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気動車の発展と開発 一般用気動車と通勤用気動車 第9話

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出発式 奈良駅 昭和36年12... 出発式 奈良駅 昭和36年12月10日
気動車の発展と開発 一般用気動...
今回から、新しい取り組みと思ったのですが、新年から新しい話題にするのが良いかと思いましたのでもうしばらく続けさせていただきます。
液体式気動車の系譜
戦後の液体式気動車(昭和35年頃までは液圧式)は、キハ44500(称号改正後はキハ15)からスタートしました。
液体式気動車の歴史を簡単に振り返ってみますと、上記のキハ44500試作車を経て、昭和29年から量産型と言える、キハ45000(後のキハ17)が製造され、派生して2エンジン車仕様のキハ44600(後のキハ50試作車を経て)キハ44700(後のキハ51)が誕生、その後、準急用としてキハ44800(後のキハ55)が誕生します。
キハ55が誕生して、初めて、優等列車用気動車が誕生し、キハ17は、一般気動車という分類になりました。
一般型気動車の誕生
その後昭和32年にキハ55の成果を活かして、キハ17のボディサイズを一般客車並みに拡張したキハ25(両運転台はキハ20、北海道仕様はキハ20の北海道仕様で、窓は二重になりましたものの、後に量産されるキハ22のようにデッキがなく極めて不評でした)形が量産されることになりました。
初期のキハ20系列は、キハ55の初期型と同様、窓上部がHゴムの明かり取り窓としたタイプでしたが、翌昭和33年(1958)の増備車からは、2段上昇式窓に変更されました。
なお、初期のキハ20は、キハ17と同じエンジン・並びに台車でした、なおキハ20の初期車もその後台車をDT22A・TR51(国鉄形気動車の標準台車)に交換されています。
また、蛍光灯がまだ発展途上の時期であり、本格的な蛍光灯を採用したのは、昭和38年増備車からであり、それまではキハ17と同様の白熱灯でしたが、その後サークライン式の蛍光灯に変更されています。
キハ20形は昭和41年まで製造されることになり、国鉄における標準型の普通気動車列車として最近まで活躍したのはご存じの通りです。その後はキハ45→キハ47と変遷していきました。
なお、直噴エンジンを搭載したキハ37(DMF13)系エンジンへと続きますが、昭和40年代以降の気動車発展史を語らせていただきます。
通勤形気動車の誕生の背景
なお、今回は一般気動車の中では異色のキハ35・36形気動車のお話をさせていただこうと思います。
キハ35系気動車は、関西線は東海道本線比べて近代化が遅れており、昭和32年当時でも一部に旅客列車が気動車化され、準急「かすが」がキハ51で運転されていた他はほとんどが蒸気機関車牽引による客車列車でした。
特に、昭和34年の監査委員会で関西線の近代化が遅れていることが指摘され、それを受けて「湊町~奈良間」の線増と気動車化による抜本的な改善を図ることとなり、新たな通勤用気動車を開発することになり、昭和36年にキハ35形が誕生しました。
キハ35形の特徴
この車両は、気動車初の通勤形として位置づけられ車内はロングシートが設けられていましたが、電車と異なり3ドアでステップ付きという車両と相成りました。
特に車体中央部はエンジンが搭載されており、ステップを戸袋窓付きで作ると車体強度上問題があるため、ドアは外吊り式とされましたが、プラグドアのように閉ドア時に車体とドアが密着すればよい良いのですが、そのような構造ではなく簡易な構造であったため、戸袋を設けることで強度が不足することは避けられた反面、隙間風対策は十分とはいえない車両となりました。
また、車体の外側をドアがスライドするため、ドアすぐ隣の窓は下段が特にほとんど開かないようになっており、腕などをだして、ドアに挟まれる事故が起こらないように配慮されていました。

車内は、3ドアロングシートですが、運転台の反対側車端にはトイレが設けられ【キハ36はトイレなし)、トイレ横のシートは枕木方向に設けられていました。
これはトイレを開けたときに、乗客と直接目が合わないようにする配慮からでした。
また、電車は通勤形電車は禁煙でしたが、気動車の場合さほど混雑もしないと言うこともあって、出入り口付近の柱に灰皿が設けられており、車内で喫煙可能でした。

さらに、キハ20形一般気動車と異なり、キハ35はキハ80系やキハ28・58と同じ横型エンジンを積んでいたことも特色でした。
なお、キハ35が配置されたことで、港町~奈良間は頻発運転が行われることとなりましたが、それでも近鉄が優位であることに変わりはなく、関西線の湊町から奈良間の電化は昭和48(1973)年まで待たねばなりませんでした。


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気動車の発展と開発 特急用気動車の開発 第8話

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交通技術昭和35年11月号から... 交通技術昭和35年11月号から引用
アジア鉄道首脳者会議 がきっかけで始まった特急気動車開発
特急気動車の開発は、昭和34年から開発がスタートしました。
昭和31年キハ55により、2エンジン車体と軽量車体により高速の優等列車の可能性が高まったことから、以前から構想はあったようです。当時、日本国有鉄道総裁であった十河信二の提唱で始まった、アジア鉄道首脳者会議 (ARC = Asian Railways Conference)、(昭和33(1958)年に第1回が開催)が再び昭和35年に開催することが決定したこともあり、客車特急はつかり号を気動車に置き換えることで接客サービスの向上を図ることが正式に決定されたのでした。
エンジンは従来のエンジンを設計変更して対応
エンジンは、実績があるDMH17エンジンを2個使うこととされましたが、従来の縦型だと室内にエンジン点検用の蓋を設けねばならず、防音などで問題があると言うことで、横型に設計変更しれたDMH17Hエンジンが新たに開発されたのですが、単純にエンジンを縦から横にしたというだけで上手くいくはずがなく、従来の垂直シリンダーに比べ潤滑不均一など多くの弱点を持っていた他、排気系の過熱による発火事故が発生したのですが、それはもう少し先の話。
キハ81の製造が急がれた理由
キハ81は設計がスタートしたのが昭和34年秋であり落成はほぼ1年後の9月15日に第1編成が落成しています。
これほど急がせた理由は昭和35年に再びARC第2回会議が再び東京で開催されることになったからでした。
このときはキハ81意外にも157系(クロ157)も展示されたようです。
内外に、日本国有鉄道の現在を知ってもらうことで外国への車両輸出の目的もあったわけです。
当時の鉄道資料から
そこで、今回は、鉄道技術と言う部内誌に掲載された記事を参考に、キハ81形を中心としたはつかり形の特徴を記したいと思います。
まず最初に先頭車について語らせていただきます。
こだま形に似せたボンネットですが151系電車と比べると運転台が少し低くなっています、これには理由がありました。
当時は東北本線でも単線区間が多く、タブレットの交換を行いながら走行していました。
そこで、タブレットの交換が容易に行えるように、また、信号機が見やすいように運転台を少し低くして【階段の段数を減らした】いました。
また、電源用として発電エンジンを前頭部(ボンネット内)に設置していました。
内装等は若干異なっていたようで、こだま【151系】の内装がメラミン化粧板でしたが、キハ81では、ポリエステル化粧板を使用したと記録されています。
また、151系電車と異なり、浮き床構造にしたと言う記述があるのですが、これは誤記なのか否かを今後資料を探して見たいと思いますので、キハ81に採用された浮き床構造の話は後日にしたいと思いますが。初期の151系は浮き床構造でなかったのかもしれません。

