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もの言う牧師のエッセー 第130話 再投稿        

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もの言う牧師のエッセー 第130話        「 ゾウさん」  

  日本人には馴染みが深い二人の詩人が相次いで亡くなった。一人は童謡「ゾウさん」で知られる、まど・みちおさんだ。仲の良いゾウさん親子を描いたと解釈されることの多いこの詩ではあるが、「お~鼻が長いのね」は、「象の鼻が長すぎることをからかった意地悪と読めないこともない。ところが、そういう意地悪すら『そうよ。母さんも長いのよ~』が見事に肩すかしを食わせるのである」と、解釈したのが2ヶ月前に亡くなったもう一人の詩人、吉野弘さんだ。

大好きなお母さんの鼻も長いことを誇らしげに答え、自分をいじめる者の悪意を吹き飛ばした子象の痛快さである。詩はそれぞれ好きに読んでくれれば良いというまどさんだったが、「吉野さんの解釈が一番その通りという気がします」と言い残している。「自分はこの世に生かされてるんだという誇り。他とは違うからこそ、嬉しいんです」と、まどさんは語っていた。

そう言えば吉野さんも、彼の詩「生命は」において、「虫や風が訪れて、めしべとおしべを仲立ちする。生命は、その中に欠如を抱き 、それを他者から満たしてもらうのだ。」と、麗しい花が、長いおしべと短いめしべのせいで実は難しい受精のために、風や時には醜いアブの助けを借りることを優しく描いていた。人はそれぞれ違うし欠点もあるが、皆それぞれが尊敬し合い、支え合うことの大切さを、これほどまでに分かりやすく表現し、日本人の心に響く詩は容易には見つかるまい。

他者を愛し支えるということに関しては、右に出るものがないと言っても過言ではないのが、神の愛を描いた聖書である。それは、この人間の相互依存性ともいうべき問題を、人間の体にたとえて説明している。

「 目が手に向かって、『私はあなたを必要としない。』と言うことはできないし、頭が足に向かって、『私はあなたを必要としない。』と言うこともできません。それどころか、体の中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。それは、体の中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。もし一つの部分が苦しめば、全ての部分が共に苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、全ての部分が共に喜ぶのです。あなたがたはキリストの体であって、一人ひとりは各器官なのです。」
1コリント人への手紙12章21-22,25-27、

と。 さすが人間の創造者である神は言うことが合理的だ。しかし問題は、 “キリストの体であって” の一言である。これは神の家族たる教会を指すが、かと言って、これは日曜日ごとに教会に通い「アーメン」と三唱する類のことではない。神を全ての創造主として信じ、罪に堕ちた人間の救いのために、身代わりとなったキリストを心に受け入れ、彼から聖霊をいただいた者同士のことを言う。残念ながら、神を拒否し、「キリストの体」を形成することを抜きにしての “利他愛” などは、単なる耳障りの良い夢物語でしかない。キリストの体の一部となって初めて、鼻の低い人も高い人も仲良くやっていけるのである。                 2014-3-21 

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