反社会的行動へのシンパシー
11月
3日
誰かが反社会的な行動を取った人間を肯定するのは間違いではあるけれども、そういう反社会的な行動を取った人間を礼賛する者にも特有の心理・ロジックがある。
例えば、順風満帆の人生を歩んできた人が、ある日突然、不治の病を宣告されて「もう1年も生きられない」ということが発覚し、病院で辛い治療生活を送ることになったりしたとする。
そういうときに、周囲の人間と自分を対比的に考えて、「なぜ、まわりは楽しい人生を歩んでいるのに自分だけこんな酷い目に会い、しかも死んでいかなければならないのか?」という怒り、激情が込みあげてくるのは人情でしょう?
そうして、そういう怒りだとか激情が何か反社会的行動を取った人間への何らかのシンパシー(共感)になって、そういう人間を部分的にせよ崇拝するようになる・・・・・・っていうケースは多いと思いますが、ね。
自分が本当に救いのない八方ふさがりの状態に追い込まれた人であれば、理解できることだと思います。
このような状況下に追い込まれた人間は、正常な心理状態にありません。それを捕まえて、十把一絡げに非難したり、異常者扱いするのは間違いでしょう。
このような状況下に追い込まれた人間は、正常な心理状態にありません。それを捕まえて、十把一絡げに非難したり、異常者扱いするのは間違いでしょう。
誰だって、いきなり明日が絶たれれば自分の人生に絶望するでしょう。(一部の例外的人格者は除いて)
人生に絶望すれば、当然、社会的なモノから反社会的なモノへと興味の対象、意識は移ろっていくことになります。
反社会性(Anti-socal)は世の中の構図、在り方自体を完全否定するモノなのだから、当然の話です。(そもそもの話、人生に絶望したモノがアウトロー化しているわけです)
私は反社会的行動を犯した各種犯罪者は頭のオカシイ基地外だと思っていますが、そういう人間に一種のシンパシー*を覚える人々の心理は十分に理解することができます。(*特殊の趣向を持つ性格異常などの異常者は除く)
人間という生き物は、今まで白だと思っていたものを、いきなり黒に変えてしまえるような、脆さを持った生き物なのです。
このようなことがわからない人は、本当の意味の人生を今まで歩んできていない公算が大きいのではないかと考えられます。
往西 俊治
このようなことがわからない人は、本当の意味の人生を今まで歩んできていない公算が大きいのではないかと考えられます。
往西 俊治