『府内城』大分市の歴史を訪ねて(其の十三)
2月
21日
【大分市の歴史を訪ねて(其の十三)】
『府内城(ふないじょう)』 (大分市荷揚町)
大友宗麟、石田三成、軍師・竹中半兵衛などと関係がある城です!
★府内城は大分市街地中心にあり別名、大分城、荷揚城、白雉城とも呼ばれ、日本100名城に選ばれています。
※白雉(はくち)は白い雉(キジ)の意味です。
★府内城は、かつてこの地を治めていた大友氏の居館に安土桃山時代後期、12万石で入封した
石田三成の妹婿であった福原直高が、大分川の河港「荷落ち」の地に築城を開始1597年(慶長2)し、
2年後には望楼型の四重天守を持つ城の大半を完成させたといわれる。
★関ヶ原の戦い後に3万5千石で入封し城主となった名軍師・竹中重治(半兵衛)の従弟にあたる
竹中重利が当初の天守を新式の層塔型へと改めるなどの大改修を行ない、
1607年(慶長12)、北側は海、東側は大分川河口の湿地帯を天然の要害として
本丸、二の丸、山里丸、北の丸が梯郭式に配置された城を完成させた。
★その後1743年(保3)城下からの出火で天守ほか多くの建物が焼失し、以降天守は再建されなかった。
★江戸時代には府内藩2万1000石の藩庁が置かれていたが、明治初期に本丸・東丸・西丸の
建造物以外は破却され、堀の一部が埋め立てられた。明治維新後も残っていた着到櫓や大手門なども
第二次世界大戦の大分空襲で失われ、人質櫓・宗門櫓を残すのみとなっていたが、
1965年(昭和40)に大手門と4基の櫓が復元され、翌年西丸と山里丸を結ぶ廊下櫓が復元された。
※人質櫓(二重櫓)、西丸宗門櫓(平櫓)、石垣、土塀、堀(大分県史跡に指定)。
それ以外の部分は、大分市の史跡に指定されている。
※3棟の二重櫓と大手門、土塀、廊下橋が復元され、三の丸跡には、大分県庁・大分市役所などがある。http://www.city.oita.oita.jp/…/shitebunk…/1352943146749.html