独自超訳『徒然草』第百五十段 そして「師」を語る
12月
24日
『徒然草』 第百五十段
能をつかんとする人、「よくせざらんほどは、なまじひに人に知られじ。うちうちよく習ひ得て、さし出でたらんこそ、いと心にくからめ」と常に言ふめれど、かく言ふ人、一芸も習ひ得ることなし。
未だ堅固かたほなるより、上手の中に交りて、毀り笑はるるにも恥ぢず、つれなく過ぎて嗜む人、天性、その骨なけれども、道になづまず、濫りにせずして、年を送れば、堪能の嗜まざるよりは、終に上手の位に至り、徳たけ、人に許されて、双なき名を得る事なり。
天下のものの上手といへども、始めは、不堪の聞えもあり、無下の瑕瑾もありき。されども、その人、道の掟正しく、これを重くして、放埓せざれば、世の博士にて、万人の師となる事、諸道変るべからず。
(独自超訳)
合氣道を稽古する人の中には、「下手くそなうちは、なまじっか人に知られないようによう。こっそりと練習して十分上手くなってから、堂々と人前にも出るようにした方が、その方が粋だし格好いいじゃないか。」などと言う人もいるようだけれども、そんなふうに言う人は、結局は何も身に付かないだろう。
下手くそな初心者のうちから、上手な人達の中に交じって、時には手厳しく間違いを指摘されたり、笑われたりしても恥ずかしがらず、マイペースでコツコツと努力が続けられる人は、天性の才能などなくても、飽きることなく、目先の合理性や実戦性に惑わされて自分勝手な自己流に陥ることもなく、修行の年月を過ごせば、才能があってもそれに甘んじて努力を怠っている者よりは、最終的には達人の境地に至り、いつの間にやら人徳や品格も備わり、人々に認められて、名声までをも得ることになるのである。
天下の名人とされるような人であっても、初めのうちは、「才能が無い」などと噂されたり、大失敗をしたり、大恥をかいたりと、色々あったものなのである。けれども、その人が、その道の「理」を守り、基礎・基本を重んじて、自分勝手な自己流に陥ることをしなければ、いずれはその道の大家となって、多くの人々の師となることは、全ての道において変わらないのである。
自分が、練心館初代館長、藤野進先生に師事していた期間は、実はたったの5年間でした。
しかしその間、自分で言うのも何ですが、私は結構「優等生」な弟子だったと思います。
短い間でしたが、自分のことを心底信頼して、認めて下さっているのだなぁ・・・、と感じたことは数限りなくありました。
練心館20周年記念式典の時は、藤野先生による「館長模範演武」の「受け」を務めさせて頂きましたし、「齋藤君をただの弟子だとは思っていない。むしろ同志であり、ライバルだとも思っている。」と言って頂いたこともありました。
また、「齋藤君の(合氣道家としての)実力は、もう十分私を超えているよ。」と言って頂いたこともありましたし、先生亡き後、人づてに聞いた話では、「私が何十年掛けて苦労して身に付けた技を、齋藤君は言った側から、いとも簡単に体現してしまうんだ・・・。」とも仰っていたそうです(もういい加減に自慢話はやめます)。
そんな藤野先生は、平成16年の秋頃から急激に体調を崩され、12月末の緊急入院後、たったの9日で帰らぬ人となってしまったのでした。
入院されてすぐに、病院のベッドの上で先生は、「齋藤君、私の後、練心館を継いでくれないか?」と仰られました。その時は、「先生がいない間、練心館のために自分ができることは最大限します。それは必ずお約束します。だからそんなことは仰らずに、早く元気になって下さい。」と答えました。
結局は、「練心館のために出来ることは最大限する」という約束が、先生の仰られた通りに、「練心館二代目館長を継ぐ」という結果になった訳です。
当初は、「たった5年しか師事していないような者が(その5年の間に、諸先輩方を差し置いて、実質、自分が一番弟子扱いになっていました)後継者に指名されるなんて、生意気だ」ということで、本当に色々ありました・・・。
