 いつだと思う?」

 「生まれて死ぬまで・・・!」



 この台詞は漫画『EVIL HEART』(武富智 著、集英社ヤングジャンプ・コミックス)の中の名場面、合氣道部創設のシーンで出てきました。

 主人公・ウメ君の合氣道の師匠、ダニエル先生(何とカナダ人!)の台詞です。



 素晴らしい感動的な作品でしたが、正直、雑誌連載中は、どうも、あまり人気がなかったのかな・・・?と思われます(武富智さんすみません)。



 主人公・ウメ君は大変な家庭環境の中、心に深い傷を負い、手の付けられない問題児でした。

 しかし、そんなウメ君が合氣道と出会い、最初は反発しながらも徐々に心を開き始め、人間としても成長していく、という物語でした。



 決して、「痛快格闘娯楽漫画!」というものではなくて、父親や兄のDV(家庭内暴力)や家庭の崩壊、少年非行等が描かれていて、読んでいると胸が痛みます。



 恐らくは、雑誌連載は打ち切りになってしまったのではないか?と思われます。



 しかし、合氣道界からは支持されていたのではないでしょうか。読んでいて辛くなるような作品でしたが、今まで、漫画でこれ程までに「合氣道の心」がきちんと描かれているものはなかったと思います。



 少なからず支持者がいたのでしょう、後に、読み切りの単行本が三冊発行され、無事完結しました。



 最後、ウメ君は立派に成長し、バラバラだった家族がもう一度再生するのでは・・・?という希望を匂わせたラストシーンは涙なしには読めません。





 この「合氣道の本番は生まれて死ぬまで」という考え方は、昔から様々な先生方が言われてきたことだと思います。



 藤平光一先生も『心身統一合氣道入門』の中で、「現今では、武の技を使って真剣勝負をすることはない。しかし、二度とない此の人生、真剣の場に臨む覚悟で日常を生きることが、武の精神である。」と説かれています。



 もっと言えば、合氣道だけに限定せず、「武道の本番は生まれて死ぬまで」で良いのではないか、と個人的には考えます。



 あくまでも個人的な見解ですが、「武術」、「武道」、「スポーツ」は厳密には違うものだと思っています。



 「武術」は、英語でいう所の「Martial Arts(戦いの技術)」そのものであると思います。ルールがなく審判もいない戦闘で、いかに自分やその味方の生命を守り、敵を制圧するか。場合によっては躊躇なく敵にとどめを刺して殺す。

 「実戦武術」を標榜する指導者の中には、「どんなに汚くて卑怯な手を使っても敵を抹殺する!」と嘯く方もいらっしゃいますが、純粋に「武術」ならそれもありなんだろうと思います。



 「スポーツ」は、その語源を「Disport(気晴らし、楽しみ、遊び)」に持つもので、主に、Player(選手)になってGame(試合)に参加し、勝敗を競って楽しむものです。

 柔道でも空手道でも剣道でも、「Game(試合)」のことしか頭になかったら、それは純粋に「スポーツ」だと言えるでしょう。



 「武道」は、英語では適切な訳語はない筈で、個人的には、日本だけが生み出した特殊な文化だと思います。



 歴史的には、江戸時代に「武道」は、思想としての「武士道」を指す言葉で、所謂、剣術や柔術などのジャンル一般は「兵法」とか「武芸」などと言われていたそうです。



 「武道」という言葉が、現在のように一つの体技のジャンルを意味する言葉として一般化したのは、近代になって、嘉納治五郎先生が「精力善用・自他共栄」という崇高な理念を掲げ、人間修行の道として講道館柔道を創始されてからだそうです。



 しかし、嘉納先生は東大卒のインテリ学者・教育者であり、その時代、西洋の進んだ知識を積極的に取り入れて日本の近代化を推し進めるリーダー的な役割も持った方でした。

 恐らくは、嘉納先生の先進的なお考えから、試しに、それまで日本に存在しなかった「スポーツ」という概念を積極的に柔道に取り入れられたのでしょう。その結果、多くの日本人が、より魅力的な「スポーツ」の部分ばかりに着目するようになってしまったものと思われます。



