今となってはもう二か月前の話になってしまいましたが、例の、4月6日(月)放送のテレビ朝日「お坊さんバラエティ ぶっちゃけ寺 3時間スペシャル」の中で、やはり、高野山真言宗、功徳院住職の松島龍戒さんが、心に残る言葉を仰っていました。
曰く、「修行とは、やらされるものではなく、やりたいと思うもの。やる気を出して、やりたいと思わなければ、5年やろうが10年やろうがあまり身にはならない。(そうやって修行を)究めていく事で、やがては道端に咲いている草花からも、ありがたい仏様の教えを感じ取れるようになろうとする。これが修行の心である。」と。
合氣道の修行も全く一緒であります。
先ずはやる気を出して、主体性を持って、稽古の中で自らの課題を克服して行かなければ、5年やっても10年やっても身にはなりません。
そして修行を究めて行けば、実は一番最初に習った、基礎・基本と呼ばれる、一見地味なものの中にこそ、求めていた合氣道の極意・奥義が見て取れるようになってくる、そういうものです。
しかし、最近つくづく考えさせられたのは、現代人は、自分ではやる気を出して主体性を持ってやっているつもりでも、実際は、「やらされている感」が染み付いてしまっていて、単なる「やっつけ仕事」「ルーティンワーク」でやっていることが多くないだろうか?、ということです。
私自身も含めて、大人も子どもも、もう一度、自身を疑ってみるべきではないだろうか?、そんなふうに思うのです。
私たちのような多くの現代人は、子どもの頃から、学校の時間割に代表されるような、きっちりとスケジュールを組まれた中で、管理され、その中で常に点数を付けられ、競争させられてきました。
大人になってからも、余程の自由人でもない限り、常にスケジュールに管理され、場合によってはノルマを課せられ、競争にさらされているのではないかと思います。
今更ながら、「現代人は少し忙し過ぎるのではないか?・・・」と思ってしまいます。
それは、実質的に過去に比べて労働時間がどうこう、という問題ではありません。
現代社会は、世の中のあらゆるものが高度にシステム化され、情報過多になり、純粋に「今」という時間を味わって生きようにも雑音ばかりが騒がしく、真に無心になって、心を研ぎ澄まし、何かに集中するということが、本当にやり難い時代になってしまったのではないか、ということです。
何年か前に、学習塾のテレビCMで「やる気スイッチ」なる言葉が流行っていました。
人間にとっての本当の「やる気スイッチ」は、本来、管理されたスケジュール通りに進むことや、ノルマを達成すること、競争に勝つこと、とは関わりのない所で入るものだと思います。
それは時に人間を、寝食を忘れて没頭させたり、誰にも認めてもらえなくても、「好きだから」という理由だけで夢中にさせたりするものだからです。
内田樹先生がよく、「利益誘導では人間の持つ最高のパフォーマンスは引き出せない」と仰っていますが、残念ながら現代社会では、「勝つため」「得するため」「儲けるため」みたいな動機付けがもはや常套手段になってしまっています。
これでは、人間の魂の底から湧き出る「やる気スイッチ」は、決して作動することはないのかも知れません。
ところで、合氣道のような武道の形稽古で、どんどん実力が向上し、伸びていくということは、一体どういうことでしょうか?
それは、今まで何百回何千回と繰り返し、これからも限りなく繰り返していく「形」が、外形はほとんどそのままでも、中身が質的に変化していく、ということだと言えます。
そしてこの場合の「中身の質」というのを、より具体的に言えば、「心身統一と氣の原理」ということになります。
この「質的な変化」は螺旋階段のイメージに例えることができます。
螺旋階段は、真上(或いは真下)から(2次元的に)見れば、同じ場所をぐるぐる回っているだけです。
人によっては、「何十年も同じ『形』を繰り返すだけで、全く進歩がない」とか、「もっとたくさんの技を習えるようにしてくれなきゃ面白くない」などと言うかも知れません。実際のところ、忙しい現代人で、武術・武道の本質が解っていない人(※我々の世界では「テクニックのコレクター」と揶揄されます)ほど決まってそう言います。
しかし、横から(3次元的に)見ることができれば、常に向上し続けており、長年稽古を積み重ねれば、遥か上に到達していることが判るのです。
よく、武道の形を、初めはゆっくりしかできなかったものが、すらすらスピーディーにできるようになったから実力が向上した、と考える方がいらっしゃいますが、それは全くの見当違いです。
どんなに物理的に速く動けるようになっても、中身の質的変化がないようなら、残念ながら全く進歩していないのです。
話を元に戻しましょう。
私たちが、常に新鮮な気持ちで、やる気を持って修行を続けられるようになるためには、できれば「中身の質的変化」、つまりは「自身の成長」が自身できちんと判るようになることが望ましいのです。
これが、確かに現代人には難しいのかも知れません。
しかし、ちょっとした発想の転換が、取っ掛かりやヒントになるのではないかと考えます。
要は、「目に見えるものや分かりやすいものばかりに囚われない」ということだと思います。
まずは「心身統一と氣の原理」を学ぶための稽古である、ということを忘れずに念頭に置き、心を研ぎ澄まし、感性・感覚を研ぎ澄まし、形稽古の「形」を存分に味わうようにすれば、だんだんと技の「味」が判ってきます。
かつて、この「味」を、技には技それぞれ固有の「心」があるのだと表現された師範もいらっしゃいました。
「味」が判ってきたら、後はいかにしてこの「味」を洗練させていくか、その方向で稽古して行けば良いと思います。
絶対に、焦ったり、目に見える分かりやすい成果を急いではいけません。
そうすると、必ずと言っていい程、目に見える分かりやすい成果と直接的に関係のなさそうな所(※本来関係のない所など存在しないのだが)を、いかに楽して手を抜くか、という考えが湧き起こってきます。
そうなってしまったら、稽古・修行はいつの間にか課されたノルマをいかにして効率良くこなしていくか、というただの「やっつけ仕事」「ルーティンワーク」になってしまいます。
これではまさに、「やらされている」だけです。
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