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一万一千日のディスクール

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キミの名はお金

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とにかく俺は金がなくて困っていた。セゾンは上限いっぱいまで使い、もうとっくに使えなくなっていた。

固定資産税の未払いも知らない内に50万を超えていた。

それでもうなにもかも面倒くさいし、死んじゃおうかとも思ったけど、まだ童貞だったからとりあえず死ぬのはHをしてからにしようと思った。


で、ネットでバイトを捜しまくった。むろん高額バイトを狙った。

まず見つけたのが病院の死体洗いの仕事。なかなか興味深い仕事だけれど、ホルマリンの臭いが髪の毛にまで染み込んでしまいそうでやめといた。

あとは、ホウケイ手術の手伝いというのもあった。皮を剥く作業。問題外。

ほかには、やっぱり病院での泊まり込みになるんだけど、新薬のモニターのお仕事。

8泊9日+通院4回で、18万とか16泊17日+通院1回 で30万というのもあったし、ほんとうに美味しそうなバイトだけど、女の子とHする前に廃人になっちゃうと意味ないのでパス。


でも、いつかはやろうと思ったから、やったことのあるという友達の友達に訊いてみたら、事前に健康診断や採血があって、それでパスしたらOKがでるらしい。

申し込めば全員が全員パスするわけじゃないみたいだった。でも、通ってしまえばネットもやりたい放題だし、むろんご飯も出るしで最高だと言っていた。

但し、何もなければの話だ。

新薬の開発でモルモット同様の事を人体で行なっていることを忘れてはならない。

副作用の出現を確認しているのだから。その場で拒絶等の反応が出たならまだしも、いつ出るかも実はわかりはしない。


で、結局残った候補は、おばさんとHする仕事。これは結構実入りがいい。

おばさんということを除けばおばさんも結構いいかも。でも、ひとつだけ残念なのは、チェリーボーイであるぼくの穢れなき童貞を若い女の子に捧げられないこと。

友達にそのことを愚痴ったら「おまえさ、童貞は捧げるもんじゃねーだろ」と言われた。
まあ、それはそう。

知り合いの知り合いに、そっち系のバイトをしてる子がいて、聞いてみると、やる気があるならいくらでも紹介するけど、案の定やめておいた方がいいと言われた。

そして、ちょっとここには書けないくらいの壮絶なエピソードを話してくれた。


それで、やはり考えなおして、なんでもいいから、まともにコツコツ働こう、時給1,000円なら御の字じゃないかと思い直した。

お金とは、汗水流して長時間働いた、その尊い行いの対価として支払われるべきものなのだ。

決して不労所得で楽に生活しようなどという不埒な考えを持ってはならない。

正に正論だった。

ところが、旧態依然たるそんな考えこそを、実は捨て去るべきなのだ。

「お金は、労働の対価として得るべきものなのである」

という、その既成概念こそが、幸せになるべく生まれきた自分をずっと阻害し続けている。

「お金は、労働の対価として得るべきものなのである」

これは、実のところ資本主義社会の理論にすぎない。

労働者と雇用する側の人間が資本主義社会には必要不可欠であり、つまり、雇用する側にとって搾取出来るか出来ないかは大きな問題である。

労働者の立場ばかりで物事を考えていたのでは、儲けが薄れてしまうばかりなのだ。

資本主義社会において、金儲けとは、端的に言えば、負け組である貧乏人を作ることなのであり、貧乏人がいるから、即ち金持ちがいるのだ。

それが、資本主義の作る社会の構図であり、労働者が安い賃金で文句も言わず働いてくれるので、さらに金持ちは肥えていく。

ぼくらが、この資本主義社会の中で生き抜いていくためには、そのルールに従わなければならないのですが、ちょっと頭を切り替えて、資本主義が絶対のものなのではないことに気づいてもらいたい。