なお、エンジンは既に 書かせていただきましたが、DMH17H系エンジンで先頭車は1台、食堂車は発電エンジンのみ、中間車は2エンジン車とした仕様で、燃料タンクは走行用に550リットル、発電用880リットルの容量があり、寒冷地対策として、機関予熱装置や停泊中の冷却水凍結防止などの措置が取れるように配慮されていました。

新製時の車輪直径860 mmで最高速度110 km/h、交換直前の車輪直径、最小780 mmの時で100 km/hを少し超える程度とされました。キハ80系の最高速度が100 km/hと記述されているのは、最小時の速度に合わせたものであることが理解できると思います。

なお、運転台に設けられた赤色の装置は非常点滅灯で、車両無線等がない時代の防護措置として緊急停車時に点滅させるもので、キハ82系にもこの装置は継承されました。
これも、気動車特急独特の装備として特筆されるといえましょう。

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気動車の発展と開発 高出力気動車の試作 第7話

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キハ60 試作車 鉄道技術昭和... キハ60 試作車 鉄道技術昭和35年3月号から引用
今回は、キハ55の後に試作された高出力気動車、キハ60のお話をさせていただきます。
昭和31年、キハ55形気動車が試作されましたが、昭和34年には、DD13形機関車に使われているエンジン(500 PS)を横型にした上で出力を低下させ400 PSとした気動車が3両試作されました。
形式はキハ60とキロ60で、昭和35年1月29日に落成しています。
ちなみに、キハ60-1は東急車輛製造、2は帝國車輛工業で製造されています。
また、キロ60は新潟鉄工が製作に携わりました。
なお、製造後すぐに
外観は量産型のキハ55に準じた軽量車体であり、浮き床構造を採用したほか、キロ60は騒音防止の観点から固定窓になっていました。
結論から言いますと、大排気量エンジンと直結2段変速機をスムーズかつ緻密に同調させることができず、乗り心地はかなり悪かったといわれています。

エンジンの振動や騒音が大きくて実用にならず、エンジンを換装してキハ55に編入されることになりますが、これはもう少し先の話になります。

ただ、エンジン以外で採用された技術はその後の車両のに反映されることになりました。
その一つが、ディスクブレーキで、キハ60で使用されたディスクブレーキはその後80系気動車で採用されました。
1台車2軸に出力が伝わる方式は、その後キハ65の開発の際に活かされることになりました。
そういった意味では、キハ60で開発された技術の一部は十分活かされたといえます。

弊ブログ、こちらも併せてご覧ください。
挫折した試作車・・・キハ60
http://blackcatk.exblog.jp/237662473/

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気動車の発展と開発 キハ55系気動車の誕生 第6話

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キハ55側面図 交友社 回想の... キハ55側面図 交友社 回想の旅客車(下)から引用 妻面にカーブが設けられた車体 ... 妻面にカーブが設けられた車体 交友社 回想の旅客車(下)から引用
少し間が開いてしまいました。
本日も、国鉄時代の内燃気動車の発達史をアップさせていただきます。
今回は、キハ55のお話をさせていただこうと思います。

国鉄では、戦後石油事情が好転したことから、戦後はディーゼル機関搭載の車両が試作され、電気式キハ44000に始まる戦後気動車が幕を開けたことは既に書きましたが、DMH17系エンジンの出力は150 PSその後はエンジンに予燃焼室設けて160 PS、その後180 PSまで引き上げられました、しかし、勾配線区では力不足を露呈してしまい。25‰勾配がある線区には配置しない等の措置が講じられていました。
しかし、気動車の配備要望は強く、勾配線区では2エンジンの方針が決定され、試作車としてキハ50が製作されました。
車体長は、22mの長さとなり、これでは分岐器の保安装置(轍叉桿(Detector Bar)に問題があるとして、その後車体長を20.6mに抑えたキハ51が開発されます、ただし、ここまでは車体幅は2.6mの小さな車体に甘んじるしかありませんでした。
昭和30年に入ると、10系客車の手法を活かして、気動車の軽量化と居住性の改善を図ることが計画されました。
モノコック構造を採用しながら車体幅や車体長を拡大した準急用気動車は、車体が大きくなっても、重量は従来のキハ51とほぼ変わらなかったそうで。軽量客車の構造を活かして、開発された気動車がキハ55でした。

キハ55は東武が1700系(後の1720系DRCとは異なる)を投入したことに対する対抗措置という側面もありました。
車体幅は、2.9mまで拡幅され、車体長は電車よりも長い21.3mとなりました。
長さは、その後国鉄気動車の標準長となり、JR移行後もそのまま引き継がれています。
初期のキハ55は車端で車両の角が干渉する恐れがあるとして妻板の両端がカーブしていましたが、その後に製造される車両では普通に切妻とされています。
また、デッキは設置されたものの、床上にトイレ用の水タンクを設置したため、キハ58などに見られる本格的な洗面所は設けられていませんでした。
その辺は、153系電車と比べると設備面で劣ると言わざるを得ませんでした。
なお、キハ28/58で初めて気動車も、電車並みの接客設備を獲得しましたが、キロ28の照明カバーが省略されるなど、電車と比べると本質的で無い部分で、コストダウンが図られていました。
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気動車の発展と開発 液体式気動車の苦悩2 第5話

