ほぼ3カ月振りの投稿です。
そして話はやはり3カ月程前のことになってしまいますが、深夜にNHKのEテレで放送していた番組を視て、合氣道のことについて色々と考えさせられました。
それは、普段は水曜日の夜10時から放送されている「100分de名著」という番組で、その時は『ブッダ最期のことば』というタイトルで、全4回が一挙再放送されていました。
内容は、お釈迦様の最後の教えと言われている「涅槃経」を、仏教学者で花園大学教授・佐々木閑先生の解説で分かりやすく説くものでした。
その中で佐々木先生は、「仏教の二重構造」という話をされていました。
この「二重構造」というものは、合氣道の世界にもぴったり当てはまるものであり、この「二重構造」を、何とか一つにまとめて解消できないものか?というのが、ささやかながらも自分の長年の問題意識でもありました。
佐々木先生の仰る「仏教の二重構造」とは、一方が「出家修行者(※修行者集団である、サンガ・僧伽)」であり、一方が「在家信者(一般社会)」というものです。
「出家修行者(サンガ)」の目的は、修行によって、煩悩を吹き消した状態である「涅槃」、いわゆる「悟り」の境地に入ることであり、それは、普通の人間社会では叶わない「特別な生き甲斐」を求めることだとも言えます。
一方、「在家信者(一般社会)」の目的は、「布施(善行)」を行うことで、いわゆる仏教思想「因縁果報」でいうところの、よき「果報」を得ることだと言います。
普通ならば、「在家信者(一般社会)」の側だけで人間社会は成り立っているのですが、彼らは敢えて「お布施」をすることで、「出家修行者(サンガ)」の人々の生活を支え、その代わりによき「果報」が得られると信じる。
一方で、「出家修行者(サンガ)」は「在家信者(一般社会)」が納得するような立派な修行の姿を見せて、満足を与える。
佐々木先生は、この「二重構造」こそが、この世にある、あらゆる「生き甲斐」を追求する社会・組織のあり方だ、と仰っていました。
そして、今までに無いような新しい文化を生み出せる人たちは、「出家修行者(サンガ)」のような、一般社会の文化の価値観の外側にいる人たちである、とも仰っていました。
この世にある、あらゆる「生き甲斐」を追求する社会・組織は、この「二重構造」で成り立っている。
何となく解かるような気がします。
数年前、パワースポットブームというものがありました。
どこそこの神社やお寺にお参りすると、運気が上昇するとか、宝くじが当たるとか、素敵な恋人ができるとか、色々と喧伝され、場所によっては、あまりに大勢の人が押し掛けてしまい、問題にもなっていました。
テレビでは、経済アナリストと呼ばれる人たちが、パワースポットブームによる経済効果は云々で実に素晴らしい傾向である、などと評価していました。
しかし、当のパワースポットブームの仕掛け人(?)ともいうべき、そして「パワースポット」なる言葉を世に知らしめた張本人である、かの江原啓之さんは、そんなブームをやや苦々しく語っていたのが印象的でした。
パワースポットとは、本来、神仏の前で、自分が更に努力・精進します、と決意を固めるために行く場所であって、お金や異性、名誉や出世などの現世利益を求めて行く場所ではない、とのことです。
しかし、皮肉にも、そうした現世利益を求める人々が大勢押し掛けることによって、多くの寺社仏閣が潤い、組織運営面では支えられた、というのも事実でしょう。
まさに、パワースポットに集う多くの人々=「在家信者(一般社会)」の目的は、お参りしたり御札や御守を買う=「布施(善行)」を行うことによって、現世利益=よき「果報」を得ようとすること。
一方で、江原啓之さんのように「スピリチュアリスト」と呼ばれるような、ある種の「出家修行者(サンガ)」に属するような立場の人にとっては、神仏の御前で己の更なる努力と精進を誓うといった、俗世間では得られない「特別な生き甲斐」こそが魂の喜びであり、そういった意味でもパワースポットを訪れることには深い意味がある、ということなのでしょう。
合氣道の世界も、まさにこの「二重構造」で成り立っているといえるのではないでしょうか。
今や合氣道は、日本中、世界中の人々に広まっていますが、そうやってお稽古している人々のその大半は、合氣道とは、相手を投げ飛ばして抑え込んでやっつけるための技だと思っている、という実情があるのではないでしょうか?