いったん、外に出る感覚ですね。


そんな目から鱗の思想の持ち主にぼくは、ネットで出会い、ほんとうの豊かさを手に入れることができた。

豊かさ、幸せは既に自分に備わっている。ただ、それを自分に許せるか許せないのかの問題にすぎないのだ、ということ。

お金に対する認識を新たにしたあなたは、豊かにならざるを得ないのだということ。

そして、自分をいじめ責め苛むことで、生きることの苦しみから抜け出そうとすることは、確かに間違いではないけれども、あまりにも苦しみの方が大きい。

向上する為には苦しまなきゃいけないんだ! というのは、もう古すぎる。婆羅門行者が既にずっとやっていたことです。

苦しむのではなく、自分を許してやってください。幸せになる自分を許してください。

幸せはあなたの隣にあるんですよ。自分の真の価値を認めて、幸せになる自分を許してあげてください。

苦しむのではなく、自分の人生を肯定できるポジティブな言葉や文字、行動を自分の周りに溢れさせてください。

言霊は、ほんとうに凄いパワーですよ。やがてあなたにもわかります。変わっていく自分が。

ワオ!と言っているユーザー

世界からの解脱

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「諦念こそ、あらゆる徳と聖の究極の目標であり、いや、そのもっとも内奥の本質であり、また世界からの解脱である」ショーペンハウエル

ほんとうにそうなのだろうか?
頭のいい人ならばなおさら、それが自己欺瞞に過ぎないことがわかるのではないだろうか。
だが、彼ほどの人物が「諦念」こそが、人の到達し得る至高の境地だと言い切るのは、この娑婆という世界が、名状すべからざる苦悩に満ち溢れた世界だからだろう。
つまり、そう思わない限りすべての苦しみから解放されることはなく、心の安寧を得られることはないからだ。

また、彼曰く
「イデアの現象である個体がどのように時間のなかで生成し消滅しようとも、それはうたかたの夢にひとしい」
ということだが、たしかに百歩譲るとすると、諦念により精神的には救われるという高級な人たちもいるのかもしれない。
少なくとも精神的に救われ、心の安寧を得られる、それら高級な人たちは、既に物質的に恵まれている人たちなのだ。
それで救われたと思えるのならば、救われたのだろうから、これ以上この駄文を読む意味はない。

だが、ほとんどの人たちは、身を粉にして働いてお金を稼ぎ、ごはんを食べなければ生きてはいけないし、素敵な恋だってしたいし、綺麗な洋服を身にまといたいし、Hだってしたい。
それは、すべて人間というものが、肉体を有しているからこそだ。

しかし、そのこと自体がすべてイデアの想像する現象に過ぎず、この世界は幻であるのだから、何の問題もない。とする解釈は確かにある意味、魅力的ではあるのかもしれないが、何の問題解決にもならない。

言うなれば、絵に描いた餅、写真に写っているショートケーキ、動画で見る焼肉。
たとえいくら美味しい食べ物を、写真やビデオで見せられたとしても、お腹はすいたまま。

○では、どうすればいいのか?

・図太く生きることを選択し、刑罰を喰らわないよう、せいぜいバレない程度巧みに犯罪行為を為して、窃盗、横領、詐欺、強奪を重ねること等により、とにかくカネを手に入れる。それが、真面目にコツコツ働くよりは手っ取り早い。

・自死を選ぶ。こんな苦の娑婆からは早々に撤退するのが一番だ。この現実と呼ばれる苦悩の世界が幻想ならばなおさらのこと、歯をくいしばって生きる意味がどこにある?

・問題に気づいてはいるが、いい意味で事なかれ主義? 人を騙したり、傷つけたりして悪事を働くことは気がひけるし、かといって死ぬのはさらに馬鹿らしい。

・ただ今現在が楽しけりゃ最高!あとのことはどうだっていい。なんも考えたくはないw

人それぞれ、さまざまな生き方がある。そして同様に、生きていく上で人間は、さまざまな苦悩に晒されていくが、その人その人の時所位や環境でその人にしかわからないケースの苦悩に喘ぎ続けているのだから、人の苦悩に順位付けなどできるはずもない。

◇TRUMP氏のような富裕層は別にして、先ずは生活苦から抜け出さなければならない。
身体が健康でとにかく働けさえすれば、とりあえず日々暮らしてはいけるが、借金に年がら年中追いまくられるのもまた辛い。挙げ句の果ては、自己破産すればいいと思っている人も少なからずいるかもしれない。

