4月6日(月)にテレビ朝日で放送していた「お坊さんバラエティー ぶっちゃけ寺 3時間スペシャル」を視ていて、非常に心に残る言葉がありました。
高野山真言宗「功徳院」住職の松島龍戒さんという方が、スタジオでの司会者との何気ないやり取りの中で、「自分自身の修行というのは、そのまま世の中の平和や人々の幸せに直結するという考え方」であり、「自分自身、独りで悟るということではない」のだと語っておられました。
合氣道の修行もまさにその通りで、「自身の合氣道修行が、そのまま世の中の平和や人々の幸せに直結するのだ」という気持ちでやらなければならないし、「自分独りが達人・名人になれば良い、ということでは決してない」ということを忘れてはなりません。
「武術」の世界では、古くから「秘伝」というものが存在しました。
何故、「秘伝」なるものが必要とされたのか?
一つの大きな理由として、「敵に己の手の内を知られないため」というのが挙げられると思います。
ルールも審判も制限時間も何もない、命を懸けた戦闘において、敵を制圧する有効な手段は、敵が予想もつかないような奇襲を仕掛け、返り討ちにすることです。
しかし前もって敵に手の内がバレていたら、奇襲は成立しません。
悲しいかな、戦争の世紀と言われた20世紀が終わり、今世紀になっても、国家にそれぞれ軍事機密が存在し、熾烈な情報戦が繰り広げられているのもその理由からでしょう。
しかし、前にも書きましたが、合氣道は「武術」を成立の土台としてはいるけれど、飽くまでも「武術」ではありません。
「宇宙の気をととのえ、世界の平和をまもり、森羅万象を正しく生産し、まもり育てる(『合気神髄』P54)」真の「武道」、それがまさに合氣道なのです。
ですから、飽くまでも私の個人的見解ですが、敢えて言いたいのです。
「合氣道に秘伝なし」と。
これには、異論を唱える方もいらっしゃるかもしれません。
私自身、より理想的な合氣道を体現するためには、土台としての「魄(はく)」の部分をしっかり作らなければならない、と今も考えています。
現時点では、「魄」は中国武術でいう「勁力」と同等の物だと考えているので、確かにこれは、使い方によっては相手に甚大なダメージを与えかねない「武術」として有効なものだと言えるかもしれません。
また、古くから合気会本部道場には「合気道練習上の心得」六箇条なるものが掲げられていて、その六番目にはこう書かれているそうです。
「六、合気道は心身を鍛錬し至誠の人を作るを目的とし又技は悉く秘伝なるを以て徒に他人に公開し或は市井無頼の徒の悪用を避くべし」
合氣道の土台となっているものは、退っ引きならない「武術」かもしれません。しかし、目に見える外形や用法だけが合氣道ではありません。合氣道には様々な団体・流派が存在しますが、尊敬すべき立派な先生方が多数おられ、そういった先生方は皆、「心の教え」を大切にしていらっしゃいます。
この「心の教え」こそがむしろ合氣道の命であり、「心の教え」をきちんと正しく伝えることも含めて、合氣道を教え伝えるということだと言えます。
それに、私の勝手な解釈かもしれませんが、「技は悉く秘伝なるを以て云々~」というのは、戦前・戦中に開祖によって教授された、大東流合気柔術、もしくは合気武道に当てはまることであって、戦後の平和な時代になって新たに生まれ変わった、真の合氣道には必ずしも当てはまらないのではないか?ということです。
戦前・戦中は基本的に稽古の見学は許されず、入門するためには2~3人の紹介者、保証人を必要としたと聞きます。その頃は確かに「秘伝」扱いだったと言えるのかもしれません。
合氣道開祖・植芝盛平先生は、戦前・戦中とその類まれなる武道家としての才能を買われ、陸軍、海軍及び警察に徒手格闘術を指導されていました。
しかし昭和17年、熱心な宗教家でもあった開祖は神示を受け、軍の要職を全て擲って、茨城県の岩間に隠棲し合氣神社を建立されました。
そして、来るべき平和な時代に備えて、愛と調和の教えを説く、真の合氣道の完成へと着手し始められた、と言われています。
戦後、開祖は「自分も結果的に戦争に加担してしまった・・・」と猛省されていたそうです。
「陸海軍の稽古は、主に魄を主体においていました。つまりものを主体にして、百事戦闘が目的でした。そして一刀一殺とただ名誉に向って進もうとしていた。遺憾ながらいささか真の誠忠ということに欠けていたし、軍にも理解出来ていない人々が多かったようである。勿論偉い軍人もいました。忠勇の軍人は涙が出る程よく戦ってくれました。しかし合気道は人を殺すのが目標ではない。戦い争うことが目的ではない。合気道は魄ではなく、魂のひれぶりである。」(『武産合氣』P127)
「今私が行って来たことをふりかえってみると、それらは魄の御用であって、やったことは百事誠であったが、戦闘目的の教えでありましたので、自分としての天の使命の上からいったら岩戸閉めでした。今度こそ魂の岩戸開けの本当の合気道の歩み立ちをしたいと存じております。」(『武産合氣』P169)
戦前・戦中までの植芝盛平先生の武道は、言うなれば、本当の合氣道が世に出てくるための準備段階のものであって、真の合氣道は、忌まわしい戦争がやっと終わり、多くの人々が平和の価値を思い知り、平和は不断の努力によって守るべきものであると思い知らされた時、満を持して世に現れたのだと言えます。
合氣道は、その成立の土台として「武術」を内包しているかもしれませんが、やはりその目指す理想の所は「武術」などでは決してなく、「武道」、それも開祖の独自に説かれる「真の武道」なのです。
したがって、やはり「合氣道に秘伝なし」と言いたいです。
もしも、世の中の自分以外の全ての人間が、きちんとした正しい合氣道を身に付け、全員が達人・名人になってしまたら・・・、もしもそうなったら・・・、世の中から理不尽な暴力などは、きっと消えてなくなってしまうでしょう。
合氣道とはそういうものです。
もう、暴力を恐れて「身を護ろう」とか「強くなろう」とか、つまらぬことで一喜一憂する必要もありません。
なんと過ごしやすい世の中でしょうか。
もしも、自分自身の合氣道修行が進めば進む程、周りの人達を優しく思いやることができるようになって、世のため人のために尽くすことができるようになるとしたら・・・、修行すればする程、周りの人達に好かれて、周りの人達に感謝されて・・・。
なんと修行し甲斐のあることでしょうか。
こんなに嬉しいことはありません。
まるでジョン・レノンの「イマジン」のような世界で、現実にこんなことがあり得るのかどうかは判りませんが、やはり、合氣道の目指す究極の理想はどこまでも高いものなのです。
こんな素晴らしく崇高な合氣道を「秘して洩らさず」にしておく必要がどこにあるでしょうか?
「合氣道に秘伝なし!」
形のあるものないものに拘わらず、森羅万象を正しく生み、生み出されたものは慈しみ、大切に守り、更にそれを立派なものへと丹念に育て上げていく営みと、その心こそが、真の武であり、合氣道の心です。
藤平光一先生も『誦句集』の冒頭において、「万有を愛護し、万物を育成する天地の心を以て、我が心としよう」と簡潔に仰っています。
合氣道修行は、「自分自身の修行がそのまま世の中の平和や人々の幸せに直結するんだ」という考え方でやるべきであり、「自分独りが他人を差し置き、出し抜いて、極意・奥義を掴むことなど絶対にあり得ない」、と肝に銘じなければなりません。
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