《襍観・/・凡声“植物(2)・・!?!”❖’22-11》

ヒメリュウキンカ(姫立金花)キンポウゲ科(Ranunculaceae)
学名:Ranunculus ficaria L.
別名: オウシュウキンポウゲ(欧州金鳳花)
《泉の森・/・22/1/21》
ヒメリュウキンカ(姫立金花);
ヒメリュウキンカは、イギリス原産と言われている帰化植物。
草丈は5~20㎝。葉は心形で艶あり浅い鋸歯がある。
花茎2~3㎝、春に黄色い花を付け、スプリングエフェメラルと言われる。
花弁(花に見える萼片)5枚。花は一重咲きで比較的大きい。
この花は萼花弁と呼ばれるもので本当の花は退化している。
夏に地上部がない夏眠性の植物で、地下に塊根がタコ足状に数本ある。
秋に芽を出し始め、冬の間も少しずつ芽を伸ばして葉をひろげる。
晩冬から早春に株はロゼット状に広がり、中心に蕾を抱き始める。
春に次々と咲く黄色の6~8枚の萼花弁、キラキラと輝く。
基本は黄色の一重咲きだが、多様な園芸種があり、愛好家に好まれている。
「令和肆年(皇紀2682年)1月30日、記」
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《襍観・/・凡声“植物(1)!?!”❖’22-10》

ヒメウズ(姫烏頭) キンポウゲ科(Ranunculaceae)
学名:Semiaquilegia adoxoides (DC.) Makino
別名: トンボソウ
《泉の森・/・22/1/21》
ヒメウズ(姫烏頭);
ウズとは鳥の頭と書き、トリカブトのこと。
ヤマトリカブト などの葉と似ているが、 ヤマオダマキ  と同属。
花は、小さく全体に細い。根茎は長さ約1㎝の塊状。茎は、紫褐色で軟毛が生える。
根生葉には長い柄があり、3出複葉。小葉は丸く2~3裂し、裂片は更に浅く2~3裂。
花は下向きに咲き、直径4~5㎜。花弁は筒状に5個つき、淡黄色。
雄蕊9~14個、内側の雄蕊は仮雄蕊。雌蕊2~4個。萼片5個、白色~淡紅紫色の花弁状。

今年初めて見つけた小さな花。
「令和肆年(皇紀2682年)1月27日、記」
#植物

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《襍観・/・凡声“伝統的なもの(2)!!”❖’22-9》

《陶器・/・布・/・木工》
旧き布(織物・久留米絣)の織柄を見ると、、、!!
布片の菱型等、織り込まれた図柄が面白い。用途は・・・?
普段、敷物に使っているが額に入れ飾っても良いかもしれない。
久留米の布片の下に敷いているのは、唐棧織の布片。
細かい縦縞が特徴の織り方だ。仲間と分けて一部分が残っている。
布の上に置いているピッチャー・扁壺の陶器、好みの色であり器。
真ん中の木工は、拭漆。僕の敬愛する木地師、府川晃さんの作。
どれも超一級のものだ。市井の職人技。僕の大切な宝物。
手仕事、緻密で手間のかかる仕事。後世に残る仕事と眺めている。
「令和肆年(皇紀2682年)1月24日、記」

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《襍観・/・凡声“伝統的なもの(1)・・・!?!”❖’22-8》

