魄(はく)を土台に、その上に魂(こん)の花を咲かせる
1月
26日
練心館では毎年、鏡開きの時に「館長年頭挨拶」として、新年に当たり、その年の「子どもクラス」のテーマ・方針を保護者の方々に向けてお話してきました。
今年の鏡開きは、1月17日(日)に無事執り行われましたが、その時の話の内容をここに記そうと思います。
毎年、原稿は用意せず、頭の中にある大体の内容を、その場の勢いで語っているだけなので、当日とは多少違う所もあるかもしれません。
また、今年は「子どもクラス」に限定せず、「大人一般クラス」「女性クラス」を含む、練心館全体のテーマ・方針というという内容になりました。
皆様、新年明けましておめでとうございます。
お陰様で、今年で練心館が創立して34年目となり、私が二代目館長を継いでから12年目となりました。
練心館は今や恐らく、専門武道場としては横浜市都筑区で一番歴史のある道場ではないかと思われます。
これも偏に、支えて下さっている皆々様のお陰であると、改めて、心より感謝申し上げます。
さて、毎年、この場を借りて、練心館「子どもクラス」の「今年のテーマ・方針」についてお話させて頂いておりますが、今年はある意味「原点回帰」致しまして、合氣道開祖、植芝盛平先生の教えを、そのまま今年の練心館のテーマ・方針に掲げよう、という思いに至りました。
したがって、今年のテーマ・方針は、「子どもクラス」だけに限定致しません。「大人一般クラス」、「女性クラス」も含めて、全部これで行こうと心に決めました。
練心館の今年のテーマ・方針は、ずばり、「魄(はく)を土台に、その上に魂(こん)の花を咲かせる」であります。
植芝盛平先生の思想、延いては合氣道を理解しようとする上で、この、「魄(はく)」と「魂(こん)」の問題は、決して無視できない重要なものだと言えます。
仏教思想では一般的に、「魄(はく)」とは、同じ「たましい」でも肉体を司るもので、死後、大地へと帰って行くものであり、「魂(こん)」とは、同じ「たましい」でも精神を司るもので、死後、天へと昇って行くものであるといいます。
それでは開祖の説かれる「魄(はく)」と「魂(こん)」とは、いったいどのような意味を持っているのか、私なりの解説は以下の通りです。
「魄(はく)」とは、目に見える物、形のある物、勝ち負けの着けられるもの、数値に置き換えて比較考量できるもの、金額に換算して比較考量できるもの。
つまり、多くの現代人がそれに囚われて一喜一憂しているもの、例えば、勝ち負け、点数、偏差値、お金、これらは全て、魄(はく)だといえます。
一方で、「魂(こん)」とは、目に見えないもの、形のないもの、勝ち負けの着けられないもの、数値に置き換えられないもの、金額に換算できないもの。
つまり、これらは全て人間の「心」の問題です。我々はこういったものの重要性を、あまりに当たり前過ぎてついつい忘れがちですが、いつの時代でも、どんな世の中でも、人間が一番大切にしているものは、こちら側のものだといえます。
「魄の世界を魂の世界にふりかえるのである。これが合気道のつとめである。魄が下になり、魂が上、表になる。それで合気道がこの世に立派な魂の花を咲かせ、魂の実を結ぶのである。」
(『合気神髄』P13)
「現代は物質、魄の世界である。しかし魂の花が咲き、魂の実を結べば世界は変わる。いまや精神が上に現われようとしている。精神が表に立たねばこの世はだめである。物質の花がいまや開いているが、その上に魂の花、魂の実を結べばもっとよい世界が生まれる。」
(『合気神髄』P13)
「体を通して、形のあるものは魄である。物の霊を魄というのであるが、我々は魂の学びを学ぶのである。現代は魄を中心としているが、魂魄阿吽でゆかなければいけない。魂が魄を使うのでなければいけない。
いま世の中は、魂の和合へと進んでいる。毎日これで進んでいる。我々は精神科学の実在である。自己の肉体は、物だから魄である。それはだめだ。魄力はいきづまるからである。つまっているからである。
いまや世界は、魂の救いを求めるようになってきている。日本は、ぐずぐずしていてはいけない。いま、我々は各所に与えなければならない役割がある。」
(『合気神髄』P18)