藤野先生にとっては結構「優等生」な弟子だったであろう私ですが、そんな私は、合氣道を始めた時からずっと「優等生」な弟子だったかと訊かれれば、それは全く違いました。
以前、ブログにも少し書いたかと思いますが、私に最初の合氣道の手解きをしてくれた師匠は、現・実心館合氣道会会長(当時は、心身統一合氣道、実心館道場館長)の村山實先生です。
中高生時代の私にとって、村山實先生は、圧倒的な厳父のような存在でした。
当時、村山先生には、精神的にも技術的にも、数多くの愛を込めた叱咤激励と、厳しい「ダメ出し」を頂きました。
お陰様で、その頃、村山先生から受けた教えは、現在の練心館での指導にも大変活かされています。
精神的なものを言えば、子どもたちへの躾と情操教育に村山先生の教えは随分活用させて頂いています。
また技術的には、例えば、最初に習う「片手取り転換呼吸投げ」の「受け」は、できるだけ小股で、上下運動を小さくして滑るように付いて行く、という、私自身幾度も注意されたものがありましたが、現在、練心館ではこれを「摺足歩法」と銘打って、丹田から滑るように移動する歩法の稽古として採用しています。
その他、今でもよく覚えているのは、「正面打ち」や「横面打ち」を打ち込もうとする時や、相手を氣で導こうとする時、思わず自分の顎が上がってしまう悪い癖を、「それでは自身の統一体が崩れてしまう」と何度も注意されました。
更に思い出深いエピソードとしては、高校の合氣道部部長時代、当時、捜真女学校合氣道部顧問で師範の佐藤先生という方が演武を行う、ということで、村山先生からその「受け」を取るように仰せ付かったことがありました。
まだ高校生だった自分にとっては、これは大変名誉なことだと意気込んで、県立武道館まで出稽古に行きました。しかし当の佐藤先生から、「齋藤君ではどうもまだ未熟で物足りない」と、それこそ「ダメ出し」されてしまい、結局佐藤先生の「受け」は、当時実心館青年部のリーダーだった松田さんという方が代わりに取られた、ということもありました。
この時は、「自分のどこがいけないのだろう?」と随分悩んでしまいました。
当時の自分は、豪快な「飛び受身」などは誰にも負けない自信がありました。そして未熟な自分は、演武の「受け」などは、とにかく大きく派手に跳べば良いのだろうと考えていました。
その後、村山先生から、己の「我」を完全に消し去って「無」になれた時、完全に「投げ」と調和し一体化した理想の「受け」が完成するのだと教えられ、「我」を消す「受身」の特訓をして頂きました。
今でも練心館では、たまにこの、「我」を消す「受身」の練習をしています。
そんなふうに、青春の全てのエネルギーを合氣道に捧げるような日々を過ごしていましたが、私の合氣道修行は、高校3年生の時に一度大きな挫折をします。
稽古で余りにも激しく投げられたのが原因で、右の肺が破れてしまい(気胸というやつです)、入院、即手術となってしまいました。
そして医師から、「レントゲン写真を見ると、左の肺もいつ破れてもおかしくない危険な状態だ」と告げられ、「自分はもう、一生、激しい運動のできない体になってしまった?!・・・」と、深く絶望してしまいました。
若さ故とは言え、今となっては随分思い込みが激しかったものだと、変に感心してしまいます。
しかし「人間万事塞翁が馬」とはよく言ったもので、前回のブログにも書きましたが、合氣道を挫折したお陰で、本気になって大学進学を目指そうと、頭の中を切り替えることができ、受験勉強にも集中できたのではないかと、今となってはこれも「運命」だったのだなぁ・・・と思っています。
その後、約10年の間、道場の畳の上でドタンバタンと稽古することからは、一切離れた生活を送っていました。
しかしその間、自分なりにずっと考えていたことがありました。
それは「臍下丹田の感覚とは本当はどういうものなのだろうか?」、「相手を氣で導くとは本当はどういうことだろうか?」、「心身統一とは本当は何なんだろうか?」といったことです。