 「武道」とは、あくまで個人的な見解ですが、稽古でやっていることはそれまでの伝統的な「武術」とさほど変わらないけれど、その目的が決して戦闘などではなく(勿論、Gameとしての試合に勝つことでもなく)、心を磨き、魂を磨く人間修行のためにやるもの、ということではないかと思います。



 そういう意味では、日本に「武道」(※思想としての武士道という意味ではなく)が確立したのは江戸時代だと考えます。



 戦国時代が終わり平和な江戸時代が訪れました。それまで命を懸けて戦うことが仕事だった武士は、今度は社会のリーダーとなって人々を取りまとめ、導くことが仕事となりました。

 それでも、武士たちは「武士の魂」として常に帯刀し、日々の稽古に余念がありませんでした。

 天下泰平の世でしたが、この時代が一番、町道場も増え、多くの人々が剣の稽古に励んでいたそうです。

 それは一体なぜなのか?

 勿論、殺し合いの戦闘に備えてではないし、ましてや、大会で優勝して金メダルを獲るためでもありません。常に、社会のリーダーとして相応しい人間であるために、心を磨く人間修行として剣の稽古に励んでいたのだと思います。



 柳生新陰流が徳川家の御流儀になったというエピソードが、それまでの戦国時代の「武術」から、平和な江戸時代の「武道」への転換を象徴的に語っています。



 戦国時代も終わりの頃、柳生石舟斎宗厳は、徳川家康の御前で新陰流奥義「無刀取り(※合氣道の太刀取りと一緒ですよね?)」を披露し、興味を持った家康自身も全く無傷で投げられてしまい、家康から是非とも剣術指南役にと推挙されました。

石舟斎は老齢を理由に辞退し、代わりに息子の宗矩が徳川家の剣術指南役に就任します。

 柳生新陰流は「殺人刀(せつにんとう)」から「活人剣(かつにんけん)」へと説く流派であり、「切らず、(命を)取らず、勝たず、負けざる剣」であるそうです。これこそ、「武術」でもなく「スポーツ」でもない、理想的な「武道」ではないでしょうか。



 尤も、日本人の中には無益な殺生を好まず、和を以て貴しとなす気質が昔からあったのでしょう。

 飯篠長威斎家直によって創始され、現存する最古の剣術流派と言われる天真正伝香取神道流には、「平法」という教えがあり、戦わずして目的を達成することこそ真の理想であるとしています。

 こう考えると、室町時代中期に既に理想の「武道」の萌芽があったと言えるかもしれません。



 「武術」の本番は「殺し合いの戦闘」になった時。



 「スポーツ」の本番は「試合」「大会」。



 「武道」の本番は「日々の生活」「人生そのもの」、まさに「生まれて死ぬまで」。



 こういうことではないかと思います。





 因みに、合氣道開祖・植芝盛平先生は、合氣道こそが「武道」・「真の武道」であるとして、独自のお考えをお持ちです。



 「武道とは、腕力や凶器をふるって相手の人間を倒したり、兵器などで世界を破壊に導くことではない。真の武道とは、宇宙の気をととのえ、世界の平和をまもり、森羅万象を正しく生産し、まもり育てることである」(『合気神髄』P54)



 「相手があり敵があって、それより強くなり、それを倒すのが武道であると思ったらそれは間違いである。真の武道には相手もない、敵もない。真の武道とは宇宙そのものと一つになることだ。宇宙の中心に帰一することだ。」(『合気神髄』P115)



 練心館は、開祖の仰る所の「真の武道」である合氣道の道場です。



 したがって、我々は常に平和を守り、この世界に、形の有る無いに拘わらず、素晴らしいもの、良いものを生み出し、それを大切に守り、そして、それを立派なものへと丹念に育て上げていくよう努力しなければならないのでしょう。

