合氣道の技は、単なる護身術・制圧術ではなく、宇宙の生成発展とその理を体技で表したものだと言われています。
練心館は昭和58年当初、心身統一合氣道の道場としてスタートしたので、基本的に、昔の藤平光一先生の技を踏襲しています。
今現在、練心館のように心身統一合氣道から独立した道場・流派・団体が世界中にたくさんあり、またそれ以外にも、藤平光一先生の教えを大切に守り続けている合氣道師範の方もたくさん居られるようです。
自分は便宜上、それらを総称して、「藤平スタイル」の合氣道と呼んでいます。
昔、フィリピン合気会でお稽古されているフィリピン人の方が、仕事で日本滞在中に、短い間でしたが、練心館でお稽古していたことがありました。
日本に来てまず最初に、合気会の本部道場に行かれたそうですが、技が全然違って付いて行けなかったと言っていました。
「こちらの道場でやっている技は、フィリピン合気会でやっている技とほとんど一緒です。」
と、非常に喜んでおられました。
また、フロリダで合氣道をやっているというアメリカ人の方が、やはり短い間でしたが日本滞在中、練心館でお稽古したこともありました。
その方も、すんなり順応できていました。
訊くと、ハワイで藤平光一先生から教わったお弟子さんが、ロサンゼルスを中心にアメリカ本土に広めた流派の方でした。
あくまで個人的な見解ですが、合氣道の技は、目先の「護身術」・「制圧術」としてのシンプルな合理性を追求したものなどでは決してありません。
特に「藤平スタイル」に代表されるような高度な教えを説く所ほど、その傾向は強くなると思われます。
我々が普段稽古している合氣道の技は、もっと奥深い「心身統一」と「氣の原理」を体得するための「理」を追求して改良された「形」なのだと言えます。
結果的にそれは、武術としても極意・奥義につながるものとなり、更に進んで、天地自然の理を悟り、我即宇宙といった開祖の求めた究極の理想にもつながるものとなったと言えます。
所で、話はいきなり本題に入りますが、最近つくづく思うのは、そんな合氣道の「投げ」の稽古は、人を上手に「愛する」ための練習であり、そして合氣道の「受け」の稽古は、人から上手に「愛される」ための練習でもあるんだなぁ・・・ということです。
これは、「アガペー」などといった難しい話ではなく、極めて現実的で人間的な「愛」の話です。
上手な合氣道の技で投げてもらえると、たとえ派手に吹っ飛ばされていても愉快でなりません。
受け身ができない者に対しては、怪我をしないように優しくやってあげる必要がありますが、基本、上手な合氣道の技に掛かったり、投げられたりする時は、遊園地のアトラクションや公園の遊具で遊んだ時のように、気持ち良く、愉快なものなのです。
しかし、下手な技を掛けられたり、下手な技で投げられた時は(※余りにも理に適わない場合は技は全く掛かりませんが)、無暗に痛かったり、いかにも我をむき出しにしたような強引な嫌な感じがしたりします。
我々は、少しでも上手な合氣道の技が掛けられるようになるために、稽古を通して、どうすればもっと相手を気持ち良く、楽しく、愉快にさせられるか、探究します。
まあ結局は、基本に忠実で、理に適った技が正しいということが判明しますが・・・。
これは、「同じ愛するならば、どうすればもっと上手に相手を愛することができるか」、という練習にもなると思うのです。
「愛」とひとことで言っても、「上手な愛」や「スマートな愛」もあれば、「下手糞な愛」、「不器用な愛」、「乱暴な愛」もあります。
筑波大学教授でメディアでも活躍する、精神科医の斎藤環先生は、以前、アメリカの作家カート・ヴォネガットの言葉「愛は負けても親切は勝つ」を引用し、精神医療の現場では「愛」は使えない、と断言されていました。
なぜなら、時として乱暴に突き放すのも「愛」だったり、怒鳴りつけるのも、殴るのも「愛」だったりする訳です。
心を病んでいる人を前にして、「愛」のような当てにならぬもので対処するよりは、「親切」を以て接する方がずっと確実なんだそうです。
また、「愛の反対は憎しみではなく無関心です」とはマザーテレサの言葉ですが、確かに、社会問題となっているストーカーなどは、乱暴で歪んだ「愛」の典型でしょう。
よっぽど「愛」など簡単に消し去ることができるものならば、すぐに「無関心」になることができて、ストーカー問題など簡単に解決する筈です。
しかし人間は「愛さずにはいられない」生き物です。
それ故、好きになったり嫌いになったり、腹を立てたり、憎んだり、絶望したり。
これらは全て、広義の意味での「愛」だといえます。
私たちはよく、赤の他人に言われても何とも思わない事でも、妻や夫、父母、兄弟等、家族に指摘されると無性に腹立たしかったりすることがありますが、それも「愛」があるからでしょう。
人間が、どうしても「愛さずにはいられない」生き物ならば、できることならば、上手に、スマートに、相手や自分をなるべく傷付けずに、愛したいものです。
それができるようになるためにも、合氣道の稽古は、相手に上手に技を掛けられるよう目指さなくてはなりません。
技を掛けながらも、相手を一切傷付けず、気持ち良く、楽しく、愉快にしてやることが、相手を上手に「愛する」ことの練習にもなるのです。
一方、合氣道の「受け」は上手な「愛され方」の練習だと言えます。
現実社会で出会う人々が、全員、「愛し方」が上手とは限りません。
上司や先輩、同僚、あるいは家族や親戚の中にも、「不器用な愛し方」や「乱暴な愛し方」しかできない人もいるでしょう。
同じように、道場の稽古仲間でも、技が上手い人もいれば、下手な人もいます。
下手な人に技を掛けられたせいで痛い思いをした、とか、下手な人に投げられたせいで「受け身」を失敗した、というのはなるべく避けたいものです。
そのためにも我々は、何度も繰り返し「受け身」の稽古を重ねて、たとえ下手に技を掛けられたり、投げられたりしても、きちんと身を守り、ダメージのないように「受け身」が取れるようにしなければなりません。
その稽古が、実生活で「不器用な愛」や「乱暴な愛」に遭遇した時に、いちいち傷付いてダメージを受けないための練習になる筈です。
つまり、「愛され上手」になるということでしょうか。
4月は新入学があったり、新社会人が社会へと羽ばたいて行く時期です。
新しい世界に踏み出して頑張ろうとする時や、実社会の荒波を乗り越えて行こうとする時、そこで良好な人間関係を築くためにも、合氣道の稽古で培った、「上手に愛する能力」がきっと役に立つこともあるでしょう。
また、厳しい先生や上司、怖い先輩に出遭う事もあるかも知れません。「辛辣な愛」や「乱暴な愛」に遭遇する度に、いちいち傷付いてダメージを受けているようではやって行けません。
合氣道の「受け身」の稽古で培った「上手に愛される能力」が、きっとどこかで役に立つ時もあると思います。
私自身、偉そうに言える程、「愛し上手」で「愛され上手」かは甚だ覚束ないですが、合氣道の稽古には、必ずそういった精神的効果があると思っています。
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