「心身統一体ができていれば、押されてもグラつかないのだ」と教わり、「統一体のテスト」と称して色々やってはいましたが、高校生だった自分にとっては、「本当にこれで良いのだろうか?」という確信のなさ、覚束なさはどうしても払拭できないままでいました。
しかし不思議なことに、道場での稽古を離れていたこの10年の間に、この「覚束なさ」は、段々と自分の中で、「つまりこういうことだったのか・・・」という「確固たる確信」へと変化していったのです。
ですから、「心身統一と氣の原理」という合氣道の本質的な部分に関しては、自分の場合は、畳の上での稽古を一切しなかったこの10年の間が、一番実力が向上した、と今でも思っています。
「合氣道はある程度年齢が上がらないと本物は解からない」というのは、間違いのない真実であると言えます。
その後、高校教員になって後、結果的に自分の人生を左右するような運命的な出会いがありました。
担任したクラスの生徒のお父様が、万生館合氣道師範の宇野司先生でした。
そしてこれもまた運命的に、宇野先生から合氣道を指導して頂く機会が与えられたのでした。
それは今でも忘れません。万生館合氣道に伝わる「呼吸力の養成法」というものだったと思います。
こちらは宇野先生の両手を取り、宇野先生はその両手を柔らかく手前にスーと引くだけの、見た目は単純な動作でした。
しかしその瞬間、「神の啓示」を受けたかのような、不思議な衝撃を受けました。
まるで、心も身体も完全に一つに溶け合って、無限の宇宙に吸い込まれていくような感覚でした。
気付くと、自分は宇野先生の引かれた手に、当たり前のように付いて行っていました。
この時、自分は、「また本気で合氣道の修行を始めよう」と決心したのでした。
そして、当時は格闘技がブームで、自分も夢中になってテレビで応援したりしていましたが、「合氣道は『格闘技』でもなければ『護身術』でもない、思慮分別のある大人が、一生涯を賭けて探究する価値のある、高度な教養であり、高尚な精神文化、伝統文化としての『武道』である」と確信したのでした。
宇野先生との運命的な出会いがあってから2年後、稽古時間や曜日、交通の便を考慮して、たまたま一番通い易かった道場に入門しました。
それが、藤野進先生が館長・師範をされていた、合氣道練心館道場でした。
藤野進先生は、「世知辛い現代社会に、まだこんなにも大らかな方がいらっしゃったんだ・・・」と思わせてくれるような、俗世間を超越したような、不思議な人間的魅力に溢れた方でした。
稽古内容も比較的自由で、自分が探究したいテーマを、とことん研究させてもらえました。
武道の上達ということに関しては、明確な指針を持っていた自分のようなタイプの弟子にとっては、まさに水を得た魚のように伸び伸びと向上させてもらえた、素晴らしい環境だったと思います。
しかし、最近になって多少未練が残るのは、江上茂先生の「松濤會空手」を、もう少しきちんと正式に伝授してもらえば良かったな・・・、ということがあります。
藤野先生は合氣道に転向する以前、江上茂先生門下、「日本空手道松濤會 東急道場」にて松濤會空手を最高段位まで修めておられました。
たまたま最新号の月刊『秘伝』2016年1月号の誌面にて、スペインで松濤會空手を指導されている昼間厚雄先生という方が紹介されていましたが、長い間、自分の研究テーマである、合氣道開祖・植芝盛平先生の説かれる「魄(はく)」と「魂(こん)」の問題において、「魄」の当身というのが、いわゆる武術的身体操作と丹田の爆発力を使った「発勁」だとするならば、「魂」の当身というものは当初、存在しないのではないか?、と考えていました。
しかし、いつの頃からか、松濤會空手の脱力して全身を伸びやかに使う独特の突き、「スー突き」こそが、実体のない「心」に深く作用する「魂」の当身というべきものに近いのではないか、と思い至るようになり、更にこれを極小の動きにした、当身としての一つの完成形が、ロシア武術「システマ」の「ストライク」ではないか、という結論に至りました。
