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サウスベイ マネジメント セミナー( Southbay management seminar )は月一回のセミナーを中心に勉強し、時々に親睦をする、乃ち「よく学び、よく交友する」そのような会です。 トーランスのニューガーデナホテルが会場になります。

2014年度 2月 「カリフォルニア・ワインの先駆者・長沢鼎(ながさわ かなえ)」

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日時: 2014年2月12日(水)、6:30PM - 8:30PM
会場: ニューガーディナ・ホテル
講師:渡辺 正清 (わたなべ・まさきよ)氏
講演録担当:佐伯和代

講師略歴:
1938年(昭和13年)、石川県に生まれ、神奈川県、愛知県で育つ。
1961年、東北大学文学部卒業後、米カリフォルニア大学へ留学、都市工学専攻。
1965年、ロサンゼルス郡公共事業局勤務。1985年、郡最優秀職員に選ばれる。道路課長をつとめ、1999年に退職。
同局勤務のかたわらジャーナリストとして、ロサンゼルスの日本語放送局で報道番組の制作と放送を担当。日米首脳会談、昭和天皇米国御訪問、オリンピック大会、大震災、暴動、911同時テロ等を取材、併せて日本の朝日、読売、毎日、産経、中日、南日本の各新聞に寄稿。ロサンゼルスで発行される邦字月刊誌に35年間、邦字紙に8年間にわたり寄稿。 アメリカにおける政治・社会問題および日系移民史に関する論考を日本の新聞、月刊誌に寄稿。NHKのニュース番組に生出演。講演、大学での特別講義など。
単行本として
『ミッション・ロード』一九九一年、第十回「潮賞(ノンフィクション部門」受賞、潮出版社
『ヤマト魂 アメリカ・日系二世、自由への戦い』2001年、集英社
『ゴー・フォー・ブローク 日系二世の戦場』2003年、光人社。2009年、文庫版
『評伝 八島太郎 泣こよっか ひっ翔べ」2009年、南日本新聞社

講演内容: 長沢鼎の写真集はここをクリックしてご覧下さい。Media:Nagasawa.pdf 

評伝 長沢鼎とは
1983年、来日中のレーガン大統領が尊敬すべき日本人としてあげた3名は、 福沢諭吉、松尾芭蕉、長沢鼎  これをきっかけに、当時日本でほとんど知られていなかった長沢鼎の名前が世に知られるようになった。
CA州サンタローザで長沢鼎がワイン造りを行っていた 長沢鼎は1852年に生まれた。その翌年にはペリー来航。 そんな時代の鹿児島で産まれ、育った長沢鼎。 薩摩藩は薩英戦争(1863年)の名残からも、国を強くしなければという想いから、 そのために人を育てる、そして、造船を学ばせる目的で留学生を海外へと送り込む。
森有礼、松村淳蔵(日本人で初めてミネアポリス海軍兵学校を卒業し、) 秋山真之、村橋久成(後のサッポロビールの創業者)、畠山義成(後の東京大学となる学校の校長)、後に大蔵次官となった吉田清成、後に外務大臣になった寺島宗則などと共に最年少13歳で留学生としてイギリスへと向かった。

1865年薩摩を出発し、香港、シンガポール、インド洋を経由、地中海を横切り、イギリスのサザンプトンに2ヶ月近くかかって到着。
薩摩を出発した際には侍姿だった一行も、香港で洋服を調達。しかし、その際はサイズがあわず大変だったものの、ロンドンではオーダーでまとまったスーツ姿となった。
ロンドン、Waterloo Stationに到着し、テムズ川、ビッグベン、バッキンガム宮殿を眺めながら馬車でサウス・ケンジントンホテル(今も当時と同じ景観で存在している)に到着。
ロンドン大学にほとんどの留学生は籍を置いていたが、長沢鼎は大学には籍を置かなかず、2ヶ月程ロンドンに滞在し、様々な地を巡った。 そして、スコットランドのアバディーンというロンドンから1000Km離れた港町に移動。
長沢鼎が到着したアバディーンという街は、1860年代を中心として、造船が盛んに行われていた。当時の薩摩藩などの船もこの地で造られていた。
そして、この地には、長崎のグラバー邸で有名なトーマス・グラバー氏の実家があり、ここに長沢鼎も滞在し、中学校に通った。このグラバー家は邸宅自体はそんなに大きくないが、驚く程広い庭園を持つ家。
この時日本はまだ幕末で明治になっていない時代。 アバディーンの南部は造船業で栄え、北部は大聖堂と学校でもっていた街。 今でもその時代の名残がある石畳が印象的な街。 ドンジュアンなどの作品で有名なバイロンも少年時代に長沢鼎と同じこの街で過ごしていた。
当時の長沢鼎は英語は全く出来なかったが、薩摩の武道には長けていた。 しかし、2ヶ月程で英語も理解し、学校の成績もトップになるほど優秀だった。 その後、薩摩藩の財政が厳しくなり、藩からの資金は途絶えた。
そして、森有礼らと共に長沢鼎は渡米(東海岸:ニューヨーク州エリー湖畔)。 トーマス・ハリスという宗教家の世話になり、ワイン製造を学ぶことになる。 1871年1月:英語での日記を書く。(その内容は著書『カリフォルニアワインに行きた薩摩の士』でお楽しみ下さい。)
東海岸から西海岸まで大陸横断鉄道で移動し、サンタ・ローザに到着。
1875年2月末。当時長沢は23歳。街はまだ人家が少なく、ワイン造りも盛んではなかった。 この当時、長沢はワイン造りを既に学んでいたため、土地を巡り、ワイン造りに適した土地を選び、ワイナリーを開く。 敷地面積2500エーカー、最初は400エーカー、最後には500エーカーの 葡萄畑。そのほかは牧場などを開拓する。 長沢は葡萄造りに科学を持ち込んだメンバーと共に力を発揮した。 長沢はFountain grove: SONOMA COUNTY CLARET というワインを製造。
当時の長沢を知る人、グリオットさんから講師の渡辺さんはそのボトルをいただいた。
後藤新平(東京市長)、園芸で有名なルーサーバーバンク氏、新渡戸稲造と共に写真に収まる長沢鼎。 エドゥイン・マーカー(20世紀前半を代表する詩人)も、よくこのワイナリーを訪れていた。
当時長沢氏は、「プリンス長沢」と呼ばれていた。 1934年、82歳で他界。
サンタ・ローザでは、長沢鼎の功績を称え、自然を多く残した長沢コミュニティーパークを開設。
鹿児島にも長沢鼎の墓が建てられています。この墓地からは桜島が眺められる。
今回のセミナーは写真を見ながら、長沢鼎の軌跡をたどりましたが、この短い時間では語りきれないので、詳しくは著書を読んでいただけると幸いです。

Q:当時の留学生の費用は?  A:この当時はトーマス・グラバーが援助したのではないか?と言われているが、 詳細は定かではない。
Q:長沢鼎はどんな目的で留学生から異国の地でモノ造りに励んだのでしょうか? A:独立心が強く、自分だけが出来る仕事をしていきたいと19歳当時に決断した。 詳しくは著書で!
エジソンも長沢邸を訪れていた記録がある。
長沢鼎は結婚はせず、子孫も残していない。 当時のワイナリーには親戚が手伝いとして来ていた。
長沢鼎の生涯は苦労ばかりだったかと伺える。 米国から日本へはトータル4回帰国し、そのうち3回は鹿児島へと戻っている。 鹿児島のお団子(しんこ団子)を買いに行ったエピソードなどは著書で!
以上。
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