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気動車では最大級の長さを誇った... 気動車では最大級の長さを誇ったキハ50
軽量化された。キハ45000 概要
液体式気動車として、キハ44500形に試作車をベースにして、前面を貫通構造にしたキハ45000形が、昭和28年10月上旬から随時完成したと記録が残っています。
当初の車両は客車をそのまま気動車に置き換えたような配置でドアのすぐ横まで4人ボックスが並ぶ全クロスシートでした。
非力なエンジンをカバーするために、車体幅はキハ44000に準じた大きさで、車体幅は2600 mmにするなど従来に客車などと比べると一回り小さな車体となっていました。
また、車内も軽量化されており、ひじ掛けも省略し、座席の高さも低くするなど徹底的な軽量化がなされました、ただし、台車はその設計に難があり特にビビり振動が多くて乗り心地はよくありませんでした。
ちなみに、10系気動車に使われたDT19(動力伝達用)とTR49(付随車)の重量はいずれも4.5t、4.4tであり、同時期に使われていた客車の6t(TR50と思われる)と比べても軽い台車が使われていました。
これが原因で、車体にアコモデーション改良もままならなかったと言われています。
私も子供の頃何度か乗りましたが、あまり乗り心地は良いとは言えず、低い座席と相まって、キハ20とキハ17が連結されていた場合は、20は満員でも17は少ないということで、乗客もみなよく知っていました。
全国から配置要望があったキハ17
昭和29年5月の交通技術を参照しますと、昭和28年度末までに220両が落成し全国で気動車の数は458両となり、房総東線、奈良・桜井線・越後線・筑肥線など31線の各線に投入したと記録されています。
具体的な線区等は今後調べてみたいと思いますが、選定にあたっては。
1)機関車と客車を全面的に置き換えできる線区
2)蒸気列車を一部置き換えて運転経費の節減を出来る線区
3)液体式気動車として、キハ44500形に試作車をベースにして、前面を貫通構造にしたキハ
4)列車増発を必要とし、気動車によることが最も有利な線区
を基準にされたと言いますが、地方管理局からは、配置の要望が多かったのですが、極端に管理局ごとに偏ると、気動車不配置地区との格差は出るので、積極的に気動車を投入したくないと言う意見もあったことは事実です。
キハ44500(キハ15)とキハ45000(キハ17)の相違を中心として
キハ44500は外観が湘南形であり、ドアも3か所(両端並びに真ん中)であり、運転台は全室方式でした。
キハ45000(キハ17)は半室運転台で、私の記憶では、運転だの仕切りも貧弱なものでバスのようなイメージであり、横から運転士の操作を覗ける仕様でした。
後ろも壁など無かったように記憶しています。
キハ50の試作とその背景
キハ17の問題点はエンジン出力にあり、実は25‰以上の勾配では入線できず、選定に際しては実はそうした問題点をクリアしなくてはなりませんでした。
そこで、DMH17エンジンを2台積んだキハ44600(後のキハ50)が誕生しました。
この車両は、期間を2台積むために車体長を22mとしてボギー中心距離(ボギー車の台車間の距離)も15.7mとしたのですが、これが後に転轍機の轍叉桿(Detector Bar)と呼ばれる、誤転換を防止する保安装置を跨いでしまう危険性があったため、当初配置された関西線などでは轍叉桿の改修を行ったそうで運転線区が限定されることとなりました。
その後、改良型として、キハ44700(その後キハ51)が誕生しました。
こちらは、車体長を20.6mに短縮した車両で、キハ50で問題となった、轍叉桿の問題はクリアされました。
キハ51は結局20両ほど製造されるのですが、その後は更なる優等列車の開発ということでキハ55が試作され、さらに急行型気動車・特急形気動車と発展していくことになります。

続きます
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気動車の発展と開発 液体式気動車の苦悩 第4話

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液体式気動車 キハ15を経て量... 液体式気動車 キハ15を経て量産化されたキハ17系気動車
本日は、液体式気動車の発展と言うことで綴らせていただこうと思います。
現在は電車の部品と共用する目的から、鉄道車両では電気式を選択する例も増えていますが、国鉄時代はDMH17エンジンに液体変速機の組み合わせが圧倒的で、昭和43年から量産された181系や同エンジンを積んだ、キハ65等を除けば非電化区間の主役としてそれこそ日本全国走っていました。
日本で液体式が発展した背景には、欧米と比べると貧弱な線路にもその原因はあったと言われています。DMH17系エンジンは、戦前のGMH17(ガソリンエンジン)をディーゼルエンジンに設計変更したものが基本で、液体変速機共々戦前に設計されたもので初期のDMH17系エンジンは150 PSその後160 PS、過給機を付けて180 PSまで引き上げましたが、これ以上は難しかったようです。
液体式気動車の発展
さて、ここで今一度液体式の発展を振り返ってみたいと思います。
キハ44500 初めての液体式気動車でキハ44000と同じ3ドア湘南形 後にキハ15形
キハ45000 後の17形と呼ばれた気動車
さらに、キハ17をベースに2エンジン車としてキハ50が試作されました。
キハ50は、車体長22mは長すぎてポイントで支障が出ることが判明したため、使用箇所は限られてしまいました。
その後車長を切り詰めて21.5mに抑えたキハ51が量産され、勾配線区での活躍も始まることとなりました。
その後、キハ17の後継としてキハ20系が製造されるとともに、昭和31年には準急用ディーゼル気動車として、キハ55が誕生することになりました。
と続くことになります。
液体式気動車誕生(キハ44500形)
キハ44500形は、昭和28年3月に4両が試作車として誕生するのですが、昭和43年の鉄道ピクトリアルでは昭和27年10月に落成したと言う記述もあるのですが、交通技術その他複数の資料では、昭和28年3月日本車両で製造されたとなっていますので、昭和28年落成とします。
液体式気動車成功までの道のり
また、液体式のこうした成功に至るまでには数々の苦労があったようで、昭和43年鉄道ピクトリアル7月号のk時を参照しますと、戦後の燃料事情が好転したことから、昭和26年に
鷹取工場に、神鋼造機製の液体変速機が保管されているものが見つかったのでこれをメーカーに送って整備した後、5月からエンジンと液体変速機を組み合わせた状態で2か月程試験を行ったところ、所定の成績を得られたので、名古屋工場で「機械式気動車を液体式に改造」キハ42500形42503(後のキハ07)に取り付けて、走行試験を行うことになりました。
しかし、十分な加速力も得られず、実用化は不可かと思われたとき、亀山付近の勾配で白煙をあげて停止してしまったそうです。
液体変速機が焼き付きを起こしていたとのことで、原因は変速機に十分な油が充填されていなかったために、十分か加速が得られなかったうえに焼き付きを起こした原因であることが判ったそうです。
再び、神鋼造機株式会社で修理をしたうえで、同年11月2日に再び名古屋~亀山間で現車試験を行い好成績を得ました。
勾配を登れない気動車
その後、キハ42503は大宮配置となり川越線で試用されることになりました。
使用に先立ち、御殿場線で試運転を行ったところ、駿河小山駅の25‰勾配での曲線でクラッチが滑り運行不能となり試験員全員で後押ししたという情けない結果になったそうで、帰路は蒸気機関車にけん引されたと記録されています。
原因を調査したところ、クラッチ版が弱いことが判明し、改造して強化するなどして、同年12月末には安心して運用を任せられるようになったと記録されています。
ただし、160PSではやはり勾配線区では非力であることは否めず、その後2エンジンのキハ50が試作されることとなるのは既に書かせていただいた通りです。
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気動車の発展と開発 電気式気動車試作のお話 第3話

