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波猫まち子の日記

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25年ぶりに住む日本は…

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25年ぶりに住む日本は…...
サンディエゴのアパートを引き払って日本の実家に住み始めてから、1ヶ月が経ちました。何を一番強く感じるかというと、バケーションで来る日本と長期滞在で来る日本はまったく違うということ!これはどこの国に当てはめても同じことだと思うけれど。バケーションで来ると、毎日がディズニーランドにいるみたいでワクワク、ドキドキ、おとぎの国で起こることだからすべてが珍しくてエキサイティング。でも、実際に住むとなると、気持ちがまったく違ってくる。26歳でアメリカに行った時に経験したカルチャーショックと疎外感、それと似たような感覚を今味わっています。
 
それはやはり(数年に一度は帰ってきているとはいえ)、私が25年間も日本に住んでいなかったことが大きいと思います。そして、住んでいる母の家が埼玉の山奥(秩父の少し手前、一番近いコンビニまで車で15分)で、しかも私が育ったエリアではないため、周辺に知り合いが少ないことも原因の一つ。更に、35度を超える猛暑、そして山奥ならではの虫との戦い。実は、私達が来る前に屋根裏にハクビシンとアライグマの家族が住んでいたらしく、業者を呼んで退治したものの、ノミが残ってしまい、虫に刺されやすい私の両足は見苦しいほど刺されてしまいました(痒いのなんのって)。虫嫌いのハーパーは巨大なクモやムカデにいちいち怯え、私もゴキブリは日常茶飯事、時々ネズミに出くわしたり、大雨の後に庭でヘビを見かけたり、ディズニーランドのジャングルクルーズ並に毎日ハラハラさせられています。
 
たまに1時間半〜2時間かけて都心に出て昔の友達や姉に会う以外、毎日何をしているかというと、ひたすら実家の掃除と断捨離をしているのです。この家は私が20歳くらいの時、それまで住んでいた練馬の家を売って母が建てた家です。国道299沿いの階段を50段登ったところにあり、そこから眺める山の景色は本当に綺麗。しかし、2年前に弟が亡くなって以来一人で暮らしている82歳の母がこの階段を昇り降りしながら物を運び出すのは無理。実家には、30年前に引っ越してきた時に運び込まれた物がほぼそのまま残っています(苦笑)。それ以前にすでに他界している父の洋服までも(なんで?)。母には、「まこちゃん(私のあだ名)には終活のお手伝いをしてもらうわ」と言われており、いずれ母が亡くなった後にやらなくてはならないことなので、それなら時間が山ほどある今、やれるだけやっておこう、と思っているのです。幸い、ごみ収集車はほぼ毎日来る。ご存知、日本はごみの分別に細かい。私はごみ収集ルールブックを読みこなし、ちゃんと指示通りに出しているので、毎日大量のゴミを捨てているけれど、一度も戻されたことはありません(エッヘン)。先日は不燃・有害ゴミの日だったので、大量の食器や金属類、電池などを捨てました。少しずつでも家の中から物が減っていくので、ごみ出しが密かな喜びになっています(笑)。
 
もう一つ予想をしていなかったこと。それは82歳の母が私達が来てしばらくして、急に体調を崩して1週間も寝込んでしまったこと。それまでは普通に会話し、一日3時間ほどパート(近くの老人ホーム)に行くほど元気だったのに、夏風邪を引いてしまい、来る日も来る日も寝込んで食事もほとんど摂らなかったため、「介護突入か!?」と焦った私は頼りにしている伯母や姉に相談し、毎日の様子を報告していました。ところが1週間経った頃、「さーてそろそろ起きるか」と、やおら起き上がって身支度をし、退職することにした(やはり体力的にキツかったようです)近所の職場まで自分で運転して挨拶に行ったのです。びっくり仰天しましたが、年を取ると体力を回復するまで1週間もかかるんだ、、、と驚いた次第です。ずっと続けていた仕事を辞めちゃって退屈しないかなーと思ったけれど、本人曰く大好きな草むしり(朝4時、まだ涼しい時間に起きてやるらしい)を好きなだけできるから楽しみ、とのこと。
 
異国(?)の地に来て多少なりとも四苦八苦しているのはニールもハーパーも同じです。ニールは偶然にもサンディエゴの友達が一人旅で日本に来ていたので、一緒に同行して大阪、京都、そして鹿児島まで旅をし、持ってきたお金がすっからかんになってやっと帰ってきました。偶然にも、鹿児島は亡くなった父の故郷。急な訪問にも関わらず、LINEをしたら従姉妹が新幹線の出口まで迎えに行ってくれました。そして奇しくも到着した次の日は父の命日。数日間の滞在中、ニールは一人で鹿児島市から電車に乗ってお墓のある川内(せんだい)に向かい、従姉妹に教えてもらった写メ付きのお墓までの行き方に従って、ちゃんと辿り着くことができたのです。そこに2時間くらい居て、ギターを弾きながら会うこともなかったお祖父ちゃんに、それまでの自分の人生を語ったと言います。彼の心根の優しさが感じられて嬉しかったですね。
 
日本での長期滞在で一番懸念したことは、ハーパーがほとんど日本語を話せないことでした。サンディエゴに居れば、ベストフレンド達と同じ中学校に進むはずが、言語がまったくわからない、しかも小学校6年生(まだ12歳なので)をやり直すという状況を、頭では理解しているものの、感情で受け入れることはなかなか難しいようです。幸い、これから通う地元の小学校は全校生徒70人という超小人数なのにも関わらず、これまでに日本語を母国語としない生徒を受け入れた経験があり、彼女の状況をよく理解してくれ、日本語のサポートはもちろん、精神的な部分でも親身になって寄り添ってくれそうなので、本当に有り難いと思っています。学校は25日から始まるので、最初は大変だと思うけれど、(言葉がわからないなりに)学校生活が少しでも楽しくなるように、私も全面的にサポートしていきたいと思っています。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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