◇あとは、健康。家族にひとりでも病気を患うものがいたら、それだけで家族全員が暗い闇の淵に沈んでしまうし、経済的にも逼迫していく。

◇そして、人間関係で生まれる軋轢や争い。

さて。人の悩み、苦しみを数えあげたらきりがないが、上記のこれら主だった苦悩だけでも一切ないものとしてしまう魔法の呪文を唱えてみよう。

「諦念こそ、あらゆる徳と聖の究極の目標であり、いや、そのもっとも内奥の本質であり、また世界からの解脱である」

つまり、煩悩の欲をすべて捨て去り諦めてしまえば苦しみは自ずと消えるということらしい。

卑近な例を挙げてみると、夜も眠れないほど麻衣という子が好きでたまらないあなたは、なんとか麻衣ちゃんと一緒になりたいと思ってはいるものの、自分の容姿に自信がないし、もし告って身の程知らずと笑い者にでもされたなら、死んだ方がましだし、どうしたらいいのかと苦悩する日々を送っている。
しかし、ある日。昔の賢哲の言葉をネットで読んで、はたと気付く。そうか! このいつ終わるとも知れない恋の苦悩のトンネルからから抜け出すには、はなから恋なんかしてなかったと思えばいいのか! そうだ! ほんとうのところ、オレは麻衣なんかに恋なんてしちゃいなかったんだ! 対象は誰だってよかったんだ、ただ恋に恋している自分が好きなだけだったんだ。
そう考えると、なんか心持ち胸がスーッとしたような、しなかったような? ただオレは恋にのぼせていただけなんだな。
そう思うとあんな風に悩んでいたことがアホらしくなってきたけれど、でも何かがおかしい。たしかに麻衣に恋焦がれる想いは、オレの心を鷲掴みにして放さず、息も絶え絶えなほどだったけれど、世界は輝いて見えていた。麻衣の眼差しに一喜一憂する日々は、辛くもあるけれど、生きる喜びが溢れていた!
世界から解脱するということは、生きる喜びをも捨て去ることだったのか!


例え話が長くなりましたが、一方で彼ショーペンハウエルは、こう述懐してもいます。

「われわれの人生は悲劇のあらゆる苦しみを背負っていかなくてはならぬというのに、その際、われわれは悲劇的人物としての威厳を主張することすらできないのであって、生活のうえの広範囲な瑣末事のなかで、いやおうなしに愚鈍な喜劇俳優の役を演じなければならない始末なのだ」

睡眠欲、食欲、性欲をはじめとする、あらゆるヒトとしての喜びや、それとは真逆のあらゆる苦痛といったすべての身体的なもの、つまり物質的なものは、幾ら御題目を唱えても、なんにも解決はしてくれない、ということですね。

とどのつまり
「世界は私の表象 Vorstellung である」

は、精神的な救いしかもたらさないということ。まあ、考えるまでもなく、解脱という言葉自体が、精神的な概念の存在でした。
オレは明日から食欲から解脱して、ダイエットするだの、馬券購入欲からやっと解脱した! なんて聞きませんからね。

人間は、いうまでもなく、心と身体から出来ているものであって、そのいずれかでもない。
ですから、精神的に世界から解脱できたとしても、身体は救われてはいないのです。
身体なんてイデアの現象でしかないというのは、もはやただの負け惜しみでしかない。

解脱により精神は救うことが出来ても、肉体までは救うことが出来ないゆえの詭弁にすぎません。

勿論、精神的にだけでも解脱し、救われたならば素晴らしいことにはちがいありません。

ここで、仏教の教えを否定するつもりなどではなく、仏教は精神的な救いという、そこまでの教えだったわけです。決して誤っているわけではない。
ただ、問題は、ではこれからは、どうしたらいいのか? 精神的のみならず肉体的にも救われるためにはどうしたらいいのか?

悩み苦しみは人それぞれで、身体はバリバリ元気で風邪ひとつひいたことがないという人でも、意外にも精神を病んでいたり、お金には何不自由なく暮らせるが、ずっと入院暮らしだとかという方もいらっしゃることと思います。

前回でも少し触れましたが、
「世界は私の表象 Vorstellung である」は、精神的に病んでいる方には、特効薬にならずとも役立つ概念だと思います。
自分の捉え方次第で世界は、地獄にも天国にもなる、ということ。

物質的な側面は、どうしても時間がかかるのですが、精神的な側面は、わかる人には一瞬でわかるといった性格があります。


○ 大きなお世話

ここで、ちょっと。
殊更生きることが精神的にキツい方に向けて書きたいのですが、私の知り合いにもそういう方がいます。

私は、パラレルワールドやパラレルユニバースとやらの存在を確認してはいないのですが、あるのではないだろうかと正直思っています。

この私の住む世界は、縦と横、男と女、陰と陽、時間と空間、マイナスとプラス、光と影、裏と表等々、「ほなゲイとかオカマはどうするんや? 」とかは措いといて、大別すると二極化しているわけです。そして、その真逆なベクトルによって前進するパワーが生まれてくるわけです。