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戦前の気動車キハ43000 画... 戦前の気動車キハ43000 画像 Wikipedia 戦後試作された電気式気動車 キ... 戦後試作された電気式気動車 キハ44000(第1次試作車)国鉄線から引用 キハ44000~キハ44500... キハ44000~キハ44500 側面図 交通技術から引用
本日は、戦後の電気式気動車のお話をさせていただこうと思います。
電気式気動車自体は、戦前キハ43000形式が試作されましたが、戦争の激化により開発は中止、戦後は中間付随車が電車の付随車として飯田線で使われたそうです。
さて、今回は戦後試作された電気式気動車、キハ44000のお話を中心にさせていただきます。
開発が再開されたディーゼル気動車
戦後しばらくの間は、石油も未だ自由に使うことができず、かつ列車増発の要請も強かったことから、千葉並びに新潟では天然ガスが噴出することから。天然ガスを動力源とする天然ガス動車が改造で使用されましたが、石油も比較的安価に流通するようになったこと、特に軽油は比較的安く手に入ることから戦前から試作されていたディーゼル機関を使った気動車を使う気運が高まってきました。
軽油はガソリンと比べて引火の危険性が少なく、ガソリンの1/4の価格で調達できるとのことで注目されました。
試作気動車、キハ44000誕生
そこで、昭和27年8月、2両編成各2の4両が製造(日車及び汽車が製造)され木更津機関支区(当時の名称)に配置され。房総線で活躍しました。
その後、好評であったため追加で11両が製造された他、九州向けには、仕様を一部変更し、乗降口が両端2か所のキハ44100、中間車のキハ44200(後液体式改造後はキハ19)が合計15両製造され、こちらは、北九州地区で活躍しています。
比較として試作された液体式気動車 キハ44500
更に、これ以外に比較のために液体式気動車の試作として、キハ43000形と同じ車体としたキハ44500形4両を試作車として製造、川越線などで試用されたと記録が残っています。
最終的に液体式を国鉄としては選択
以下に、液体式(当時の資料では液圧式)は電気式と比較した場合、電気式の方はエンジンを常に最適な回転数を保っておけ、速度制御も容易ですが車体重量が大きくなるほか液体式と比較すると変換効率が悪い(液体式の場合高速域ではエンジン直結となるため結果的に効率は高くなる)こと 等の理由から、その後の国鉄形ディーゼル機関車は気動車で増備されることとなり、量産型としてキハ45000(後のキハ17)が誕生することになるのですが、その辺のお話は明日以降にさせていただきます。

併せてご覧くださいませ。
気動車発達史 5 戦後の電気式気動車
https://blackcatk.exblog.jp/238260409/
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気動車の発展と開発 天然ガス動車のお話 第2話

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キハ42000の一部は、天然ガ... キハ42000の一部は、天然ガス動車に改造されたが、その後軽油の供給が増えたことで、天然ガス動車は3年程度で廃止され、ディーゼル機関の気動車に再改造されました。
戦後の仇花、天然ガス動車
今回は、戦後一時的に使われた天然ガス動車のお話をさせていただこうと思います。
戦後の一時期、新潟県と千葉県で天然ガスが採取できたことから。
ガソリン不足で休車となっていたキハ42000(後のキハ07)を改造して天然ガスで走れるようにした車両が存在したそうです。
天然ガスが噴出する千葉では鉄道の救世主に
そこで、当時の技術資料などを参考にしてみますと、昭和21年頃から天然ガス動車を活用してはどうかという意見があったそうです。
天然ガス動車の技術は昭和10年頃には完成していたそうで、小湊鉄道は昭和16年に内燃気動車(ガソリン車)の天然ガス気動車化の改造を行い戦時中も気動車を運転したと言う記録もあります。
当時の総武線は車両の老朽化が著しく、輸送力が慢性的に不足していたこともあり、千葉区におけるガスカーの導入は待望されたものでした。
天然ガス動車の問題点
当時の資料などを参考に調べてみますと。
天然ガス動車の運転開始は概ね昭和23年頃であり、昭和27年にはDMH17エンジンに換装されて消滅しています。
天然ガス動車は、ガソリンエンジンを使う気動車と比べれば割安でしたが、
1)出力は、ガソリン機関と比べて、85%程度の出力
2)床下にボンベを搭載しなくてはならず、重量面でも不利
といった問題点がありました。
当時の石油事情に振り回された、天然ガス動車
また、天然ガス動車は、ガソリンエンジンの気動車と比べても割高という問題もありましたが、ディーゼルエンジンの軽油+天然ガスで走らせる、混合型にしますと、ガソリン車よりも安く出来るようになったそうで、本格的な天然ガス動車の発展が期待されたのですが、軽油の供給が安定したこともあり結局、天然ガス動車はその使命を終えて消えて行きました。

なお、天然ガス動車では、キハ41000(後のキハ04)では、ボンベを8本、キハ42000(後のキハ07))では、12本~16本を床下に搭載していたそうで、ボンベ1本あたり10㎞~12㎞でしたので、キハ42000で、120 km~144 km、空ボンベを一本一本取り替える方式でしたが、その後は親ボンベから充填する方式に、昭和25年時点ではガス会社に引き込み栓を、設けて直接ガス会社で充てんする方式に変更したと記述があります。
その後は、
なお、ボンベ1本あたり10 km~12㎞程度しか走れず、120 km~144㎞程度であり、当初は終着駅でボンベを積み替える作業が伴っていたそうですが、その後はガス会社に直接引き込み線を伸ばして、直接ボンベに充填する方式に変更されたそうです。

