牧師、バイカー、鮨職人として。。。シェア from LA
第68話 「日系人クレイトン君の話」
今から約10年前の話。ある鮨屋で日系三世の大学生クレイトン君がウェイターとして働いていた。とても人なつっこい若者で、名字を尋ねたら“Mizutari”だと言う。「水谷(ミズタニ)」じゃないの?」と尋ねたら、「ソレ良く日本人に言われる」と笑ってた。これでも宗教家の端くれなので、ピンと来て「水垂り」と綴るのではとググったところ出て来た、「水垂神社」なるものが。つまり神道の“禊”であり、水浴で汚れを落す宗教行為だ。
さっそく彼にそれを伝え、「お前の先祖は神社の神主かも知れんぞ!まるでクリスチャンのバプテスマ(洗礼)、ギリシャ語のバプティゾー (βαπτίζω/ 浸礼) みたいやな~!」などと盛り上がった。実は彼はクリスチャンだった。だが教会へは行っていない。家庭も色々と複雑な事情があるらしく、彼の親父さんと祖父が上手く行っていないので、体が不自由な祖父のためにクレイトンが祖父と一緒に住んでるそうな。心の優しい彼らしい話だと感心した。
そんなクレイトンが ある日スーパーへ買い物に行った時、一人の若いホームレス男性を見かけた。腹が減ってるだろうからと食べ物を買ってあげたが、少し気になり色々話してみると、その青年がホームレスと思えないほど心に響く話をするので驚いた。さらには、クレイトンが別れ際に5ドルを手渡したところ、青年はスーパーの募金箱へ直行しその5ドルを投げ入れた! そして言った。「一つの善行が良い波及効果の引き金となる。」
クレイトンは感動し「世の中に対する希望が回復した」とフェイスブックに記している。私は「負けた」と思った。牧師としてホームレス支援をしたり、困っている人を助けたりしているはずだが、本当にそれらの人々に寄り添えているだろうか。自己満足に陥っていないだろうか。単にカネの受け渡しでなく、心を通わせ合って共に善い業を成すことが出来たクレイトンとホームレスの青年。考えさせられた。
他方、せっかく人を思いやる心を持っているにもかかわらず人間的トラブルによって教会へ行かないクレイトン。そして家に帰らないホームレス青年。悩める優しい若者たちに相応しい希望のある世が本当に回復するのを神に祈りつつ、クレイトンらのように互いに行動で助け合うことを今日も人々に勧める。イエスの福音を告げ知らせながら。
「何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。
愛は多くの罪をおおうからです。
つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。」
第一ペテロの手紙4章8-9節
2022-9-24