《和・/・洋》
旧き時代の一般的に使われた布(織物)の中に久留米絣がある。
その布が寝具の布団皮にも使われていた。図柄も沢山あった。
おめでたいものに使われたと思しきものが、手元にある。
今の時代に見ても図柄は興味深く、時折、敷物として使っている。
旧き明治・大正時代に織られた布、嫁入り持参品の布団皮。
現代では工芸品とされるが、元々職人の仕事、工芸品ではなかった。
*       *       *       *       *
敷物として用いた久留米絣の布、その上にあるお菓子は(仏)伝統のお菓子。
その子細については、以前ブログルで書いたので参照してください。
神事に関係する伝統的お菓子。日本人は、洋菓子をも多様に受け入れてる。
おかげで美味しいものを容易に手に出来る。和洋共々食する事ができる幸せ!!
そこで思うのは、“素” “原点”を見据えて今を知ることではないか。
青春時代に“民藝”を知り、河井寛次郎・濱田庄司・バーナード・リーチに出会えた。
特に、木工家具研究者の池田三四郎さんには師として教えを乞うた。
物好き愛好にすぎない陶器・木工だが、それらから色々と教えて頂いている。
伝統の素を忘れてはなるまい。目利き・眼力を養う。改めて思う。。。!
また仏お菓子文化では、A・ルコントさんに多くを教えて頂けた。
食に関しては、小野正吉・野田岩次郎御大に色々教えて頂けた。
偉人の教えを我が身内に残すべく記録作りを、と年頭に思った。
「令和肆年(皇紀2682年)1月21日、記」



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《襍観・/・凡声“歴史的環境・・・!?!”❖’22-7》

現代的な温室野菜か??
野菜畑
相模平野と丹沢山地・大山
宇都母知神社の本殿は、簡素な姿を魅せる。
鎮守の森の片鱗をみせている。
神社の外回り道路の脇に鐘撞堂がある。
地域住民が如何に助けあい信心していたかが、現れている石碑文面。
現代の地域文化の拠点、K大学キャンパス。
航空写真を見ると、新旧の文化の拠点が隣り合わせに見える。
このあたりから見るダイアモンド富士は、綺麗だ。
この環境、景観、この先も維持してほしいものだ。
《藤沢市打戻・/・遠藤地区》
昭和の時代頃までこの藤沢北西部地区は、農耕を中心とした生活環境だった。
北部とはいえないが、六会(小田急江ノ島線沿い)には大学・附属高・中校がある。
そのアカデミアから奥に通じる田園風景、昭和の原風景!!(半世期ほど前のこと)。
引地川を北上すれば、湘南台・長後と住宅地化している(小田急江ノ島線が主幹)。
この50年余りで都市化、湘南台には、横浜方面からの鉄道が乗り入れられた。
交通の便が格段に良くなり、その周りを素朴な田園景観が包み込む。
古く社寺は、文化の拠点であった。“鎮守の森”とか“鎮守様”と呼んだものである。
今では、学術・・文化といえば大学をはじめとする教育の場か・・・!!
*       *       *       *       *
藤沢市の地区計画に“健康と文化の森地区地区計画”を見つけた。
場所は、遠藤字打越、字西谷、字苅込、字矢崎、字諸之木、字笹窪上、
並びに打戻字大谷 地内、約44.4ヘクタール。
「健康と文化の森地区」がめざす、みらいを創造するキャンパスタウンを形成するために、
みどり豊かな自然を背景に、大学の技術集積や学術研究機能を核とし、
地域の強みを活かした活力が創造される都市環境の形成を図る。
*       *       *       *       *
文化の核(拠点)を大学という学術機関に置き準備・整備されつつある。
昔よりある原風景を堅持しつつ未来に向かって如何に環境を整えるか!?!
整備(再構築)ではなく歴史的環境保全との融合を望みたい。
この藤沢市の計画に隣接する茅ヶ崎市にも大学、里山公園がある。
更には、隣接する寒川町に「相模國一之宮、旧国幣中社・寒川神社」がある。
行政区画では、2市・1町に分かれている。だが田園景観・農耕地が共存している。
点から面へ、而して域へ。歴史的環境=過去・現在・未来を上手く共存させて欲しい。
「令和肆年(皇紀2682年)1月18日、記」
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《襍観・/・凡声“由緒ある神社境内!?!”❖’22-6》