下記の記事もご参照ください。
気動車発達史 4 天然ガス動車

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気動車の発展と開発  戦前の気動車のお話 第1話

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キハ07 九種鉄道記念館(画像... キハ07 九種鉄道記念館(画像 wikipedia)
西成線列車脱線火災事故(画像 ... 西成線列車脱線火災事故(画像 wikipedia)
1)戦前はガソリン動車、戦後はディーゼル動車
戦前の国鉄でも、実は気動車は運用されており、特に地方ローカル線などでは経営の合理化として使われる例がありました。
戦前の気動車としては、大宮の鉄道博物館に保存されている、キハ41000形(キハ04)やキハ07(キハ42500形)が存在しましたが、戦前はディーゼル機関車ではなく、ガソリンエンジンを搭載した気動車が一般的でした。
ディーゼル機関の開発は遅く、試作エンジンが、昭和11年に作られました。
試行錯誤の結果、予燃焼室付きのでエンジンが開発され一応の完成を見るのですが、戦争の激化により開発は中止されてしまいます。
この時試作されたエンジンがm戦後の気動車化発展の基礎をつくるDMH17ですが、その辺はもう少し後の話となります。
なお、昭和15年には西成線(現在の桜島線、安治川口駅)で駅員が列車通過中にポイントを切り替えたため車両が脱線転覆した事故がありました。
これについては、Wikipediaの西成線列車脱線火災事故に詳しく書かれていますので、詳細は省略しますが、概要は下記の通りです。
遅れていたダイヤを復旧させるために、信号掛が分岐器付近を通過中していた列車の位置を十分な確認をしないままポイントを切り替えたため、走行していた3両編成気動車の最後尾1両が、2対のレールにまたがったまま進行することとなり(泣き別れ)、同駅構内の島屋町踏切付近の構築物に衝突して脱線・転覆。何らかの火花などが、これまた運悪く破損していたガソリンタンクから漏れたガソリンに引火、火災が発生して189名が死亡、重軽傷者69名を出した事故です。→ 西成線列車脱線火災事故

2)戦後の一時期使われた天然ガス動車
3)10系気動車の誕生
続きます
以下は、本日の夜以降に書かせていただきます。
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2)戦後の一時期使われた天然ガス動車
3)10系気動車の誕生
続く

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国鉄VS東武 日光観光客争奪戦 第2話

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157系電車(画像 wikip... 157系電車(画像 wikipedia) 準急日光号運転開始当時の編成 ... 準急日光号運転開始当時の編成 Wikipedia参照
東武を震撼させた157系

157系の登場が、昭和34年、東武の1720系(DRC)の登場が昭和35年ですから、東武が157系の登場に危機感を持ったのは言うまでもありませんでした。
東武がどれ程危機感を持っていたかといいますと、昭和31年から製造していた1700系に代えて急遽新しい車両を投入したこと、更に従来車の1700系も、ボディを載せ代えて1720系と同じ仕様にしたことから伺えるとおもいます。

157系諸元

ここで、東武に1720系(DRC)を導入させる切っ掛けとなった157系について簡単に紹介させていただきます。
157系直流電車 4M2Tの6両編成   Mc+M'+T+Ts+M'+Mc
電車としては153系と同じモーター(MT46)ですが、勾配区間における抑速ブレーキとノッチ戻し機能が付加された構造で、準急電車として製造されていますが、当時の準急列車のレベルを遥かに超えたものでした。

157系電車の発展

日光号の他に、なすの号、中禅寺号があり、日光号が東京始発日光行きであったの対し、中禅寺号は、新宿発日光行きであり、なすの号は、上野から黒磯止まりとなっていました。
ただし、中禅寺号となすの号は季節列車として冬は11月21日から1月末までは運休となっており、運休期間中の間合いを利用して東京~大阪間に昭和34年には、「特急ひびき」として運転されました。
こだまと比べますと、ビュフェがありませんでしたが、2等車はリクライニング装備、3等も回転クロスシートであり、2等車のモケットが151系のモケットと異なりワインレッドのモケットであることや、冷房が付いていないことを除けば、特急列車と何ら遜色のない車両でした。
さらに、昭和36年4月1日からは、伊豆と日光の両観光地を直結する季節準急「湘南日光」が伊東~日光の間で運転されることとなりました。
この頃には、「ひびき」も2往復に増発される等、本来の日光船への直通から、東海道線にその活躍の場は移っていきました。
その後も、157系は日光線で使われるのですが、「中禅寺」・「なすの」については157系から165系に車両が置き換えられ、グレードアップどころかダウンしてしまいました。
この頃から、国鉄は東武に対して戦意を喪失したように受けられます。
結局、日光号だけが157系運転で残っていましたが。昭和44年4月25日の改正で、急行日光号も165系に置き換えられ。いよいよ日光への観光客輸送は東武に軍配があがることになりました。

東武の車両がJRに乗り入れる時代
時代は流れ、現在のように東武とJR東日本が乗入りするようになるとは夢にもおもいませんでした。

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国鉄VS東武 日光観光客争奪戦 第1話

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国鉄が最初に日光線に投入したキ... 国鉄が最初に日光線に投入したキハ55 157系電車の登場を受けて、急... 157系電車の登場を受けて、急きょ東武が投入した1720系
世界的観光地日光

現在でこそ、JR東との相互乗り入れが行われていますが、かつて国鉄時代は国鉄と東武双方が競争していました。
昭和31年、東武が1700系特急車と呼ばれるロマンスカーを導入、国鉄も負けじと同年10月10日から、準急用気動車として開発したキハ55を投入します。
160PSのエンジンを2基搭載した強力型とはいえ、東武の1700系と比べれば見劣りする車両であり。
決して有利な戦いとは言えませんでした。
その後、昭和34年には、日光線も電化されることとなり、東武と競争条件がほぼ同じとなりましたので、ここで積極策に出ることになります。

攻める国鉄と追われる東武

国鉄は日光線の電化工事を行い、電車列車並びに一部列車は客車に戻して機関車牽引とし、当時地方で要望の多かった気動車は地方線区に回す措置が取られたそうです。
観光輸送列車である「日光号」に関しては、キハ55に代えて、157系と呼ばれる特別準急電車が製作されました。