この問題は、引き続き自分の研究テーマの一つですが、もしも藤野先生が生きておられたら、是非とも色々とご意見を伺いたいところです・・・。
そしてこの頃、自分の「武道観」に多大なる影響を与えてくれた、もう一つの運命的な出会いがありました。
職場で同僚のオーラルイングリッシュの教員に、イギリス人のマイケル・ハドソン先生という方がいらっしゃいました。
ハドソン先生は、幕末の英雄、勝海舟の流儀として有名な「鹿島神傳直心影流剣術」を熱心に修行しておられ、今や直心影流の師範として、ご自身の会派、「硯舟会」を主宰されています。
ハドソン先生と色々と親しくお話させて頂く中で、ハドソン先生の日本文化に対する敬意とその造詣の深さに感銘を受け、また先生の「日本の武道」というものに対する考え方に、非常に深く共感するものがありました。
ハドソン先生はいつも、「日本武道の神髄は、思いやりの心である。」と、仰られていました。
元々は、イギリスで合氣道の修行に励んでおられ、来日後、それこそ運命的に鹿島神傳直心影流と邂逅し、すぐさまそちらに転向されたというハドソン先生ですが、その「日本武道の神髄は、思いやりの心である」という考え方は、合氣道開祖、植芝盛平先生の思想にも通じるものがあります。
「武道とは、腕力や凶器をふるって相手の人間を倒したり、兵器などで世界を破壊に導くことではない。真の武道とは、宇宙の気をととのえ、世界の平和をまもり、森羅万象を正しく生産し、まもり育てることである。」(『武産合氣』P18)
「合気は全部みそぎになっているのです。(中略)日本武道のはじめはここに基いています。
それを知らずして、ただ強ければよい、負けなければよい、と力と力で争い、弱いもの小さいものをあなどり、それを乗り取ろうとする侵略主義になろうとしている、その魔を切り払い、地上天国建設精神にご奉公をするのが、合気の根本の目的なのであります。」(『武産合氣』P110~111)
「ある人は軍備撤廃を叫んでいる。そして合気道も軍備ではないかといった人がいる。しかしそれは間違っている。
合気は、軍備の心を起さずに和合の道に進ませるのである。」(『武産合氣』P139)
「愛は争わない。愛には敵はない。何ものかを敵とし、何ものかと争う心はすでに宇宙の心ではないのである。
宇宙の心と一致しない人間は、宇宙の動きと調和できない。宇宙の動きと調和できない人間の武は、破壊の武であって真の武ではない。
真の武道には敵はない、真の武道とは愛の働きである。それは、殺し争うことでなく、すべてを生かし育てる、生成化育の働きである。愛とはすべての守り本尊であり、愛なくばすべては成り立たない。合気の道こそ愛の現われなのである。
だから武技を争って勝ったり、負けたりするのは真の武ではない。
真の武は、(中略)いかなる場合にも絶対不敗である。すなわち、絶対不敗とは、絶対に何ものとも争わぬことである。勝つとは己れの心の中の『争う心』に打ち勝つことである。」(『合気神髄』P34~35)
「日本の武は、決して、戦さや、闘いや、争いの道ではないのであります。」(『合気神髄』P48)
「喧嘩争いをおこさんようにするには、喧嘩争いの前に、先におさえる。これが日本の武道です。愛の道が肝心です。愛の道がこの世の力、この世の命です。」(『合気神髄』P100)
「我が国における古よりの武道に対する立法は、殺すなかれ、破るなかれであった。我が国の真の武道は大きく和するの道であり、身心の禊である。天の規則を地上に打ち立て、人が行なってまず自己をこしらえ、万物を守るのが武の掟である。しかるに今どきの武を講ずる人は往々にして日本の真武を知らず、中古よりの覇道的武道におちいっていることを悲しむ。」(『合気神髄』P161~162)