神社案内板・・・かわいい^^)。
提灯は、日本の紙・竹を使った文化の継承に他ならないだろう。
菅原神社(境内社)・・・学問の神様!!
祈願の絵馬。
稲荷神社(境内社)・・・商売の神を祀る!?!
鐘撞堂・・・神社の境内には含まれていないのか???神仏混交の背景を思う。
《藤沢市打戻・/・宇都母知神社(2)》
さほど広くない境内だが、宇都母知神社は、『日本総風土記』によると、
宇都母知神社、式内社で言う社格は郷社とされている。
今的には、地域住民のための神社と言った感じか。明治六年に郷社に列せられた。
 大正十二年の関東大震災で社殿等全てが倒壊してしまった。
だが村人一同の総力で倒壊後わずか三年、大正十五年九月に総てを復旧させた。
昭和二十年春、戦争物資回収で鐘撞を献納し、鐘楼に鐘がないまゝであった。
が昭和五十年、天皇の即位五十年を記念して氏子総意により鐘が再建された。
境内は、約一丁六反(約一万六千平方米)で全域に風致林の指定を受けている。
また昭和四十九年、自然環境保全地域に指定されている。
「令和肆年(皇紀2682年)1月15日、記」
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《襍観・/・凡声“由緒ある神社!?!”❖’22-5》

宇都母知神社(うつもちじんじゃ)、正面鳥居。
参道からの本殿。
狛犬。右
狛犬。左
本殿、左側(神輿舎)。右側に菅原神社、稲荷神社と並ぶ。
参道の右側、郷土資料館。
神社・社務所全景(参集殿・・参道から本殿に向かって左)。
《藤沢市打戻・/・宇都母知神社》
藤沢市に打戻(うちもどり)と云う地がある。周辺は、田園地帯だ。
現代の地勢・治世的に見るとしっかりと郊外・緑ある田園農地と感じる。
すぐ近くに大学があったりと最近注目されてる地域でもある。
往古の日本の原風景も感じられる地域だ。“鎮守の森”の風情も感じ取れる。
*       *       *       *       *
宇都母知神社(うつもち)は、『日本総風土記』によると、
495年(雄略3年)に祭祀が行われたことが記されている(創建年は不詳)。
1290年(正応3年)、九代執権北条貞時が社殿を改築。
1627年(寛永4年)には、領主高木主水が社地九百坪を寄進し本殿を改築。
1923年(大正12年)関東大震災によって社殿等全部が崩壊した。
3年後の1926年(大正15年)には現在の姿に復旧された。
(※震災当時の建物は、1858年(安政5年)に建築されたもの)
祭神;
天照大御神(あまてらすおおみかみ)、稚産霊神(わくむすびのかみ)
若日下部命(わかくさかべのみこと)
 宮鐘・・宇都母知神社銅鐘は、第二次世界大戦中の物資回収によって献納。
現在の銅鐘は、1975年(昭和50年)、天皇在位50年を記念して鋳造された。
※ 延喜式内相模十三社 ※
(大社一座・寒川神社、 小社十二座:大山阿夫利神社他、近間では深見神社)
「延喜式」とは、927年(延長5年)醍醐天皇の時代に編纂され、
967年(康保4年)、冷泉天皇の時代に施行された法典。
藤原時平が編纂着手したのが905年(延喜5年)で「延喜式」と呼ばれている。
「延喜式」は五十巻から成り、巻一から巻十までが「神祇・祭祇」に関する規定で、
巻九と巻十が「神名帳」となり、ここに登載されている神社を「延喜式内社」と呼ぶ。
神社等社寺は、其々存在・歴史の流れの中で日本の治世文化が見えてくる。
ここ宇都母知神社は、相模の国十三社のひとつ。今は農耕知で野菜生産地だ。
以前は、養蚕の神として崇められており、「神明様」と呼ばれている。
地区名である打戻は、この寺社の名の宇都母知から転称されたという説もある。
地名の由来等も思うと楽しい。
「令和肆年(皇紀2682年)1月12日、記」

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《襍観・/・凡声“正月の食べ物・・・!?!”❖’22-3+1》

