新井恵理那さん、ありがとう。
8月
26日
令和2(2020)年3月18日(水)。
テレビ朝日「あいつ今何してる?」にて、フリーアナウンサーとして活躍する新井恵理那さんが通っていた合氣道道場として当道場が紹介されました。
放送をご覧になった方々から大きな反響を頂きまして、誠にありがとうございました。
あれから5カ月も経ってしまいましたが、せっかくなので、放送では触れられなかった裏話を書こうと思います。
番組は、中学時代の新井恵理那さんが密かに憧れていた道場の年上のお兄さん「K君」を捜す、という内容でした。
実は色々と事情があって、平成17(2005)年に自分とK君とは何となく気まずい別れ方をしたまま、ずっと音信不通になっていました。
彼とは、かつて先代館長、藤野進先生の下で共に稽古に汗を流し、「子どもクラス」の夏合宿では自分とK君で藤野先生を補佐するのが毎年の恒例でした。
藤野先生亡き後、先生と個人的に親しかった方からも、弟子の中でも毎年合宿の補佐をしていた自分とK君の二人に、先生は特に期待を懸けていたのだと聞かされていました。
今回、番組の企画にかこつけて、自分は、K君との14年振りの再会に、今まで心の中にモヤモヤとずっと消えずに残っていた忸怩たる思いを、お陰様で少なからず晴らすことができました。
新井恵理那さんにとっては、憧れのお兄さんを捜し出し再会させることに貢献した自分は、ある意味キューピッドなのかも知れませんが、自分にとっては新井恵理那さんこそが、気まずい別れ方をしたまま10数年間ずっと音信不通になっていた同門の友と再会させてくれた、素敵なキューピッドです。
(※新井恵理那さんをビーナスではなくキューピッドに譬えてしまうこの贅沢、お許し下さい。)
恵理那さんが受験勉強に専念するために道場を休会した平成16(2004)年の秋冬頃、先代館長、藤野進先生は著しく体調を崩され、年末に緊急入院、そして年明けの1月4日に呆気なく帰らぬ人となってしまいました。
病床の藤野先生より、まるで映画やドラマのワンシーンのように、「もしもの時は君に後継者になって欲しい」と指名され、自分はその約束を果たし現在に至っています。
しかし何処の世界でも、トップが亡くなると燻るのが後継者問題です。
お恥ずかしい話ですが、正直、自分が2代目を継ぐ時もすんなりと満場一致でという訳には行きませんでした。
以前のブログにも書きましたが、自分が先代館長の下で稽古した期間はたったの5年。それ以前は別の道場で別の先生の門下でした。
参照 http://jp.bloguru.com/renshinkan/256471/2015-12-24
今思えば、当時の練心館道場の一部の先輩達にとっては、他所の道場から来た年下の者が、たった5年間師事しただけで後継者に指名されるというのは、合氣道家としての実力云々とは別の、どうしても納得出来ない問題だったのだと思います。
平安時代初期、無名の留学僧に過ぎなかった弘法大師空海が、遣唐使として渡った長安の青龍寺で、たった2年の修行で恵果和尚より密教の後継者に指名されたという逸話がありますが、空海はその後、即刻日本に帰国してつくづく正解だったと思います。
そのままいつまでも長安に留まっていたらきっと面倒なことになっていただろうな、と烏滸がましくも自分の経験と照らし合わせてそう思います・・・。
(※「何様のつもりだ!」と突っ込みをどうぞ。)
当時、練心館道場は自分を後継者として支持してくれる齋藤派と、それは認めないという反齋藤派に分裂し、まだ学生だったK君もその板挟みの間で葛藤し、随分悩んだのではないかと思います。
先代館長、藤野進先生は、自分に対しては「齋藤君をただの弟子とは思っていない、同じ道を極めんとする同志であり、寧ろライバルだと思っている」と言ってくれていました。
一方で、小学生の頃からずっと道場に通い続けているK君のことは、お子さんのいらっしゃらない先生にとっては、まるで本当の息子のように特別に可愛がっているように見受けられました。