誰もが知っている「過去→現在→未来」という時間の流れがありますが、この流れを縦と考えると、横である空間がないとおかしいわけなんですよ。
つまり、それこそがいわゆる並行世界ってやつだと思っているんです。同じ時間に存在する無数の異なる世界の自分。


そこで、みなさんよくご存知のYoutubeに置き換えて想像していただきたいのです。

いろいろなサイトを見た、あなたの過去の閲覧履歴等により自動で関連した動画が表示されてきますが、それをすべて異なる世界でのあなた自身の動画と想定してみて下さい。

つまり、異なる世界のあなたは、職業どころか性別すら違うかもしれません。パラレルワールドでは「ありえない」は、もはや「ありえない」のです。
別な世界では、あなたは坂道シリーズのセンターを張っているアイドルかもしれませんし、アルカトラズで服役中のプリズナーかもしれません。

今現在、いわゆる現実の私のYoutubeでは、たまたま見たテキスト系のもう読みたくもない修羅場的な内容の動画がしつこく表示されて、ウザくて仕方ありません。

それと同様に、無数のパラレルワールドの中でも、ドギツイものは、咄嗟に手を出してしまいがちです。犯罪者である自分なんて、誰しもが想像したくもないでしょうが、怖いもの見たさというやつ、結構強力な誘惑ではあります。

よく言うエロ・グロ・ナンセンスとか目を惹くドギツイもの、そして、みなさんあまりお気づきにはなりませんが、「悲しみ」というもの。

気づいていないだけに、このsad ness は、ほんとうにくせ者です。
関連動画ですから、悲しみやら不幸やらの滲み出ている動画を選ぶと、次から次へと同じような不幸な世界が広がっていきます。

あなたは、ただちょっとした好奇心から、別なあなたの不幸な人生の行く末を覗き見したかっただけなのに、もうひとつもうひとつと似たような不幸なあなたの別の人生を観ている内に、果てしなく悲しみと不幸が渦巻く世界にどっぷりと浸かってしまいます。

もがけばもがくほど悲しみという藻が身体に絡みつくばかりで、助けを呼ぼうが誰も助けてはくれない。
あなたなら、どうしますか?

抜け出すのは、実に容易なことです。暗闇の、あるいは青ざめた悲しみの別の並行世界にいるあなたの動画の中に、多少なりとも光の差している動画をひとつまたひとつとクリックしていけばいい。
不幸な話の中にも、救いのあるエピソードは、必ずどこかしらあります。その光を目指してクリックしていけばいい。
やがて、あなたは光溢れる世界に再び包まれることでしょう。
要はあなた次第というわけです。


で、ここで注意していただきたいのですが、今みなさんがYoutubeを開いて見ていると仮定したそれは、時間も空間も超越した存在のあなたなんです。
そして、あなたは指先をタッチするだけで、いとも簡単に自分のパラレルワールドの表示の切り替えができる。泣きごとや、修羅場といった負のエネルギーを持つ世界の誘惑に惑わされてはなりません。悲しみのエネルギーは、相当な吸引力を持っています。まるであのブラックホールのように。
今はどうなのか不勉強な為知りませんが、かつて文学もいとも易々と悲しみに牛耳られ、生きる悲しさやら、苦悩、不幸に引きずられることが即ち文学なのだとする、文字通り不幸な時代もありました。

しかし、その時にはそれはそれでよかったわけです。そういう時代だったのですから。ですが、旧態依然のままではいけません。いつまでも、悲しみに引きずられる古い頭では、いけません。
悲しみは、なにやら甘美な心地よさを纏っていますが、やがて必ずやあなたの心を蝕んでいきます。ですから、あなたのYoutubeに表示される関連動画の負のエネルギーを持つ動画の再生には気をつけてください。負は負を呼び込んできます。

パラレルワールドやパラレルユニバースといっても、すべてはあなたの心の内にあるものなのです。
ですので、冗談抜きで選択する動画には気をつけなければなりません。関連動画は、あなたの心の映し鏡だと言っても大きく外れてはいないかもしれません。ですから、常に自分の明るい未来を想像できるようなポジティブなものを選択することが大切です。

