もの言う牧師のエッセー 第171話 再投稿
「 仁義なき戦い 」
昨年の暮れに高倉健さんが亡くなり、ほどなくして菅原文太さんが逝った時、多くの日本人が言葉では言い表せない感慨に浸ったに違いない。両者共に仁侠映画出身で共演作も少なくない二人ではあるが、健さんが国民的スターであったのに対し、文太さんは違った路線を進んだ。
彼の出世作「仁義なき戦い」が公開された頃の日本は、東京五輪や大阪万博に代表されるお祭りムードに代わって、公害や会社の倒産、若者の自殺など社会不安が増大し、しかも東西冷戦の真っ只中で閉塞感が充満していた。同作品は古いアメリカの西部劇のような善と悪のはっきりしたフィクションのヤクザ映画ではなく、現実のワルを赤裸々に描いた実録もので、白黒はっきりしない全てがグレー、或いは全部が悪というような内容は、当時の矛盾に満ちた日本社会に支持された。
「知らん仏より、知っとる鬼のほうがましじゃけんのう」。映画で文太さん演じる美能幸三が放った広島弁の名セリフ通りに、その後の彼は歩んだ気がする。「福祉の事は分からないが、難しいことをやらせてほしい 」と、大阪で在日韓国人のための老人ホーム建設に奔走したり、山梨県で農業を始めたり、病を押して沖縄へ飛んで辺野古への基地移設の反対集会を応援したり、韓国人孤児の里親になったりと、真正面から“難しい”ことに取り組んだ。長男を失う悲劇も経験した。まさに時には鬼も出れば蛇も出たであろう。だが彼は“知らん顔”をせず進んだ。聖書を役に立たない宗教の教典と思っている人は多い。だがそれは、
「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、
死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」
ピリピ人への手紙2章8節
と、あるように、善悪のはっきりしない複雑で鬱屈した鬼だらけの世の中で喘ぐ人々を救うために、知らん顔せずわざわざ天からやってきたあげく、自ら十字架にかかって殺されるという、人類に対するキリストの壮絶な愛の物語なのである。この世の中、嫌なことやムカつくことだらけで、仁義なき戦いの連続、常識もヘッタクレもない時代かも知れない。だが覚えよう。だからこそキリストが来られたことを。そして死んだ後よみがえったことを。そう遠くない時に彼は戻ってきて一切の決着をつけることも。 2015-2-13