 そして常に、己自身を宇宙そのものと一体化させる、といった、ある種の宗教的情操を持ち続けられるよう、努力しなければならないのでしょう。



 我々の日々の稽古、鍛練を活かすための本番のステージは、やはり「生まれて死ぬまで」です。


#ブログ #合気道 #武術 #武道

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真のエリートを育てるー平成27年鏡開き年頭挨拶ー

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 毎年、鏡開きでは、子どもクラスの保護者の方々に向けて年頭挨拶を行っています。

 いつの頃からか年頭挨拶は、練心館道場子どもクラスの「今年のテーマ」を発表する場になってしまいました。

 いつもきちんとした原稿がある訳ではないので、正確に再現することはできませんが、以下、今年のご挨拶を記そうと思います。





 今年の一月で、私が二代目館長を継いで丸十年となりました。

 まだまだこれからですが、取り敢えず、十年間何とかやってこれたのは皆様の温かなご支援の賜物です。

 心から感謝申し上げます。



 どういう訳か毎年、子どもクラスの「今年のテーマ」を発表するのが恒例になっています。

 昨年は、「本物を追求し、本物を育てる」でしたが、今年はそれを更に発展させて、練心館道場子どもクラスは、「真のエリートを育てる英才教育!」という結論になりました。

 何だか仰々しくて偉そうで、本当にすみません。



 実はこのテーマは、五年前(平成二十二年)と全く同じです。その時は『荘子』の「説剣篇」の話をしました。



 趙の国の恵文王は政治をほったらかしにして剣術に狂い、国中から武芸者を集めては戦わせ、数百人の死傷者を出す有様でした。これを心配した太子は荘子に相談をします。荘子は武芸者になりすまして王様に剣を説きました。



 私には三つの剣がございます。それは、「天子の剣」、「諸侯の剣」、「庶人の剣」。



 「天子の剣」とは、天地自然の理と徳のことで、これは絶対不敗の王者の剣、皇帝の剣である、と。

 「諸侯の剣」とは、人間の知恵と勇気のことで、これは為政者の剣、リーダーの剣ということ。

 「庶人の剣」とは、喧嘩腰に人を威圧し暴力や凶器をふりまわすこと。しかし、こんなものは鶏の喧嘩と大して変わらず、そんなつまらぬことで大切な命を落としてしまったら、天下国家のために役立つこともできなくなってしまう。

 恵文王様は、ご自身は天子様のようなお立場におられながら、何故に「庶人の剣」などを好まれるのですか!、と。



 以来、恵文王は反省し剣術狂いは治まったそうです。



 手前味噌な話で恐縮ですが、合氣道は、天地自然の理と徳を体得するための修行の道です。まさに、『荘子』「説剣篇」の中で説かれた「天子の剣」そのものだと今でも思います。



 実は、今回は全く別のアプローチで「真のエリートを育てる英才教育!」という結論に至りました。

 切っ掛けはテレビです。



 昨年の十一月、練心館では約三年振りにテレビが視られるようになりました。

そうです。今まで地デジ化に対応していなかったのです。



 NHK・Eテレ「ソウル白熱教室」という番組の再放送を偶々視て、えらく感銘を受けてしまいました。



 ソウル大学のキム・ナンド教授が、韓国の熾烈な競争社会の中で生き辛さを感じ、悩む人々に対して、温かなメッセージを贈っていました。



 その中で、心理学者ウォルター・ミシェルが四十数年前にスタンフォード大学で行った「マシュマロ実験」について紹介していました。



 四~五歳の子どもを部屋に案内すると、お皿の上にマシュマロが一つ置いてあります。「このマシュマロは君にあげる。でも私が戻るまで(約二十分間)食べずに我慢できたらご褒美にもう一つマシュマロをあげるよ。」そう言って実験者は部屋を出て行ってしまいます。