以上の画像は、借り物。
《若菜摘み・/・七草粥》
若菜摘みから始まった風習;
日本には古来、年の初めに雪の間から芽を出した若菜を摘む、「若菜摘み」風習があった。
古代の粥は「七種粥」と言われ、その材料は、「米・粟・きび・ひえ・みの・ごま・小豆」、
今とは全く異なったもので、鎌倉時代迄、「若菜摘み」と呼んでいたらしい。
平安時代初期に、大陸伝来の年中行事の影響も加味されたか!?!
「人日」(人を殺さない日)に作られる「七種菜羹(7種類の菜が入った吸い物)」、
7種類の穀物で使った塩味の利いた「七種粥」が、宮中の行事となったようである。
それが、古来の「若菜摘み」と結びつき、7種類の若菜を入れた「七草粥」となった由。
そして江戸時代に幕府が公式行事として「人日」を祝日にしたことで、庶民にも定着した。
春の七草とは、「せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ」を指す。
なにゆえに1月7日の朝に七草粥を食べる風習が始まったか、諸説あるらしいが???
大陸の古俗に人日というものがあった由。
正月1日(鶏)、2日(狗)、3日(羊)、4日(猪)、5日(牛)、6日(馬)、7日(人)、8日(穀)、
これらを占う。その日が晴天ならば吉、雨天ならば凶の兆しであるとされていた。
6世紀頃の書物に、「正月七日を人日となす。七種の菜を以て羹(あつもの)をつくる」とある。
7日の人日に七種の若菜を羹(熱く煮た吸い物)にして食べ年中無病を祈る俗信があった。
初春の野から摘んできた生命力のある野草を食ベ7日の"人の日"に邪気を祓う。
伝文では、七草粥を作る時は、七草を刻みながら歌を唄った。この歌を七草囃子と呼んだ。
七草粥は、古来の風習では6日の夜から作り始めたらしい。仔細は諸説あり略。
「人日」とは五節句の1番目の節句、陰暦1月7日を指す。
正月最後のこの日に七草粥を食べて1年の豊作と無病息災を願った。
旬の生き生きした植物である七草を前日に野山で菜を摘んだ。
それを年棚(歳神を祭った棚)の前で七草囃子を唄いながら擂粉木でたたいた。
こうした事で、七草の力をさらに引き出すことができると信じられていた。
丁寧に細かく刻まれた七草粥は、馳走に疲れた胃腸を労り栄養を補う効果もあった。
作る作法は少し変わっており、「七草なずな、唐土の鳥が日本の土地に渡らぬ先に…」と、
七草囃子を唄いながら、まな板に乗せた七草をすりこ木や包丁で叩く。
米は、4・5倍のお水に30分間浸し、強火にかけ、吹いてきたら弱火にし、2~30分炊く。
火を止める直前に刻んだ七草を入れ、塩で味をつけて完成。
「令和肆年(皇紀2682年)1月9日、記」



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《襍観・/・凡声“正月恒例の・・・!?!”❖’22-3》

都市部の雪景色・・・モノト~ン!!
翌日の道端のフェンス。この辺では、絵になるが???
吹き溜まり、、、チョットいい色合い!!
《新春・/・首都圏に雪が降る!!》
穏やかな正月を自宅で過ごし、食べ過ぎ解消、所要もあって出掛けた。
幸か不幸か(好・・幸だ、僕には)、久し振りの市街地での雪景色。
それでもビル内(横浜みなとみらい地区)は、結構の人出が見られた。
普段、雪景色を生活の場で見ることは少ない。雪を楽しむ感覚はない。
僕の壮年期は、南独で冬を過ごすことが多かったが豪雪地帯では無かった。
余り苦労したって思ったことはない。だが、日本での雪は難儀、不思議だ。
首都圏は、10cmも積もったら偉いことだ。環境・心構えって大切と痛感する。
「令和肆年(皇紀2682年)1月6日、記」
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《襍観・/・凡声“正月恒例の・・・!?!”❖’22-2》