ごく稀に、日本人で、「日本武道こそが世界最強であり、どんな強い敵でも必殺で斃すことができるのだ!」、などと嘯く方がいらっしゃるようですが、そういったタイプの人を見てしまうと、自分は情けなくて暗澹たる気持になってしまいます。
冷静になって客観的に観れば、「実戦武術」という観点からも、中国や東南アジアの武術の方が、圧倒的に躊躇なく人体を破壊し、相手を殺傷する技術の宝庫だといえます。
一方で、「スポーツ格闘技」という観点から観れば、欧米のボクシングやレスリングの方が、遥かに合理的で洗練された技術を持っているといえます。
このことは、かつて格闘技がブームだった頃、K-1選手はパンチのテクニックを磨きに、皆ボクシングジムに通っていたし、総合格闘技に転向した選手はグラップリングテクニックを磨きに、皆レスリングジムに通っていたという事実からも理解できると思います。
はっきり申し上げて、日本武道は、「実戦武術」にも「スポーツ格闘技」にも余り向いていないと思います。
今時流行りの功利・実利主義の人間から見たら、日本武道などは、いかにも時代遅れの過去の遺物のように映るのかも知れません。
しかし、日本武道は、未だに海外で多くの人を惹き付けています。海外で日本武道の魅力に取り憑かれている人の多くは、「実戦武術」にも「スポーツ格闘技」にもない、深い「精神性」にこそ魅力を感じるのだと、口を揃えて言うのだそうです。
そしてこの、「日本武道の精神性」を突き詰めれば、それは、ハドソン先生が仰るように、「日本武道の神髄は、思いやりの心である」という結論に至るのではないかと思うのです。
今後未来に向けて、日本武道が世界に貢献できる役割があるとするならば、「日本武道の神髄」としての「思いやりの心」を世界に発信することで、少しでも世界平和に貢献することではないかと思います。
残念なことに、今もって尚、世界の多くの部分は「力による支配」で動いているといえるでしょう。
軍事力、経済力、そしてそれらに裏打ちされた国力、政治力、支配力。
そして歴史上、この「力による支配」というものを最も強く推し進めてきたのが、欧米の白人たちによる科学と合理主義の文化だといえます。
カリフォルニア大学教授で生物地理学者のジャレド・ダイアモンド先生は、著書『銃・病原菌・鉄』の中において、結果的に欧米の白人たちの創った文化が世界を席巻したのも、元を辿れば自然環境などの単なる地理的な要因からであって、この地球上に本来、人種や民族による優劣などは存在しないのだと訴え、1998年にピューリッツァー賞を受賞されました。
今後未来に向けて、日本武道が世界に発信すべきメッセージとは何か。
それは、「この世界で真に価値あるものとは、ただ力を行使して、弱きものを征服し、支配できるもの、だけなのであろうか?。徒に力を行使することなく、和を以てお互いを結ぶ日本武道の中には、今後未来に向けて、争いのない持続可能な社会を形成するためのヒントとなる、実践的な知恵がふんだんに含まれている筈である。」というものだと思います。
イギリスという国は、かつて、17世紀初頭にはもう既に、世界を席巻するグローバル企業を設立していました。
そして18世紀半ばには、世界に先駆けて技術革新に成功し、産業革命を成し遂げました。
更に19世紀には、地上最強の「大英帝国」として、七つの海を支配する程に強大になりました。
何も、ハドソン先生が「白人代表」で「イギリス人代表」な訳では決してありませんが、そんな「力による支配」の大先輩である国から、遥々この極東の島国、日本にやって来て、日本の伝統文化の繊細な優しさに最大限の敬意を持たれ、日本武道の神髄を誰よりも正しく理解されている・・・。
そして今や、当の日本人すらも忘れつつある、「日本武道の神髄としての思いやりの心」を、次代に継承し、啓蒙することに生涯を賭けて下さっている・・・。
一人の日本人として、これ程までに嬉しいことはなく、日本武道の未来についても、明るい希望が持てるような気がするのです。