心身開発法の危険性 合氣道に秘伝なし②
5月
12日
開祖の評伝、『合気道開祖植芝盛平伝「武の真人」』(砂泊兼基 著、たま出版)の中には、次のように書かれています。
「(前略)鎮魂の行は、善心をもってこれを行なうか、邪心の状態であるか、それによって結果は天国と地獄の差をもって行ずる人に現われるのである。」(P83)
「鎮魂帰神の法によってよく正神界に出入りし、感応できる人は極くまれで、よごれた精神の人がこの修法をなしても、大方は邪霊に感染し、同化して道をあやまり、世をあやまり、人をあやまり、邪道に引きいれ、破壊の道に追い込む結果となるのである。正道を踏んで鎮魂の法に入らぬかぎり、この修法は役には立たないのである。これに対し正道に乗って行なえば、天性の魂の大小、質の善し悪しにかかわらず、現界の人間の向上は思うままに許されているのである。また、逆に邪道に入るならば、現状よりさらにどん底の悪因縁の雰囲気の中におちいり、身の破滅を招来することを覚悟せねばならない。」(P85~86)
前回、「武術」にはなぜ秘伝が存在するのか、という話をしましたが、実は、「武術」に秘伝が存在することのもう一つの重大な理由として、「武術」の「極意」を身に付ける上で避けては通れない「丹田」や「氣」といった感覚的なものを開発する方法には、危険が伴うということが挙げられると思います。
武術の世界で、以前からこの問題に警鐘を鳴らしていた方に、武術研究家で游心流武術健身法を主宰されている長野峻也先生がいらっしゃいます。
その他、一部の宗教系・スピリチュアル系の方々が同じように警鐘を鳴らしていましたが、世間一般ではこの問題はあまり認知されていないのが現状です。
瞑想法や呼吸法、その他諸々の「丹田」や「氣」などの感覚を養成する心身開発法は、全て広義の意味では宗教的な「鎮魂帰神の行法」に通じます。
そういった行法を通して稀に、場合によっては精神に異常をきたしてしまったり、自律神経のバランスを狂わせてしまったり、色々と弊害が生じる可能性があるということです。
古くから禅の世界には、ある種のノイローゼ状態を表す「禅病」あるいは「魔境に陥る」という言葉がありましたが、同じように、ヨガの世界では「クンダリニー症候群」、中国武術や気功の世界では「偏差」と言って、その本質は全く同じもののようです。
藤平光一先生も若い頃、道を求める過程で熱心に禅の修行をされた時期があったそうですが、禅病になられたことを著書(『中村天風と植芝盛平 氣の確立』東洋経済新報社)の中で告白されています。
藤平先生はご自身の失敗の経験からも、禅病の予防法として、世間に広く伝わっている禅のやり方が間違っているのだと指摘されていました。
禅の方法を述べた古典的テキスト『坐禅儀』の中には、「臍下丹田に力を入れて座れ」とあるが、これが決定的な間違いで、臍下丹田は力を込めるところではなく、心を静めるところである、というのが藤平先生の主張です。
確かに、禅も天地自然の理に適った正しい心身統一体で行えば、寧ろ何の問題もない筈であり、何らかの問題が生じるという時点で、やり方が間違っているのだと考えるべきなのかも知れません。
藤平先生の仰る通り、臍下丹田(下腹)に力を込めてしまったら却って重心が上がって不安定な体勢になり、全身が強張り、明らかに不自然な状態になってしまいます。
私自身、合氣道の修行を通して、「臍下丹田が充実している感覚」というものを体得していますが、この感覚を「臍下丹田に力を入れて」と表現してしまったら、判らない人にとっては「下腹の腹筋に力を込める」と勘違いされてしまう可能性は大いにあると思います。
また、世界各国の特殊部隊隊員などから絶大な支持を受けている、武神館武道宗家・初見良昭先生も、30代の頃、重度の自律神経失調症を患い、死の淵を彷徨ったと告白されています。
一時期は食べ物も殆ど咽を通らず、骨と皮だけに痩せ細り、10メートルの歩行もままならず、一日にヨーグルト一個程の食事で一年以上何とか死なずに済んだ、というのですから、あの初見先生の姿からは想像もつきません。
初見先生の場合は、インフルエンザに罹ったのを切っ掛けに、自律神経のバランスが再び改善したのだそうですが(野口整体的な理由か?)、もしもそのまま亡くなってしまっていたら、その後の世界の武術界にとっては、大きな損失となっていたでしょう。