「これまでの武道はまだ充分ではありません。今までのものは魄の時代であり、土台固めであったのです。すべてのものを目にみえる世界ばかり追うといけません。それはいつまでたっても争いが絶えないことになるからです。目に見えざる世界を明らかにして、この世に和合をもたらす。それこそ真の武道の完成であります。今までは形と形のもののすれ合いが武道でありましたが、それを土台としまして、全てを忘れ、そのうえに自分の魂をのせなければなりません。」
(『合気神髄』P154)
現代人は、大人も子どもも、いつも何かに追い立てられ、熾烈な競争に晒され、目に見える物、「魄(はく)」ばかりを追い求めているようにも見受けられます。
勉強しても常に点数と偏差値を追い求めさせられ、仕事をすれば常に成果と売り上げを追い求めさせられ、ニュースを視れば株価の変動に一喜一憂し、試しにスポーツに気分転換を求めても、そこでは勝つことを要求され、関心は順位と獲得した金メダルの数ばかり・・・。
しかし、先程も申しましたが、そんな「魄(はく)」ばかりの世の中で生きている我々にとっても、本当に大切なことは、目に見えないもの、形のないもの、勝ち負けや数字、お金で評価できないものである、ということを決して忘れてはいけないと思います。
我々はそのことを、あまりにも当たり前のこと過ぎて、ついつい忘れてしまいがちなだけだと言えます。
子どもたちには、このことについて、改めて考えてもらうために、私はしばしば稽古の前にちょっと意地悪な質問をすることがあります。
「もしも、日本中のお母さん全員に『全国一斉お母さん試験』というのを受けさせて、『どれだけ優しいか』とか、『お洒落か』とか、『お料理の腕前はどうか』とか、全て点数を付けて順位を付けたとするよ。」
「もしも、今のお母さんよりも何十点も点数の高い、別の優秀なお母さんと取り換えてくれるって言ったら嬉しい?」
そう訊くと、子どもたちは一斉に「いやだー!」と叫びます。
ちょっと意地悪が過ぎますが、更に訊くのは、「どうして?、今のお母さんよりずっと優しいかもしれないよ?、お料理だってプロ級の腕前かも知れないよ?」
それでも子どもたちは「ぜったいに、いやだー!」と叫びます。
なぜ「いや」なのか?。そこにはもっともらしい理由など必要ありません。
子どもたちだって解かっています。日本中探せば、自分の母親よりも、もっと大らかで優しく、そんなにガミガミ怒ったりしないお母さんはいくらでもいるでしょうし、料理の腕前がずっと上のお母さんだっていくらでもいるでしょう。
しかし、そんなことは、「人間にとって本当に一番大切なもの」の前では何の意味もありません。
いつの時代も、どんな世の中でも、人間にとって一番大切なものは、目に見える物や勝ち負けや、数字や金額に置き換えられない所にあるのであり、合氣道開祖、植芝盛平先生はそれを「魂(こん)の花を咲かせる」と表現されたのだと言えます。
開祖はまた、この「魄(はく)」と「魂(こん)」の問題を、別の言葉でも表現されていました。それが、「物質科学」と「精神科学(霊科学)」です。
「物質科学」とは世間一般でいう物理学や化学のことではなく、まさに開祖の言葉で言うところの「魄(はく)」を意味していると考えられ、「精神科学(霊科学)」というのも、決して心理学や精神医学のことではなく、開祖の説かれた「魂(こん)」を指すものだと考えられます。
「合気道は、精神(霊)科学であります。」
(『武産合氣』P74)
「世界中の人々が平和を望み、平和を願っているのに、この世は依然として争いあい憎みあっています。
それは物質科学と精神科学(霊科学)とが調和していないからであります。
今や物質科学はその頂点に達した観があります。ところが精神科学はなおざりにされていたのであります。
今迄は魄(肉体的)物質の世界でありましたが、これから魂(精神的)と魄とが一つにならなければなりません。物質と精神との世界に長短があってはなりません。
人間は霊ばかりでは駄目で、肉体がなければ働けません。また肉体ばかりでは本当に働けません。肉と霊が両々相まって働く時、真実の働きが出るのであります。」
(『武産合氣』P75~76)
「物と心の調和した世界を造ればよいのである。どちらにかた寄ってもいけない、物と心は一つのものである。
現在、物資科学は大いなる進歩をとげているが、反対に精神科学の実在はまだである。人の世は物質科学と精神科学との正しい調和と天地万有の気によって、人の整いし世となれば、この世の争いはなく和平の世となる。それには我々の合気道も天の運化におくれず、また身体の武のみでは、これを達成することは至難である。世を乱すのは、一元の本を忘れるからで、一元は、精神の本と物質の本の二元を生み出し、複雑微妙な理法をつくる。」
