目標を常に形にしてきた。誰にどう思われようとも。
10月
10日
今まで私は、基地外じみた行動や言動をしてきて、世界中で波乱にまきこれましたが、目標を常に形にしてきました。狂人扱いされようが、廃物扱いされようが、孤立しようが、馬鹿にされようが目標は常に形にしてきたわけです。
つまり、当時引っ提げていた目標をすべて実現し、結果を出してきたわけです。
つまり、当時引っ提げていた目標をすべて実現し、結果を出してきたわけです。
この結果を人は見るべきだと思います。
私は自分自身を犠牲にしながら、目標を達成してきました。この過程ですべてを失ってきたともいえましょう。しかしながら、すべてを失ったからこそ、得ることができたと言えます。
わかりますかね?
何か本当に困難な、極めて難しい目標を達成したいのであれば、すべてを犠牲にしなければいけない。あれも欲しい、これも得たい、こっちも失いたくない・・・・・・そういう雑念だとか欲望を抱きながら、達成できるような困難な目標など存在しません。そういうのは困難な目標とは土台言えないでしょう。本当に困難な目標の達成に必要な気力、精神力は、そんな甘い話で済む次元のモノでは断じてないからです。
私は自分の問題を解決するために、身を挺して動いてきましたが、この問題の発生は私に責任はもともとありませんでした。すなわち、私は自分自身には全く落ち度のない事象のケジメを全て自分でつけさせられることになったのです。
その貫徹のために、その過程で、私は何もかも失いました。
(結果的にお金と能力だけは得ましたが、ね)
(結果的にお金と能力だけは得ましたが、ね)
このことに対して、誰にも恨みはないし、責任を求める気持ちなどありません。例えば、自分の家が災害で壊れれば自分で建て直すしかないでしょう?それと同じことです。災害がどうのこうの責めても仕方がない。人に壊された場合も含めて、ね。
他人はとかく色々言います。が、そんなことは知ったことではありません。重要なのは自分自身であって、他人ではありませんからね。他人のために生きているのではなく、自分のために生きているんでしょう。人間は、ね。
自分のための徹底追及が最終的には他人のためになるのだと思っています。
往西俊治