もの言う牧師のエッセー 再投稿
第268話「 君たちに私の憎しみはあげない 」
昨年11月にパリで発生した同時多発テロから早くも1年が経過し、現地で追悼式典が⾏なわれた。犠牲者90人の名前が刻まれたプレートが序幕され、オランド⼤統領らが黙祷を捧げた。世界中に衝撃を与えた悲劇ではあるが、もっと強烈に人々を揺さぶったのは、バタクラン劇場で起きたテロで妻エレンさんを失った仏人ジャーナリスト、アントワーヌ・レリス氏が、「君たちに私の憎しみはあげない 」というタイトルでテロリストに向けて発信したメッセージだったのではなかろうか。
「⾦曜の夜、君たちは素晴らしい人の命を奪った。私の最愛の人であり、息子の⺟親だった。でも君たちを憎むつもりはない。君たちが誰かも知らないし、知りたくもない。君たちは死んだ魂だ。君たちは、神の名において無差別殺戮をした。もし神が自らの姿に似せて我々人間を造ったのだとしたら、妻の体に撃ち込まれた銃弾の一つ一つは神の心の傷となっているだろう。だから、決して君たちに憎しみという贈り物はあげない。君たちの望み通りに怒りで応じることは、君たちと同じ無知に屈することになる。君たちは、私が恐れ、隣人を疑いの目で⾒つめ、安全のために自由を犠牲にすることを望んだ。だが君たちの負けだ。プレーヤーはまだここにいる。」
彼が妻の遺体と対面した直後に書いたこのメッセージは、その後フェイスブックで20万回以上共有され、「あなたの⾔葉は武⼒よりも強い」などと多くのメッセージが寄せられた。
聖書には
「憎しみは争いを引き起こし、愛は全ての背きの罪を覆う。」
箴言10章12節、
とあるが、これはよくある“非暴⼒無抵抗”の類とは全く違う。レリス氏に⾒るように、そこには罪や悪に対する決然とした意志と闘争があり、積極的かつ遠心的に外側へと押し出して⾏く。いっぽうで、憎しみや怒りに沈潜すれば、他者との争いはもちろん、むしろ自分自身が身動き取れなくなると⾔ってよい。キリストは、神の敵と成り果てた人類を、自ら十字架にかかって殺したほどに愛された。愛とは決して生半可なものではない。それは憎しみを砕く⼒である。
2016-12-2