157系電車は、既に多くの鉄道雑誌などで紹介されているのでご存じの方も多いと思いますが、当時としては珍しく列車名によって始発駅が異なっていました。(東京起点で)
1)日光号  東京~日光
2)中禅寺号 新宿~日光
3)なすの号 上野~黒磯
となっていました。
当時から、新宿発の設定があったことも興味を持たされるところです。
157系電車の特徴は、準急電車とはいえ当時の特急とほぼ同じ設備を持っていたことであり、3等車(後の2等車)は電車特急こだまの3等車と同じ回転クロスシートであり、2等車(後の1等車)もリクライニング装備となっていました。
当初は冷房装置の搭載も計画されたそうですが、そうなると特急列車との格差が無くなってしまうと言うことで冷房装置取り付けは見送られたものの、準備工事が行われていました。
冷房を設けない代わりに窓は開閉式とされ、下降窓が設けられましたが、この下降窓の設備に不備があり結果的に車体寿命を縮めてしまったことも皆様よくご存じだと思います。
157系の登場で焦ったのは、東武の方でした。
今まで優位性が157系の登場で大きく崩れてしまったからです。

157系がDRCを誕生させた
157系の登場で焦ったのは、東武の方でしょう。
今まで増備されていた1700系の製造を打ち切り、マイナ^チェンジ版として1720系(DRC)が誕生するきっかけとなりました。
151系を意識しつつも、独自のデザインの車両でした、製造はナニワ工機(後のアルナ工機)が製造を行いました。
阪急の2000系以降に見られる、窓枠にアルミを巻く独特のスタイルを関東で見ることが出来ました。
また、当時の車両としては珍しく、4号車にはジュークボックスを備えたサロンカーを設けるなど、国鉄の157系をかなり意識した車両でした。
明日は、東武1720系登場以降の様子をアップします。

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新幹線建設と国鉄 第2話 新幹線計画概要と建設基準

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在来線と新幹線の車両限界比較 在来線と新幹線の車両限界比較 ヘビーコンパウンドカテナリ方式 ヘビーコンパウンドカテナリ方式
東海道新幹線は、十河総裁と島技師長が推進する形でスタートを切ることになりましたが。
車両限界等の建設基準等は、昭和36年4月から国鉄部内に設けられた、新幹線建設基準証左委員会で検討されました。

昭和36年8月には最終決定がなされ、その記事が「交通技術昭和36年10月号」にアップされていましたので、当時の記録を引用しながら簡単に解説させていただきます。

なお、一時期通勤輸送に山手線をオール2階建てにすればいいと言う発言があり、車両限界を無視したものだと物議をかもしたことがありますが、これは在来線の車両に場合新幹線と異なりレール面上3m(車内から見れば2m付近から大きくカーブを描く車両限界のためです、トンネルなどの構造物によって車両の大きさが制限を受ける例の一つと言えます。
新幹線の場合は、全く新規に作るものですから、自由に車両限界などを選択できました、その計画によりますと、貨物輸送を行うことを想定していたことから、コンテナ輸送以外にセミトレーラーをそのまま載せて貨物輸送できることを想定して積載限界を決めたため、であり、結果的に在来線と異なり矩形型の大きな車両限界を設定できたと言われています。
以下簡単に概要を記述させていただきます。

1)車両限界 車両高さ 4,500mm 車体幅 3,400㎜ ちなみに、在来線は、車両高さ 4,100mm 車体幅 3,000㎜です。
2)停車場及び列車長、旅客電車は、車両長25m(1車平均〉16両編成を基本とし、貨物は
4M6Tの単位編成を考え、必要により30両まで編成して運転する計画である。従って停車場内本線有効長は、この列車長に停止のための余裕を加えて500m以上、旅客電車のみの線路では450m以上とした。と書かれており、当時から16両編成の旅客運転が想定されていたことが伺えます。
3)電化方式については、国際標準電圧である25,O00Vとし。周波数については、東海道沿線では富士川を境として東が50c/s(当時はサイクルで表記)、西は60c/sとなっているため、新幹線の交流電車は、50/60両方の周波数に対応した車両を開発するか、地上設備で周波数を統するかを検討した結果、当時の技術では両用周波数の変圧器の開発が困難で有ったため、地上設備で統一する方法を採用することにしたそうで。当時は回転変流器(モーターで発電機を回して50→60Hzに変換する方式が採用されました。
現在は、インバータ方式で変換されますが、当時はそのようなアナログな方式が使われていました。2014年まで実は回転式が一部使われていたようです。
2014年11月27日の社長会見が出ていました。
興味のある方はぜひ、こちらも併せてご覧ください。

https://jr-central.co.jp/news/release/nws001563.html
https://jr-central.co.jp/news/release/_pdf/000024902.pdf

4)運転保安装置として、連続制御式自動列車制御装置(ATC装置)を設備するとともに、運転指令業務の能率化を図るため、到着進路をほぼ自動的に設定する半自動化列車集中制御方式(CTC方式)を採用するとして、運転保安度の向上を図ることになりました。
5)その他として、新たに50Tレールと呼ばれる、新幹線独自の形状のレールが開発された他、架線についても高速運転での集電性を向上させるため、合成コンパウンドカテナリ式と呼ばれる、従来のコンパウンド式架線を改良した方式を開発しました。
どのようなものかと言いますと、ドロッパーと呼ばれるトロリー線と補助架線をつなぐ装置に合成素子で作られたダンパーのを取り付ける方式で、集電装置による架線の振動を減衰させることを目的に開発されました。
しかし、実際には強風などで共振現象が大きくなり、架線事故の原因となったので現在では新幹線では使われていないとのことです。
実際、国鉄時代は架線が切れて新幹線が運休することが多々ありました。
現在は、より安定性を高めたヘビーコンパウンド架線方式を採用しているようです。
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新幹線建設と国鉄 第1話 十河信二総裁と阿川弘之

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鉄道ファンでもあった阿川弘之が... 鉄道ファンでもあった阿川弘之が書いた童話、「きかんしゃやえもん」
阿川氏は、新幹線建設には批判的であったと言われていますが、新幹線開業後の成功を見て不明を詫びたと言われています。
今回から、何回かに分けて新幹線開業までのお話をさせていただこうと思います。

新幹線に関しては、戦前の弾丸列車計画まで遡ることができます。

実際に、丹那トンネルなど一部の区間は建設に着手していましたし、日本坂トンネルのように戦前には完成し、一時期は在来東海道線で利用された区間もあったと言われています。

昭和30年代の輸送力はひっ迫しており、東海道線の全線複々線化も視野に入れて検討されましたが、鉄道技術研究所が新幹線による東京~大阪3時間運転の可能性を示したことを受け、鉄道が斜陽産業と思われていた中に光明を見出したと言えます。