本来、合氣道はそんなものではないのですが、こういった状況は結果として仕方なく生まれてしまったものだと、個人的には思っています。
世間一般では、武術・武道とは、鍛えて鍛えて「強く」なって、その「強さ」に物言わせて相手をやっつけるものである、という認識が多いようです。
しかし、己の「強さ」を根拠にして他者を制圧する、ということが成功する場合、それが成功するのは、間違いなく相手の方が「弱い」からである、という図式が成り立ちます。
スポーツゲームの試合では、それでお互いが正々堂々とぶつかり合い、遊びとして勝敗を競うものなので構いませんが、その方法論を実社会で実践することが、いわゆる「弱いものいじめ」だと個人的には考えます。
そもそも、古来「武術」に於いては、「強くなる」という発想はなかった筈です。
ルールも審判も制限時間もない戦闘では、襲撃する時は、武器や人数を最も「強い」安全な状態に、準備万端整えてから行うのが理想であり、逆に襲撃される時は、武器や人数なども含めて、最も「弱い」状態の時が一番狙われました。
つまり、命を懸けて戦わざるを得ない状況に追い込まれてしまった時とは、基本、相手のほうに分がある状態であり、そういった絶体絶命の状況下、何とか命だけは守れぬものか、という場面で「術」というものが要求され、そこから「武術」というものが発展してきたと言えます。
「強くなる」ではなくて、そもそもの初期設定が、自分のほうが「弱い」から始まります。
その結果、「武術」では表面的な「強さ」ではなく、全く「質」の違う身体操作や、「心法」としての精神性が発達しました。
そして時は流れ、開祖・植芝盛平先生は、「武術」の「質」を土台にして(※魄)、その上に、闘争という低次元の世界から脱却した、愛と調和の花を開かせる(※魂)、真の「武道」、合氣道を創始されたのです。
しかし今、この植芝盛平先生の高尚な合氣道の思想は、合氣道を習う多くの一般の生徒さんたちや各学校のクラブ活動の部員さんたちには、なかなか理解されていないのが現状ではないでしょうか?
戦後、合氣道は日本中、世界中に広く大きく発展しました。
しかし、入門者の中には、安易な闘争術・制圧術としての「強さ」を求めている者も多く、組織を大きく維持するため、有体に言えば、顧客満足度を高めるためにも、手っ取り早く相手を痛め付ける技を教えたり、ポンポンと簡単に昇級・昇段させたりせざるを得ない、という現状があることは否めないと思います。
一方で、合氣道の世界には、依然として、尊敬すべき素晴らしい師範・先生方も数多くいらっしゃいます。こういった先人たちの深みのある言葉から、私自身、いつも多くを学ばせて貰っています。
そして、これらの先生方に共通する特徴として、心の修行にこそ重点を置かれておられ、安易な闘争術や制圧術などには殆ど興味がないように感じられます。
高名な師範や先生方は、仏教に譬えるならば、言わば「出家修行者(サンガ)」の側の人々であり、彼らの目的は、修行によって万有愛護の心を持ち、延いては己自身を宇宙そのものと一体化すること。つまり、俗世間では叶えられない「特別な生き甲斐」を求めて、日々精進されていると言えます。
逆に、一般生徒の多くは「在家信者(一般社会)」の側の人々であり、彼らの目的は月謝という「お布施」によって組織・団体という「サンガ」を支え、その代わりに「強くなる」という「果報」を得ようとする、といった所でしょうか・・・。
前述した仏教学者、佐々木閑先生は、世の中にある、あらゆる「生き甲斐」を追求する社会・組織はこの「二重構造」で成り立っており、これが正しい在り方なのだとも仰っていました。
しかし実は、10年前、私が練心館の館長を継いだ時、心に描いた理想が、この「二重構造」を何とか一本にまとめられないものか、というものでした。
そして最近、手前味噌な言い方で甚だ恐縮ですが、練心館のような小さな道場だからこそ、この「二重構造」は解消できるのではないか、と思えるようになってきました。
大勢の人が集う巨大組織ならいざ知らず、練心館のような少人数の小さな道場では、師範と生徒の距離が近く、何事も細かく丁寧に教えることができます。
開祖である植芝盛平先生の説かれた教えを尊重するならば、合氣道の道場とは、俗世間では得られない「特別な生き甲斐」を求め、それが得られる、修行者集団「サンガ」のような場所であるべきだと考えます。
そういった意味では、道場という組織・集団に「二重構造」があるのではなく、先ずはそこに集う人々、一人一人の内面にこそ、二つの世界(「二重構造」)を持ってもらうことが先決です。
普段は企業戦士として、あるいは受験生、就活生として、熾烈な競争社会の中で必死に戦っているような人でも、一歩道場の中へ足を踏み入れれば、そこでは勝ち負けとか強い弱いとかいった、俗世間の価値観から解放され、「万有愛護」「我即宇宙」といった普通の人間社会では叶わない種類の、「特別な生き甲斐」が得られる。
練心館も、そんな場所として完全に機能することができたとしたら、合氣道の道場としては、まさに理想的ではないかと思います。
最後に、合氣道開祖・植芝盛平先生の言葉を引用します。
植芝の合気道には敵がないのです。相手があり敵があって、それより強くなりそれを倒すのが武道であると思ったら違います。
真の武道には相手もない、敵もない。真の武道とは、宇宙そのものと一つになることなのです。宇宙の中心に帰一することなのです。合気道においては、強くなろう、相手を倒してやろうと練磨するのではなく、世界人類の平和のため、少しでもお役に立とうと、自己を宇宙の中心に帰一しようとする心が必要なのです。合気道とは、各人に与えられた天命を完成させてあげる羅針盤であり、和合の道であり愛の道なのです。(『武産合氣』P192)
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