そんな綺麗事だらけの動画だけではつまらない。という人も無論いらっしゃるでしょう。ドラマだって、争い事ばかりのものがもてはやされたりするじゃないかと。ミステリなんてすべて殺人の話じゃないかと。

それは、そうですね。娯楽として見る犯罪ものは、やはり見ていて面白いしスカッとしますね。たとえば必殺シリーズで、血も涙もない悪人が仕置きされると、ある種カタルシスを覚えます。

エロ系のものもむろん、見たくなるのは当然だと思いますが、要はバランスだと思うんです。善と悪を併せ持つというのがヒトの実相ですから。
つまりは、あまりにもダーク系に偏りすぎないようにということ。ニュートラル。中庸ですか、しかし、これがなかなか厄介だとは思いますが、偏りすぎないようにと気を配るだけでも違ってくると思います。

ごくあたりまえな日常の生活の中での想念というものは、たいした事ではないと見過ごされがちですが、一割にも満たない顕在意識と九割以上を占める潜在意識が四六時中思い浮かべている想念(言葉)こそが重要なので、なるべく負のエネルギーを感じさせるものにはウェイトを置かないようにということです。
そういったものは、じょじょに心にダメージを与えてきますから、即ち想念が負のベクトルを持つようになってしまう、というわけです。

感謝は感謝を生み、不平不満は不平不満を生む。これは相応の理でどうしようもないのです。どうしても良いものには良いものが集まってきますし、悪いものには悪いものが集まってくる。
朱に染まれば赤くなると言いますが、いい想念でいるならば、間違っても交わることはないわけです。レベルがちがうからで、つまり、階層というかストリームやら周波数が異なるわけです。


○ヒトは空を飛べるか?

さきほどYoutubeの動画を眺めるあなたは、ちょうど時間と空間を超越して自分の内なる並行世界を眺めているのに似ていると書きましたが、時間と空間を超越しないことには、並行世界を認識できないわけなのですから、各々の並行世界に住するあなたは、並行世界の存在すら知らず、人が時間も空間も超越できることにも気づかない。

しかし、気づかないということは、気づけばなんとかなるということであって、いかんとしがたいレベルではない。

「世界に属するすべてのものはただ主観に対して存在するにすぎない。世界は表象である」

「表象する生物がたった一つ居るだけでも、数百万の生物がその場に居合わせるのとまったく同じくらい完璧に、客観を通じて表象としての世界の全体像を補充するであろう」

「そもそも客観というものは、主観の表象として、主観に対応して存在するにすぎない」

ショーペンハウエルの以上の言葉からもわかる通り、表象は表象なだけに、そして、客観はその主観に対して存在するということから、切り替えが容易にできる。

簡単に言うと、人は絶対に空を飛べると思えばいいわけです。ここで重要なのは、「思えばいい」というのは、出来もしないことをそう「思い込め」と言っているのではありません。
「人は絶対に空を飛べない」という既存のいわゆる常識から「人は絶対に空を飛べる」に切り替えろと言っているのです。

というわけで、頭は容易に切り替え可能であり、気持ちだけは雄大な空を美しく飛翔できるのですが、問題はこの重力に縛り付けられた重い身体をどうするのか、ですねw

人の想像力が、世界を推進してきたのであって、人が想像できることは必ずや可能となるのです。
あの鉄の塊が空を飛ぶとライト兄弟が想像したから、今のジェット機があるわけです。
想像が先ずあり、無からはじめて生み出されていくのであって、今現在ないものだからということで、ありえないと全否定してしまうことは、あまりにもおかしいことではありませんか?

○価値判断

いま何事もなく日々を過ごせていることはこの上ない幸せであり、日々感謝の念を持ち続けることが先ずは幸せの秘訣だと思います。

人は肉体を有し、官能に生きています。所謂SEXだけでなく、食べることも眠ることもすべては、それが気持ちいいからです。

同様に嫌なことは見たくもないし、知りたくもない、考えたくもない。
すべては各々の気持ちがいい方へ正しいと思う方へと向かいます。

そして、もしそれで壁にぶち当たって身動きがとれなくなったら考えればいい。
そんな風でないと、つまり自分から求めるものでないと、一切理解しようとはしないからです。

そういった大きな転換は、ほんとうに生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされるような待ったなしの試練が必要かもしれません。
それは、疾病や怪我かもしれませんし、精神を蝕むほどの激烈なダメージかもしれません。
いずれ、そのような考えざるを得ない時期がくるかもしれませんし、来ないかもしれない。