(『合気神髄』P116~117)
合氣道開祖、植芝盛平先生が説かれた「精神科学(霊科学)」とは、同じく開祖の説かれた「魂(こん)」とほぼ同義であると思われますが、誤解を恐れずに、それを更に言い換えるならば、それは「スピリチュアリズム」のことであると言っていいと思います。
江原啓之さんが世に出て以降、「スピリチュアル」なる言葉は完全に市民権を得て現在に至っておりますが、その後、「スピリチュアル」で金儲けをするとか、「スピリチュアル」で出世するとか、本来、形や数字に現せない「魂(こん)」の問題として取り扱うべきものを、人間の我と欲に結び付けて喧伝する有象無象が、残念ながら余りにも増えてしまいました。
これは飽くまでも私の個人的な見解ですが、我々のような所謂「霊能者」でも何でもない普通の人間にとって、「スピリチュアリズム」の神髄とは、「前世」でも「霊界」でも「守護霊様」でもなく、日々の当たり前の生活の中で、目に見えないもの、形のないもの、勝ち負けの着かないもの、数値や金額に換算して比較考量できないもの、を大切にすること、だと思います。
誤解を恐れずに言いますが、私は個人的には、「霊」などの問題に関しては決して頭ごなしの否定派ではありません。それ故に、「スピリチュアル」を金銭欲や出世欲などの人間の我と欲に結ぶことで、以前ブログに書いたような「禅病」「偏差」と同等の、心身への悪影響が生じないか、憂慮するのです。
話は変わりますが、昨年の大晦日は、何年振りかでテレビで格闘技のイベントを放送していました。
以前の私は「武術志向」が強く、格闘技なども大好きでしたので、懐かしさからついつい録画して視てしまいました。
録画した格闘技の試合を視ていると、変な話ですが、唐突に、何の脈絡もなく、新約聖書の中のイエス・キリストの言葉が頭に浮かんできました。
それは、イエスが十二使徒を遣わす場面です。
「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」
(新共同訳・マタイによる福音書10:28)
世の中には、「実戦武術」や「最強格闘技」を標榜して、いかにして相手により大きなダメージを与え、より酷く傷付け、より迅速に殺傷するかと、躍起になっているような人たちもいます。
しかし、そのような人たちも、考え方によっては、「所詮は体は殺すことができても、魂には傷一つ付けられない人たち」と言えるのかも知れません。
そう考えると、合氣道は、「体を殺すことは出来ずとも、魂も体もこの世で祓い清めることのできる武道」と言えるのではないかと思います。
開祖は、「合氣道は禊である」とも仰っていました。
合氣道を「恐れる」必要は全くありませんが、真に「畏れる」べき武道とは何か?と問われれば、それは合氣道であると答えて間違いないと思います。
それも、合氣道が「精神科学(霊科学)」であり、「魂(こん)の花を咲かせる」ものであるからだと言えるでしょう。
「我国には、本来西洋のようなスポーツというものはない。日本の武道がスポーツとなって盛んになった、と喜んでいる人がいるが、日本の武道を知らぬも甚しいものである。
スポーツとは、遊技であり遊戯である。魂の抜けた遊技である。魄(肉体)のみの競いであり、魂の競いではない。つまりざれごとの競争である。
日本の武道とは、すべてを和合させ守護する、そしてこの世を栄えさせる愛の実行の競争なのである。」
(『武産合氣』P50)
「魄の世界を魂のひれぶりに直すことである。ものを悉く魂を上にして現すことである。
今迄はもの一方だった。あの人は魄力が強いとかいった。今日はなりゆきで魄力の世界である。だから世の中の争いは絶えない。
スポーツも魄である。スポーツでは日本は充分ではない。魄力だからである。魄力でやってゆく国は、最後はうまくゆかない。阿吽の呼吸でやってゆくこと、あくまで魂を表に出すことである。魂の力をもって、自分を整え、日本を整え、神を表に出して神代を整え祭政一致の本義に則ることである。
合気はみそぎであり、神のなさる世直しの姿である。
魄力が強いということは(世の剣聖といわれる人も魄力は強かったが)それでは戦争が、いつまでたってもなくならないということである。争いよりぬけるよう、大神様のみ心に復帰すべきである。( 後 略 )
( 中 略 )
武とはすべての生成化育を守る愛である。でなければ合気道は真の武にならぬ。合気道は勝ち負けをあらそう武とは違う。」