 我慢してマシュマロを食べずにご褒美にありつけた子は、全体の三分の一程であったそうです。

 十数年後の追跡調査で、我慢できた子たちのグループは大学進学適性試験(S.A.T.)の点数が平均して二百点以上も高く、更にその後の人生でも、夢や希望を叶えたり、高収入な仕事に就いていたりしたそうです。



 キム・ナンド教授は、この「目先の欲求を辛抱する能力」を「マシュマロ能力」と名付け、子どもたちに身に付けさせなくてはいけないのは、この「マシュマロ能力」だと力説します。



 しかしながら、多くの韓国の親御さんたちは「マシュマロ能力」ではなく、目先の良い点数の取り方ばかりを教えようとする。確かに、立派な学校に入り、立派な職に就ければ嬉しいことだが、それを達成するためのもっと根本的な能力を教えることができていない。

 多くの親御さんたちは、「人間性や社会性は社会に出て揉まれていくうちに自然に身に付くだろうから、先ずは学歴、そのためには塾。それは親がしてあげるから他は自分で何とかしなさい。」となってしまっている。



 キム・ナンド教授は言います。

 正直さや誠実さ、マシュマロ能力、他者への配慮、これらこそ、子どもの頃からの訓練と教育が必要であると。そして、その大切さを子供たち自身も解かるようにさせなければいけない、と。

 更に、子どもたちに近道を教えてはいけない。ゆっくり進むこと、徐々に成長することが大切だと教えなくてはいけない、と続けます。



 またもや、手前味噌な話で恐縮ですが、これを視て、道場で日頃、「目先の合理性に騙されるな」「目先の損得に振り回されるな」「目先の勝ち負けに拘るな」と言い続けてきて、それで良かったんだと心底思えました。

 また、十年間不安もありましたが、安易に昇級させないできて良かったんだと、胸を撫で下ろしました。

 恐らく、練心館は地域でも一番昇級が難しい習い事ではないかと思います。



 昨今の新自由主義の影響下、子どもたちを取り巻く世界にも、目先の合理性や目先の損得、目先の競争ばかりに子どもたちを追い込もうという流れが強くなっているような気がします。

 塾でもスポーツでも、とどのつまりは「いかにして他人を打ち負かし、自分が勝ち誇るか」しか教えていない所が増えてきたように感じるのです。



 今、日本で一番有名な合氣道師範でいらっしゃる哲学者・思想家の内田樹先生は、よくこんなことを仰っています。

 現代の日本社会には、リーダーとはどう振舞うべきかを何一つ学んでいない人間が、社会で上層部に君臨していることの悲劇がある、と。



 子どもの頃から競争競争で、常に他人を打ち負かし、自分が勝ち誇ることにしか躍起になってこなかったような人間は、いざ自分が社会でエリートとなり、リーダーとなっても、同じように他人を打ち負かし、自分が勝ち誇ろうとする以外にどう振舞うべきか判らなくなるのでしょう。



 勿論、リーダーに求められる資質とはそんなものではないし、そんな人間を真のエリートと呼べる筈もありません。



 合氣道は、天地自然の理と徳を学ぶための修行の道です。それは、『荘子』「説剣篇」の中で説かれた「天子の剣」、絶対不敗の王者の剣、皇帝の剣です。



 更に、合氣道の技のお稽古はお互いが相手を思いやらなければ成立しません。

普通にお稽古をすることが、自然に誠実さや他者への配慮を身に付ける情操教育になるのです。

 また、合氣道の技は非常に高度なものなので、覚えるだけでも優れた脳トレにもなります。



 そして、練心館では安易に昇級できません。否が応でも「マシュマロ能力」が鍛えられますし、目先の合理性や目先の損得、目先の勝ち負けに囚われない、長期的な視野で物事を本質的に捉える思考力が養われると思います。