まあ、その程度の曖昧なことしか
私には書けないのですが、そんな人生にとっての大窮地に陥るような出来事を受けて、ヒトは誰しも
なぜ私なんだろう。なぜこのタイミングなんだろう。他の誰かじゃダメだったのか?
先ずまちがいなく、皆さんそう思うことでしょう。

しかし。偶然というのは万に一つもないのです。すべては必然。あなたの人生ですが、あなたの好き勝手には行かないですよね?
何かの法則が必ずあるはずなのです。
その絶対的な法則を私は知りたいと思っています。

ひとつ、おぼろげながら私にもわかることは、この世は共に同時代を生きる他者を理解し世界はひとつであるとする善でなければ栄えないということ。他者を批判し排斥することで、自分だけは良くなりたいとする輩は、やがて淘汰されるということ。
悪が少しでも善に勝っていたならば、この世界はとうに崩壊していたことでしょう。
つまり、善なるものが栄えていくようにプログラミングされてることがわかるわけです。



○ 仙人の修行

肉体がある限りは、死と背中合わせの存在ですが、肉体があるからこそ生きる喜びがあるのであり、生きるとはまさに肉体に命が宿ること、そして肉体がある故に、あらゆる官能を覚えることができるわけであり、つまりは、生きるとは官能そのものなのです。

痛み、悲しみ、苦しみ等は、死に通ずるものですが、その反面、肉体あるが故に人は空を飛べない。

チュンチュンいいながら道端を跳ねるように歩くスズメを見ていてよく思うのですが、あんな風に身軽だから空も飛べるんだろうなと、それで、仙人のことを思い出したんですが、仙人になるための修行は、うどん粉に松葉をすり潰したものを混ぜて作ったおだんごを、日に三つ食べることから始めるとか聞きました。
そして、最終的には水だけしか摂らないようにする、らしいです。
そんな修行を経て身軽になった仙人は、空も飛べるようになる。

そんな風に人の身体は、訓練によって鍛え上げられることも可能なわけで、オリンピックのアスリートたちの超人的な活躍を目の当たりにしたり、神技とも思えるギタリストの演奏を見たりすると、人間は凄いと思わざるを得ないのですが、来たるべき未来には、この肉体と精神を自在に切り離す事が出来るようになり、つまり、空を飛ぶ、というかテレポーテーションが可能となるのだろうなと私は予想しています。


○叡智というもの

言葉とはまさに神であって、非の打ち所がない完璧な健康な肉体、健全な心の持ち主であっても、死にたくもないのに「死にたい、死にたい」とただ繰り返し繰り返し言葉にすることによって必ず自殺する羽目に陥る。嘘だと思う方も試しにやってみるなどということは厳に慎んでいただきたい。

その真逆のことを言いたいのですが、つまり、言葉にはチカラがあるので、いい言葉を吐くことがほんとうに重要だと思います。
愚痴、悪口、陰口、泣き言、不平不満... 等 いい言葉ではないようです。

つらつら考えるに、すべては叡智だと思うわけです。知識として物事を識っているのではなく、本質を見極める明晰な頭脳と瑞々しい感性でしょうか。

あとは、知識をつけるという事ではないのですが、Aさんは知っている事柄だが、BさんもCさんもDさんも知らないということは、往々にしてあります。
事柄の価値判断は自分が為すわけですが、その事柄自体をまったく知らないというのは、平等ではない。

まだそこかしこに履歴書やパスポート用の撮影ボックスがありますが、今はもうスマホで撮ってコンビニで安くプリントするというのが、当たり前みたいですが、未だになくならないところをみると、それなりに需要はあるということでしょう。
さっきもカーテンを閉め切って撮影してる女性の方を見ましたが、たぶんスマホで撮るアプリがあることを知らないからですね。

こんな風にある人たちにとっては常識なのに、別なある人たちにとっては、初耳だということは、枚挙に暇ないことだと思います。

ダラダラと書いてしまいましたが、結局のところ何が言いたいのかというと、物事を認識するにも価値判断の基準を定めるにも、すべては叡智が必要だということ。
そして、その叡智は本を読むといったことでは磨けない。つまり、知識ではないし、むしろ既存の常識・知識が邪魔をする。
未知であるもの、或いは変化と対峙した時、常にフレキシブルに対応できる柔軟な感性が大切。
そして、なるべくネガティブな発言はしない。その言葉で自分自身がやられてしまうから。
そんなあたりまえの事でしたw


最後に。
私たちの生きている間には、たぶん間に合わないかもしれませんが、これまでの絶対の常識がいとも容易く覆される日は、必ずやって来ます。

#spiritual #人生

ワオ!と言っているユーザー

世界は表象か?