最終的には、十河信二の決断が大きかったと言えましょう。
世間は鉄道斜陽論が一般的であり、鉄道は時代遅れであり今後は飛行機や高速道路による自動車輸送が増大するものであり、高速鉄道などは妄想の産物でしかないと言われていました。

このように、新幹線建設に関しては並々ならぬ情熱を持っていた十河総裁でしたが、当時の国鉄は運輸省から分離したとはいえ、国鉄自身も、そして政府も国鉄は国の機関という意識が双方にあって、運輸省は国鉄を監督する立場にあるとはいえ、その立ち位置は現在の国交省とJR各社という位置づけとはかなり異なっていました。

また、作家の阿川弘之(元海軍士官で、絵本・「きかんしゃやえもん」の作者)が、世界の三バカと呼ばれた(ピラミッド・万里の長城・戦艦大和)と同じく、新幹線も同じ道を辿るのではないかと、新聞で発表し、国鉄に再検討を促したと言った話もありました。

それでも、十河信二としては高速輸送としての新幹線が国鉄が生き残るべき道であると信じて建設に邁進することになります。
新幹線建設の計画には、桜木町事故で引責辞任していた島秀雄を口説いて副総裁格の技師長として迎え入れ、島技師長とのコンビで新幹線計画は進められました。

改めて、こうして十河信二という人を振り返ってみますと、改めて胆力のある総裁であったことが伺えます。

特に、国鉄は、輸送量の増大もあったとはいえ、十河総裁在任中の国鉄は黒字決算を続けていましたし、動力近代化による運輸の合理化や、支社制度の導入による本社機能のスリム化等、機構改革にも着手して政治力を発揮しています。
また、新幹線建設に関しても政治力を発揮し、当時の大蔵大臣、佐藤栄作の助言により世界銀行からのの借り入れなどを実現させたことも特筆されます。
ただ、当初から新幹線の建設費を過少に見積もっていたこと、さらに新幹線建設のために地方交通線(ローカル線)の建設を渋ったことなどから、新幹線開業前に昭和38年には再任されることは無かったのですが、これは上記のような理由で政治家に嫌われて詰め腹を切らされた形でした。その後は国鉄監査委員を務めていた、石田禮介氏に総裁の任が回ってくることになるのですが本題から外れますので、今日はこの辺で止めておくこととしましょう。

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新性能電車の幕開け第5話 特急電車151系の発展

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交通技術1960年2月号から引... 交通技術1960年2月号から引用
昨日は、151系電車は大人気で、急きょ増備することになったと言うお話をさせていただきました。
ここにきて、特急こだまは、2・3等車蚤の編成でありながら冷暖房完備であるのに関わらず、「つばめ・はと」は1等展望車並びに食堂車以外は非冷房では差が付き過ぎることから、「つばめ・はと」をどうするか検討されました、まだ当時は客車にするか電車にするか決まっていなかったのでした。
EH1015が歯数比を変更して高速試験が行われたのも、そうした理由からでした。
結果的には、昭和34年7月に高速試験で151系が163km/h記録するに及んで、「特急つばめ・はと」も電車化して共通運用を図る方針が決めらたと言います。

そこで、計画では、電車の編成は12両編成で、モーターは6両までに抑えられることになりました。
これは沼津以西の電力事情があったからと言われています。(昭和35年2月、交通技術2月号)
なお、1等展望車に代わる特別2等車の設計は時間がかかるため、比較的設計のまとまりやすい2等電動車4両(モロ151・150各2両)と3等付随車(サハ150 4両)を使って昭和34年12月から、「特急こだま」は12両編成化されました。
その後、第2次増備車として、サシ151、クロ151が落成して、順次こだまの編成も置き換えられて最終的に、「特急こだま」と「つばめ・はと」は共通運用されることになりました。

特にクロ151は展望車に代わる車両として非常に特徴的で、4人区分室と一人掛座席14脚を備えた開放室からなり、中央部に設けられた出入り口があり、車端にはサービスコーナーが設けられていました。
設計当初は、進行方向に向かって27度斜め外向きが定位として設計され、オットマン(足置き台)が使用できるようになっていました。
改良型では、椅子と一体型になり、任意の位置で使用できるようになっていました。
また、壁は吸音効果を期待して織物貼りになっていたそうで、車両における織物を貼った例は、国鉄では100系新幹線にも見ることが出来ました。
座席の上には厚さ8㎜の強化ガラスによる幅80㎝の荷棚が設けられていたそうです。
なお、区分室は車体幅いっぱいを使ったもので、乗務員通路部分とは床に設置したマガジンラックでかろうじて区分される程度であり、ひかり天井方式、荷棚はハットラック式となっていました。
ちなみに、国鉄で光天井方式を採用したのは、クロ151区分室以外では、クロ157貴賓室も光天井方式を採用していました。
JR東日本が253系で区分室付のグリーン車を連結していた時期がありますが、この区分室では、完全に通路とは仕切られる形となっており、クロ151と比較すると狭苦しく感じられたものでした。

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新性能電車の幕開け第4話 特急電車151系の誕生

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画像 wikipedia 15... 画像 wikipedia 151系特急電車
昨日は、小田急の車両を借り入れて高速試験を行ったと言うお話をさせていただきましたが、実は3000系の設計には国鉄の技術研究所がかなり設計に関しては技術協力をしたそうですが、小田急としてもかなり部内で物議は有ったそうです。
特に、運転台が低くなることが万が一の事故の場合どうするのかとか、見通しが悪くなると言う問題提起がなされたと言います。
また、連接台車に関する保守も保守部門からは不安が有ったそうです。
また、、お役所以上に固い(融通が利かない)と言われた国鉄ですが、この高速試験は結果的には大成功であり、最終的に3000系で培われた軽量化の技術は、国鉄の車両設計にも大いに影響を与えたようです。

なお、高速試験は、101系も試験に供されました、台車を試作の空気ばねに変更し、歯数比を変えた特別仕様で135km/hを記録しました。

最初は物議をかもした、小田急3000系の借り入れですが、結果的には多くの貴重なデータを提供することになりました。
連接台車については、国鉄では591系誕生まで持ち越されることになりましたが、こうしたデータは新幹線建設のための基礎データを提供したと言われています。

また、昭和33年には国鉄としても101系に搭載されたMT46モーターを搭載した日本初の特急電車として151系を誕生させることになりました。
151系は小田急の車両を参考にしたと言うよりも、国鉄独自の軽量設計の集大成と言うべき存在でした。