同様に、K君にとっても藤野先生は単なる習い事の先生を超えた、決して替えの効かない特別な存在だったのだと思います。
結局、自分に藤野進先生の代わりなど務まる筈もなく、K君はこの騒動の中、道場を離れて行ってしまいました。
この頃は色々ありましたが、最終的な責任は全て館長たる自分にある訳で、お恥ずかしい話、全て自分の不徳の致す所です。
今回、新井恵理那さんが中学時代に憧れた合氣道道場のお兄さんを捜索し再会するという番組企画において、道場のシーンのロケは令和元(2019)年の8月末でした。
撮影中、14年振りにK君と楽しく話したり、合氣道の稽古も出来て、本当に感無量でした。
そしてそれを誰よりも喜んでくれていたのは、天国の藤野進先生だったと思います。
藤野進先生門下、道場の後継者となった自分、道場は離れてしまったけれど今はゲームプランナーとして好きなことを仕事にして頑張っているK君、そして、何よりも今回の再会の切っ掛けを作ってくれた、今やフリーアナウンサーとして大活躍する新井恵理那さん。
人の縁というものは、途切れてしまっている様でも何処かで繋がっていて、時として運命は、その繋がりを再確認させてくれるような粋なことをするものです・・・。
さて、当初、新井恵理那さんと自分は全く接点が無かったものと思っていましたが、それは自分がすっかり忘れていただけで、たった一度だけ、それも結構強烈な出会いがあったことを後に鮮烈に思い出しました。
その切っ掛けは、昨年、ちょうど番組の撮影があった頃に出版された新井恵理那さんのフォトエッセイ集『八方美人(宝島社)』(※該当部分は第2章、P24~26「ミスチルが頭の中で鳴り響き……」)を読んだことでした。
平成16(2004)年の秋冬頃、体調を崩されていた先代館長、藤野進先生に代わって稽古を担当していた最中、当時中学校3年生だった新井恵理那さんと弟さんがお父様に連れられてやって来られました。
訊けば、恵理那さんは高校の推薦入試に失敗し酷く落ち込んでいる様子でした。
嘘みたいな話に聞こえるとは思いますが、彼女を一目見た瞬間、全身にビビビッと電気が走ったような衝撃を受け、その時自分は何かしら使命を課されたような感覚がありました。
自分は何者かに突き動かされるように「いつまでもクヨクヨしてたってしょうがないだろ!」の言葉を皮切りに、随分厳しい態度で叱咤激励しました。
またその時は、持ち前のスピリチュアル的能力も不思議と全開になり、恵理那さんの将来について予言めいたことも言ったと思います。
帰り際には、北野武監督「キッズ・リターン」の名台詞を引用して、「君の高校入試はこれからで、まだ何も始まっちゃいないよ!」といった言葉で送り出した筈です。
当時の恵理那さんには、自分は相当嫌われてしまったと思いますが(恵理那さん、あの時は本当にごめんなさい・・・)、お父様は自分のこの厳しい叱咤激励を凄く感謝して下さり、その後、本人が頑張って一般入試で希望の高校に無事合格した時はもちろん、大学(因みに自分も青学出身でNHKの藤井彩子アナウンサーとは同期で同じゼミでした)に合格した時、セント・フォースさんに所属が決まった時も報告の電話を下さいました。
しかし自分は、直後の高校合格時点まではまだその時のことを覚えていましたが、大学合格以降は、自分が恵理那さんにガミガミ叱咤激励したこと自体を完全に忘れてしまっていて、お父様をがっかりさせてしまいました。
新井恵理那さんには是非、お父様に「以前は大変失礼致しました。今は全て思い出しました。」と宜しく伝えて頂きたいです・・・。
今回の、テレビ朝日「あいつ今何してる?」や、新井恵理那さんのフォトエッセイ集『八方美人』を通して、会えなくなっていた人と再会できたり、忘れていた記憶が蘇ったり、これらも皆、天から頂いた不思議な「ご縁」だと思っております。
頂いた素敵な「ご縁」を大切にし、これからもずっと道場挙げて新井恵理那さんを応援していくつもりです。
恵理那さん、お体に氣を付けて、末永くご活躍することを期待しております。