ニューイヤー駅伝、 ホンダ・アンカー藤原 正和選手ゴール画像。
箱根駅伝1区、先頭を行く中央大学・吉居大和選手。
東海大5区、吉田響選手。
《新春のスポーツ・/・駅伝》
清々しい新年を迎え、恒例の新春スポーツをTV観戦して三ヶ日を過ごした。
元旦に行われた全日本実業団対抗駅伝競走大会(ニューイヤー駅伝)。 
2日・3日は、通称、言う所の箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)。
元旦のニューイヤー駅伝、古くは、伊勢神宮周辺で開催されていた。
今は、会社がなくなってしまったがリッカーミシンが活躍していた、懐かしい。
今年、優勝したホンダ(本田技研工業)には未だ陸上競技部は無かった頃の事。
ホンダの優勝、又一つ実業団ティ-ムが台頭してきた。楽しみと期待が持てる。
続く2・3日の箱根駅伝、関東学生陸上競技連盟登録男子の大学対抗駅伝。
全国的な人気だが、共催・特別後援が大手新聞社・中央TV局の報道が大きい?
各大学の関係者は、高校競技会で活躍していた選手を関東に集めていると映る。
参加大学が、選手争奪戦を繰り広げてるのか、チョット引っかかる感がある??
未完の大器を発掘するのも指導者としては当然でもあると思うが、、、。
だが、各大学の存在感競走に走っている感、今年の優勝大学に感じた。
報道放映にしても優勝争い場面が多く取り上げられる。それ故の切磋琢磨??
話題性ばかりで競走本来の内容に欠けていた、と感じるのは僕の片寄った見方か。
今大会の最優秀選手に輝いた中大・吉居大和(2年)選手のレース感はずば抜けていた。
前記録保持者の東海大OBの佐藤悠基走りを思い出した。1区の走りは選手の力量だ。
凄い選手が現れた。今後が楽しみ。同じ様に5区の東海大吉田響選手も凄かった。
箱根の山登りでのごぼう抜き、全く中継放映されなかったが今後が楽しみ、未だ1年生。
東海大の吉田響を紹介してる記事を見つけた。読売新聞オンライン記事転載。

足どり軽やか、歴代4位の山登り(読売webより)
小田原中継所で主将の本間 敬大(けいた) (4年)からたすきを受け取った時点でチームは17位。
「競技を終える本間さんを笑顔で終わらせてあげたい」と気合が入った。
大学駅伝のデビュー戦とは思えない軽やかな足運びで山道を駆け上がり、
前を走る選手を次々と追い抜いていった。
順位を10位に押し上げる猛追で区間2位、歴代でも4位の1時間10分44秒をマークした。
足の回転が速いピッチ走法が持ち味。
静岡・東海大静岡翔洋高から入学後すぐに 両角速(もろずみはやし) 監督から「山の適性を持っている。
楽しみな選手になる」と見いだされ、登りに特化して坂道を走り込んできた。
11月に指揮官から5区起用を言い渡されると、
「チームを背負って走らないといけない」と意気に感じた。あと3回チャンスはある。
5区で3度区間賞を取って区間新記録も残し、『山の神』と呼ばれるようになりたい。
11位で予選会に回ることになった強豪校を引っ張り、その名を響かせるつもりだ。
(百瀬翔一郎)。

レースの実況中継は色々と大変・難しいとは思うが、全体を観て中継してほしい。
「令和肆年(皇紀2682年)1月3日、記」




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《“襍観・/・凡声!?!”❖22-1》

スポーツ競技として認知されたか!?! “スケートボード”


《時節・_・襍感⇔“静謐な世情”》
爽やかな而して静かな新年を迎えることが出来ました。
ブログルの皆さん、あけましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い申し上げます。

我ら生きる人間、そろそろウイルス感染に対して敢然と対峙したい。
医療を信頼し浮き立つのを抑えよう、個々人の落ち着いた対応を希す。
「令和肆年(皇紀2682年)1月1日、記」



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