(『武産合氣』P165~166)
「魄(はく)を土台に、その上に魂(こん)の花を咲かせる」
我々にとって、目に見える物、形のある物、数字や金額に置き換えて比較考量できるものなども、それはそれで必要なものです。
我々は決して霊界に住んでいる霊の集団などではなく、目に見える形のある肉体を持ち、物質世界を生きる人間なのですから・・・。
しかし、それらは全て「魄(はく)」であって、単なる土台に過ぎません。
美しい容姿や逞しい肉体、立派な学歴や収入など、それはそれで素晴らしいものですが、それを人生の最終目標にしてしまったら、その人は、土台だけ作って置きながら、何一つ人間として本来やるべきことを果たさなかったと言われてしまいます。
立派な土台を作ったなら、その上に、目に見えない、形のない、勝ち負けや数字や金額では計れない、愛や友情、優しさや思いやり、誠実さや気高さなどの、精神的な美しさともいうべき、「魂(こん)の花」を咲かせなければなりません。
また、開祖が仰るように、「魄(はく)」ばかり追い求めていると、いつまで経ってもこの世から、つまらない喧嘩や争い、悲惨な戦争がなくなりません。
この世のありとあらゆる争いは、全て、目に見える物、形のある物、勝ち負けの着くもの、数字や金額で計れるものの、奪い合いが原因で起こっています。
合氣道を始めるに当たって、それぞれの人はそれぞれの目的で始めるのでしょうが、そもそも合氣道には、合氣道がこの世に出現した固有の目的があるのだ、ということを忘れてはいけません。
それは、「この世からつまらない喧嘩や争い、悲惨な戦争などを少しでもなくすこと」であり、いずれはこの世に「地上天国を実現すること」であるといわれます。
そのためにも、我々は、「魄(はく)」は飽くまでも土台に過ぎず、その上に、如何にして「魂(こん)の花」を咲かせるか、真剣に考えなければなりません。
最後に、実は、「魂(こん)の花を咲かせる」ことの重要性を説かれたのは、何も植芝盛平先生だけではない、ということを、文学というジャンルの中から少しだけご紹介したいと思います。
フランスの作家、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの書いた世界的名作『星の王子さま』を貫く最重要テーマは、「肝心なことは目に見えない」という言葉に尽きるのではないかと思います。
これなどはまさに、「魂(こん)の花を咲かせる」ということに通じるものだと言えましょう。
「『さよなら』と、キツネがいいました。『さっきの秘密をいおうかね。なに、なんでもないことだよ。心で見なくちゃ、ものごとはよく見えないってことさ。かんじんなことは、目には見えないんだよ』
『かんじんなことは、目には見えない』と、王子さまは、忘れないようにくりかえしました。」
(『星の王子さま』 サン=テグジュペリ 作、内藤濯 訳、岩波書店)
そして近代日本でも、「目には見えない肝心なこと」を生涯、詩や童話に描き続けた作家の代表として、宮沢賢治の名が挙げられると思います。
宮沢賢治が、「魂(こん)の花を咲かせる」ことを書いた名文として、大正13(1924)年に童話集として生前唯一刊行された、『イーハトヴ童話 注文の多い料理店』の序文があります。
「わたしたちは、氷砂糖をほしいくらいもたないでも、きれいにすきとおった風をたべ、桃いろのうつくしい朝の日光をのむことができます。
またわたくしは、はたけや森の中で、ひどいぼろぼろのきものが、いちばんすばらしいびろうどや羅紗や、宝石いりのきものに、かわっているのをたびたび見ました。
わたくしは、そういうきれいなたべものやきものをすきです。
( 中 略 )
わたくしは、これらのちいさなものがたりの幾きれかが、おしまい、あなたのすきとおったほんとうのたべものになることを、どんなにねがうかわかりません。」
(『注文の多い料理店』 宮沢賢治 著 新潮文庫)
今年の練心館のテーマ・方針は、合氣道の原点とも言うべき、開祖、植芝盛平先生の教えに帰って、「魄(はく)を土台に、その上に魂(こん)の花を咲かせる」で行こうと思います。
宮沢賢治の言葉を借りれば、ここ練心館で学び、稽古する合氣道が、お終い、私たちの「すきとおったほんとうのたべもの」になることを、私も願ってやみません。
本年も、皆様からの温かなご理解、ご支援を賜りたく、どうぞ宜しくお願い申し上げます。