 今年の練心館道場子どもクラスのテーマは「真のエリートを育てる英才教育!」。



 何だか結局は手前味噌な自画自賛となってしまいました。

 しかしそれでも、練心館には他所とは違う、練心館に天から与えられた役割があるのだと信じています。



 本年も是非、皆様からの温かなご理解とご支援を宜しくお願い申し上げます。






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 新年明けましておめでとうございます。



 練心館が創立して、今年で33年目になります。そして、今年の1月で私が二代目館長を継いで丸10年となりました。



 元々、情報機器等の扱いが大の苦手な人間ですが、頑張ってブログなるものを始めようという所存です。皆様、宜しくお願い申し上げます。





 所で、いつもお正月のこの時期になると想い出すのが、「新春禊の行」です。



 30年程前の話になりますが、当時、私は横浜市港南区にある心身統一合氣道の実心館道場(現・実心館合氣道会本部)にお世話になっていました。



 その頃、正月3日の早朝に大勢が集まって、栃木県の鬼怒川に入るという一大イベントが行われていました。それが「新春禊の行」です。



 気温零下何度の中、岸には薄氷が張った川に入るのですが、川から上がると髪の毛から氷柱が生えたり、歩く度にサンダルの裏に河原のゴロゴロした重たい石が一瞬で凍り付いてくっついてきたり、なかなかの荒行だったと思います。



 それも今となっては懐かしい想い出です。



 そしてお正月のその時期、いつも道場で聴いた話が「何故お正月のこの時期に辛い禊の行をするのか?」という話でした。



 禊の行は古代から行われていた行法で、日本最古の記述は記紀神話に書かれたイザナギのお話、「小戸の神業」でしょう。



 火の神を産んだ時の火傷が原因となってイザナミは亡くなってしまい、黄泉国に行ってしまいます。イザナギは妻を追って黄泉国へ行くのですが、そこは恐ろしい世界で、イザナギは命からがら逃げ帰ってきます。すると体中に穢れがこびり付いている事に気付き、川に入って禊をします。この時に多くの神々が産まれました。



 「禊」の語源は、一説によると、「身を削ぐ」から来ているといわれています。まさに、心身にこびり付いた罪穢れを削ぎ落とす、という事でしょう。



 「何故、お正月に禊をするのか?」



 それは勿論、去年の罪穢れ、悪い事、嫌な事、それらをきれいさっぱり洗い流し、心身を清めるため、といえるでしょうが、それだけでは駄目なのだ、という事を毎年聞かされました。



 「何故、お正月に禊をするのか?」



 去年の罪穢れ、悪い事、嫌な事、それらをきれいさっぱり洗い流すのは勿論だけど、どうせならついでに、去年の嬉しかった事、楽しかった事、良い事もこの際全てきれいさっぱり洗い流してしまいなさい。いつもそう言われました。



 これには理由があるそうです。



 人間は、過去の良かった事にいつまでもしがみ付いていると、却って、勇気を持って新たな一歩が踏み出せなくなってしまったり、力強く未来を切り開いて行こうという気力が萎えてしまったりするそうです。



 だから、新しい年の初めに禊の行を行って、去年の罪穢れ、悪い事、嫌な事、そして嬉しかった事、楽しかった事、良かった事、頑張った事、まとめて全てを洗い流してしまい、生まれたばかりの赤ん坊の様な、真っ白な心と体に立ち帰って、今年もまた頑張るぞ、となるための禊の行なのだそうです。





 残念ながら、練心館では川に入ったり、滝に打たれたり、冷水を被ったり、そういった修行は一切やっていません。



 別にやる必要もないかな・・・?というのが正直な所でしょうか(やっている方々に対しては心より敬意を表したいと思います)。



 合氣道開祖・植芝盛平先生はこう仰っています。



 「合気というものは、小戸の神業であって、禊である。」(『合気神髄』P138)



 これは、正しい合氣道の稽古をしていれば、それが取りも直さず、心身を祓い清め、洗い清める禊の行になっているのだ、という事だと思います。



 また、小戸の神業とは神産みの事であり、正しい合氣道の稽古は、宇宙、世界の生成発展の姿になぞらえる事ができるものだ、という意味ではないかと思います。



 そんな訳で、今年も、正しい合氣道の稽古ができますように・・・。




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