初見先生が自律神経失調症になってしまった原因として、やはり武術修行に付随する様々な心身開発法が、全く関係が無かったとは言えないと思います。
実は昔、私自身が大変お世話になった方で、大好きだった方が、志半ばで亡くなってしまったことがありました。
その方は、坂道を転がり落ちるようなスピードで、一気に体調を崩し、あっという間に亡くなってしまったのですが、その方が体調を崩される直前に熱心に凝っていたのが、ヨガをベースに開発され、格闘家や武術家に支持されていた、ある呼吸法でした。
当時、格闘技がブームで、何人かの格闘家がトレーニングにその呼吸法を採り入れ、それなりの効果があるとされていました。
その方が急に衰弱して亡くなってしまったことと、その呼吸法との因果関係は未だにはっきりとはよく判りません。
もともと病院に行ったり薬を服用したりするのを極端に嫌う方だったので、ご自身で体調が優れないと気付いた時点で既に手遅れの状態だったのかも知れません。
或いはその時は、健康回復のために藁をもすがる気持でその呼吸法に賭けていたのかも知れません。
しかし、その頃、同じように藁をもすがる気持でお世話になり、結果的にその方を最期まで看取って頂いた、ある有名なヒーラーの先生によると、「どういう訳だか、自律神経のバランスがバラバラに崩れてしまっている」ということだったそうです。
お陰様で、合氣道が原因で精神に異常をきたしたり、自律神経のバランスを崩したりという話はあまり聞きません。
その理由としては二つ考えられると思います。
一つは、「合氣道」という看板を掲げていても、「丹田」や「氣」について全く触れない指導者や道場、学校のクラブなども結構ある、というちょっと残念な現実です。
今や合氣道は社会体育として広く世の中に浸透しており、一般の人々にあまり難しいことを言って倦厭されても困る、というスタンスで行われている所も少なくありません。
「相手の勢いや力を利用して投げる」とか「人体構造上の弱点を突く」とか、「いかにして関節技を効かせるか」といったものは、身体の運動・スポーツエクササイズと同等なので、精神に悪影響を及ぼしたり、自律神経のバランスを狂わせたりという危険性は全く無いと言えます。
しかしそういったものは単なる柔術技法であり、個人的には「合氣道」という看板を掲げてやるのは如何なものか?というのが偽らざる感想です。
そしてもう一つの理由として考えられるのは、やはり合氣道は「武術」ではなく、「武道」である、ということに尽きると思います。
冒頭に引用した通り、「丹田」や「氣」などを扱った心身開発法の類は、善心を以てこれを行うか邪心を以てこれを行うか、正道に乗ってこれを行なうか邪道に乗ってこれを行なうか、これらの違いが結果、天国と地獄の違いとなって現れる、ということだと思います。
「武術」というのは基本、やはり戦闘術であり殺傷術です。
「武術」には「生死を賭した闘争本能」といった、人間存在の持つ根源的な邪悪さが、本質的に色濃く内包されています。
これは、簡単な言葉で言い換えるならば、所謂「殺らなきゃ殺られる!」というものです。
それ故、常に厳しく自己を律していかないと、容易にダークサイドに陥ってしまう危険性を多分に孕んでいるものだといえます。
もちろん、いつも述べているように、合氣道もその成立の土台となっているものは紛れもない「武術」です。しかし、合氣道ではその「邪悪さ」が純粋な「武術」に較べてかなり薄まっており、そしてその代わりに、執拗な程に「心の教え」が満載されています。
自分ではそれほど意識していなくても、「憎い敵をぶっ殺してやろう」とか「イザとなったら敵をズタズタに八つ裂きにしてやろう」とか「己の力を誇示して周りの奴らをギャフンと言わせてやろう」とか、心の奥底の深層心理・潜在意識において邪なことを思いながら、「丹田」や「氣」を開発すれば、精神に異常をきたしたり、自律神経のバランスを狂わせたりといった弊害は、なかなか避けられないのではないでしょうか。
一方、合氣道はどういう志を持って修行すべきか。例えば開祖は次のように仰られています。