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この世界は、投影の世界であり、ほんとうのものは見えないようになっている。それはなぜか? 現象の因果関係がバレないようになっているのはなぜだろうか。


確かに世界の認識は人それぞれ異なる顔を持つように個体差があり、つまり、76億個分の世界が存在している。

ヒトが世界を認識した時点で既に世界は表象と言い得る。だから世界は認識によりパラダイスになったり、ヘルになったりする。捉え方ひとつなのだ。

「世界に属するすべてのものはただ主観に対して存在するにすぎない。世界は表象である」

というショーペンハウエルに期待していたのだが、彼が知り得たのはそこまでらしい。

よくは知らないが、彼がウパニシャッド哲学的なものに傾倒していったのは、何とも掴みようがなく如何ともしがたい人生に苦悩していたからだろう。それゆえに、この世界など実在するものではなく、単に私という主観のなせるワザに過ぎないのだという、いわば諦念に安寧を見出したのだと思っている。


ただ彼は、
「世界は私の表象 Vorstellung である」
と言うばかりで、最も重要であろう、その次を教えてはくれない。

教えたくも、知り得たのはそこまでなのだから、教えようもない。つまり、彼の到達した至高の概念は、
「世界は私の表象 Vorstellung である」
であり、即ちそれが人生に苦悩する人類のために彼が勝ち得た解答なのだ。


平たく言えば、思うようにいかない、まったく手に負えないこの人生という厄介なものは、実は私の脳内で起こっているドラマに過ぎない。ただし、その映画は、スクリーンに映し出された平面的なただの映像ではなく、その世界に手で触れることができるし、臭いがし、音が聞こえ、味がして、暑かったり、寒かったり、少しエロかったり、エモかったり、あたかも実在するが如くに、澄み渡る湖面に指を挿し入れた時のように、干渉すれば運動が起こってさまざまな関係性を生み出し、他の個性との出会いの中でがっかりしたり、うれしかったり、辛かったり、無性に腹が立ったり、恋しかったり、わけもわからず涙が溢れてきたりする。

つまり、すべては脳がそういった実在する事物とそれらとの双方向性の運動を編み出しているだけであり、世界のすべてはあたかも実在し現前するかのように見えるが、実のところ脳内で上映されている「私」が主人公の立体的な、ただの映画にすぎない。

そういうシステムだかプログラミングらしい。
ただしかし、そのシナリオは「私」が主人公であるにもかかわらず、「私」が書き下ろしたものではなく、なぜかまったく思い通りに話は進まない。

いったい「私」が主人公のこの物語のシナリオを書いたヤツは、どこのどいつなのか? 皆目見当もつかない。

真理の探究が哲学の仕事だろうが、このように「世界は私の表象 Vorstellung である」としても、人類の苦悩は1ミリも減りはしない。


たしかに、「心頭滅却すれば火もまた涼し」というのもひとつのやり方かもしれない。
しかし、そんなことは誤魔化しだと思う。自己欺瞞もいいところではないか?

即ち、世界が主観のなせるワザとしても、So What!!
だから、どうした? である。
問題はそこからなのだ。
人類ひとりひとりが、幸せになれる方法などないのか?

この世界のすべての人が幸せになりたいと希求している。なんぴとたりとも幸福になりたいと乞い願わぬ者などいない。

だが、カネというカミは、物質的な豊かさしか我々に与えてはくれない。
一方、世界が表象だとして、たとえそれにより、ネガティブな諦念としての悟りの境地に達しようが、喉の渇きや、空きっ腹を満たすことを「諦める」ことによって諦めることなど到底できない。


真理に近づかんとして、婆羅門行者のダルマのように面壁九年をやることは、確かに真理に触れる近道かもしれないが、毎日の生活に追われている現代人にはとても無理な話だ。

もっと新しい思想の持ち主がたくさん現われてこなければならない。それは、膨大な量の難解なテクストを読み込まなければ理解できないような、思想や哲学などといった小難しいものではなく、また諦めることでもない。真理はごくごくシンプルなものだ。
幸せになるための人生の虎の巻、或いは幸せは、あなたのすぐそばにある。