「植芝の合気道には敵がないのです。相手があり敵があって、それより強くなりそれを倒すのが武道であると思ったら違います。
真の武道には相手もない、敵もない。真の武道とは、宇宙そのものと一つになることなのです。宇宙の中心に帰一することなのです。合気道においては、強くなろう、相手を倒してやろうと錬磨するのではなく、世界人類の平和のため、少しでもお役に立とうと、自己を宇宙の中心に帰一しようとする心が必要なのです。合気道とは、各人に与えられた天命を完成させてあげる羅針盤であり、和合の道であり愛の道なのです」(『武産合氣』P192)
それがきちんとした正しい心の教えを伴った、正しい合氣道である限り、合氣道の稽古を通していくら「丹田」や「氣」を開発しても、精神に悪影響を及ぼしたり、自律神経のバランスを狂わせたりはないと信じます。
やはり、自分としては『合氣道に秘伝なし』と声を大にして言いたいのです。
最後に、「丹田」や「氣」といった目に見えない感覚を開発する上で、精神に悪影響を及ぼしたり、自律神経のバランスを崩したりしないために、自分なりに考える注意すべき点を、いくつかまとめてみたいと思います。
①あまりに徹底的にのめり込み過ぎないこと
先程お話した、私自身が大変お世話になった方は、寝食を忘れてのめり込むタイプの方でした。
その方は呼吸法に凝る以前に一時、断食に凝られたことがありましたが、見る見るうちにガリガリに痩せ細ってしまい、私も何度も止めるようにお願いしましたが、「この方が体調が良いんだ」と言って、当初は聞き入れては貰えませんでした。
そのうち「こんなこと続けていたら死んでしまう」とご自分で気付かれて止めてくれましたが、その時は心底ホッとしました。
一度始めたら、寝食を忘れて徹底的にやってしまうタイプの方はよくよく気を付けなくてはなりません。
まさに、「過ぎたるは猶及ばざるが如し」「中庸の徳たるや其れ至れるかな」です。
②性急に効果、結果を求めないこと
これは時代の影響もあるかも知れません。いかに効率よくやって、いかに早く最大の成果を出すか。大切なのは合理性、経済効率、成果主義。
確かに、何事も即効、速習でないと、現代人には見向きもされないのかも知れません。
しかし、野菜でも果実でも、収穫するまでには相応の時間を要するのが天然自然の理です。即効、速習というのは本来、どこかしら天地自然の理に逆らった不自然なものであると理解すべきです。
不自然な方法には必ず不自然な結果も付随してくると知るべきでしょう。
③心身統一体でリラックスして、優しい心、愛の心を以て行うこと
これは既に書いてきたことです。
不自然な体勢や緊張状態では穏やかな心の状態がなかなか保てません。
更に、殺伐とした心、攻撃性、暴力性、そういったものを内に抱えながら心身開発法を行うことが、最も危険だと言えます。
万有愛護の心を持って、日々感謝し、人々の幸せと世界の平和のために微力でも貢献することこそが、真の武道の修行の目的である、と常に忘れずにいれば問題はない筈です。
もしもこの心が欠けているようなら、残念ながら、それは断じて「合氣道」とは呼べません。
④自分の観念の世界に閉じこもらないこと
独りでコツコツ地道に努力するのが得意な人は、この落とし穴に陥らないよう注意すべきです。
自分の心も命も身体も、ちっぽけな存在に見えるかも知れません。しかし、そんなちっぽけな存在でも歴とした大きな天地宇宙の一部です。我々はもともと宇宙と繋がった存在なのです。
そのことを忘れて、閉じられた自己の観念の世界に引きこもると、「自分だけが特別な力を手に入れて、特別な存在になるんだ」といった誇大妄想に陥ったり、その逆に、自身の不甲斐無さを嘆き、「自分だけが損ばかりさせられている、自分は被害者だ」と被害妄想に陥ったりしてしまいます。
合氣道をやる上で最も大切な基本大原則に、「氣を出す」「氣が出ている」というのがあります。
我々は常に、明るく前向きな、積極的な心を持って、プラスの氣を出し、人間や社会、つまり外界に対して、心身を開いていかなくてはなりません。
それこそが、合氣道の基本にして奥義ともいえる、「氣を出す」「氣が出ている」ということの真相だと知らなければなりません。