そして、その答えのひとつには、ショーペンハウエルの唱えた
「世界は私の表象 Vorstellung である」にヒントがある。
前述したが、この世界を地獄にするのも天国にするのも、すべてはあなたの主観にかかっている。
それは、自己欺瞞などではない。この世は地獄だと思えば、地獄となり、天国だと思えば天国となる、要はあなたの捉え方次第なのだ。

さらに言うと、
「世界は私の表象 Vorstellung である」だけではなく、その表象と私は、「私の生み出した主観による表象」という私から表象への一方通行の運動ではなく双方で干渉しあっているインタラクティブな関係なのだ。

大切なことなので、もう一度w

幸せになるための人生の虎の巻、或いは幸せは、あなたのすぐそばにある。

あなたを苦しめているのは、ほかならぬ、あなた自身ではありませんか?
#spiritual #人生

ワオ!と言っているユーザー

壁抜け

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ナツメに声を掛けられたのは、ちょうどおれが壁抜けの練習をしている時だった。

ナツメとは今は廃墟と化しているあのMixiで知り合った。その時彼女は薬学系大学の講師をしていたが、1年ほどで辞めてカメラマンへと華麗な転身を遂げたという話をmixiの幽霊会員になる前に聞いた。だがむろん食えるわけもなく、今はタウン誌のしがない記者兼カメラマンをやっているらしい。俺は、オフ会で彼女と一度だけ会ったことがあった。

昼下がりのオフィス街。薄暗がりのビルの谷間での話だ。
ナツメは、久しぶりとにこやかに手を振って近づいてきた。
「で、こんなとこで何やってんの?」
「あー。そのう、実は信じてもらえないだろうけれど、壁抜けの練習してんだよ」
「なにそれ? 前からアホだと思ってたけど、さらに磨きがかかったわけか」
「ま、そういうなよ。マジなんだから」
「でもなんで? あ、わかった!どうせ女風呂とか覗くつもりでしょ」
「失礼だな、なんちゅうこというの? さては覗かれたい願望でもあるな、ナツメさんよ?」
「アホ。じゃ、ほら見ててあげるから、早くやって見せないさいよ」
「お、おう!」
とは返したものの、いっかなうまくいかない。ただ、壁に向かって相撲でいうところの鉄砲をしているだけの図。
ナツメは、不意に腕を組んだ手を解き「わかった! アキラくん真剣さが足りないんだよ。絶対そう。じゃさ、あたし撮るよ。Youtubeにあげるから!」
「マジ?」
「はいはい。じゃ、スタンバイして。あ、てかさ、それでもきっと真剣さがまだまだ足りないと思うんだよね。そうだ!アキラくん、反対側の壁から思い切り助走つけて壁に突撃して!」
「あ、ナツメさん、許してください」
「はいはい。男だったらしのごの言わない。やれよ?」
で、面子もたたないので、やったはいいけど、案の定、壁にただ激突した蝿みたいな馬鹿な男が録画されただけとなったのは言うまでもない。

「あーあ。あたし少しは信じたい気持ちになってたのになぁ」
「すまん」
「やっぱあれじゃない? 心底信じてないんだよ、アキラくん」
「いや、頭ではできると思ってんだけどさ、問題はやっぱ身体だな」
「そんなの当たり前でしょ。みんな壁くらい簡単に抜けられるって思って、、、ないね?」
「な? そうだろ? 壁抜けられるなんて誰も思うわけないし、だからやろうともしないんだよ」
「だから? 偉いっていいたいわけ?」
「いや、そうじゃなくて。まずはできると思わない限りできるものもできないって話だよ」

「わかった。じゃ、今度はあたしがやってみる! アキラくん撮影してよ」
「えー! マジかよ?」
「はい、カメラまわして」
ナツメは、そう言うや目をつむり何やら精神統一すると、軽く息を吐き、助走をつけて壁に突っ込んでいった。
そして。壁にぶち当たるその刹那、ナツメの姿は突如として消えた。まるで、壁の中に吸い込まれてしまったかのように。
茫然として、iphoneのビデオのストップを押すのを忘れていた。
やがて、明るい通りの方から、ナツメのシルエットが歩いてきた。
「やったね!」
満面の笑みを浮かべたナツメは、そういってピースした。
#spiritual #小説

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