特に、それまでは食堂車・展望車など1等車の一部にしか設置されていなかった冷房装置を3等車にまで広めた功績は大きく、車両に取り付けるユニットクーラーをサロ85に設置して試験が行われた他、101系には試作空気ばねでの試験などが行われ、10系客車なで採用された軽量車体を含めて、当時の国鉄における技術の延長線上にあった車両でした。

また、高速運転を考慮して運転台を上げた独特のボンネットスタイルはヨーロッパのTEEなどを参考にしたとはいわれていますが、優雅にまとめられており、国鉄の黄金時代を彩る列車として、また戦後の復興のシンボルとしても評価に値する列車と言えましょう。

当初は、特急「つばめ・はと」を置換える予定はなく、あくまでもビジネス特急としての計画であったことから、3等車のみの編成で計画していたそうですが、途中からやはり2等車は営業上必要であると言われて設計変更がなされその格差に苦慮したと言う記述が星晃氏の回想録などで出てきます。

その時に試作されたものの一つにシートラジオがあったそうですが、当時はイヤホンを一つ一つ消毒していたそうで(持ち帰り式の安いイヤホンではなかった)その手間が邪魔だったことや携帯式のラジオが普及したことで廃止になったと言われています。
当初は、あくまでもビジネス特急としてのスタートであり、当初は8両編成でスタートしますが、完全冷暖房の車内は好評を持って迎えられ、昭和34年には増備が始まり、編成は12両まで拡大、その後本格的に特急「つばめ・はと」も客車ではなく、電車で置き換えようと言う話となり、それまでは優等列車は客車による機関車牽引と言う意見は姿を消し、電車による置換えが検討されることになるのですが、その辺りはまた別の機会にさせていただきます。

80系試作車による冷房試験に関しては、下記も参照ください。旧型国電と冷房
鉄道ジャーナリスト blackcatの鉄道技術昔話
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新性能電車の幕開け第3話 小田急SE車による高速試験

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小田急SE車 3000形初代 小田急SE車 3000形初代
本日は、小田急が開発したSE車が、国鉄線を走った頃のお話をしてみたいと思います。

1)国鉄技術研究所の協力で始まったSE車
小田急のSE車は、ご存じのとおり小田急が最初に開発した特急専用電車であり、現在も1編成が海老名車両基地(神奈川県海老名市)の専用保管庫に保存されています。
当初は、鉄道技術研究所の協力で開発が始まったそうで、完成後は小田急線内で最高速度を出せるところがなかったので、これまた国鉄で試験をさせて欲しいということになったそうです。
 国鉄の部内にも私鉄の車両を借り入れることに対して反対意見も多かったそうで、借入費用が大きくなることや、車両自体が信託(住友信託銀行)されていたこともあり、最高速度は設計最高速度である145km/h以上出さない様に事前に取り決めたり、「高速試験」自体に保険をかけたり、145km/hにおけるブレーキ距離が600mを越えることから運輸省の特認が必要といった手続きもあったと言われています。
また、国鉄として私鉄の車両が走ることは面子が立たないと言った意見もあったそうですが、詳細は省きますが、個々の調整も進み、小田急と国鉄の間で貸借契約が交わされ、下記の日程と場所で試験が行われることになりました。

9月20日~9月26日
  大船~平塚間の旅客下り線
  ロングレールを敷設した、モデル軌道区間を含む当時として最も軌道の良い区間で、架線も高速集電に有利なコンパウンド・カテナリ架線方式

9月27日・28日
  函南~沼津間の下り線
  普通の状態の保線区間で、架線も従来のシンプルカテナリ式架線方式

試験の結果、従来車両に比べて横圧(レールを外に押し出そうとする力)でありこの力が大きいと軌道の狂いが生じるため小さい方が好ましいことになります。
従来の車両では4t程度あったものが2.5tと軽減されていることが確認されたと言う記述がなされています。

集電に若干問題が残ったことや、高速度でのブレーキの利きが悪くて600mを越えたことなどの問題点もあったそうですが、概ね初期の性能は確認できたとのことでした。
また、流線形の効果による空気抵抗軽減も十分確認されたことから、国鉄としても私鉄の車両を走らせることに抵抗は有ったものの結果的には新幹線に繋がる貴重な資料を提供したと言われています。
実際に、高速度試験での離線状況などから新型のヘビーコンパウンド式カテナリ―架線が開発されたりしました。
明日からは、新幹線建設のお話に移りたいと思います。

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新性能電車の幕開け 第2話

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八王子市人口 八王子市人口 モハ90(101系)と72系の... モハ90(101系)と72系の比較
引続き、101系のお話を少しだけさせていただく前に、中央線に最初に101系が投入されたのかという経緯を知る必要があるかと思います。
中央線沿線は、戦後の人口増加が大きかったと言われています。
いささか乱暴な話ですが、中央線が通過する八王子市の人口を八王子市の統計で見てみますと、上記のグラフに有るように、昭和30(1955)年に大きく増加し、その後昭和40(1965)年までは周囲の町村合併もあったとはいえ人口が爆発的に増加していることが理解していただけると思います。
これは、戦後、東京都民が郊外に引っ越したことも原因としてあったかもしれませんが、この頃から東京一極集中の問題は起こっており、鉄道輸送にあっても、昭和8(1933)年6両編成でスタートした中央線は、昭和30年には9両編成まで対応できるようにホームを延長、その後昭和31(1956)年11月には10両編成まで対応可能となったそうですが、抜本的な改善には至っておらず、連日ダイヤの乱れによる混乱があったと記録には残っています。
昭和32年には、東京駅に中央線ホームの改良に着手しホーム拡幅工事を行ったと記述されています。
改善案として、旧形のモハ72形電車に代えて、新性能電車(101系)を導入することで、時間短縮が図れるとして計画されたのでした。
当初の計画では、オール電動車で製作する代わり、加速度は3.2km/h/sec 減速度 4.0km/h/secで、130cmの両開きドア併用で、運転自分の短縮が図れるとしていましたが、
実際には、オール電動車にすることでピーク電流(ノッチ投入時にかかる過電圧)の増大やこれに伴う架線電圧の降下などもあり変電所を強化する必要があり、その費用だけで役10億円(昭和32年当時)であり、それ以外にも性能に合わせて信号設備なども最適化を図るとなるとその経費も膨大になることや、旧形国電との混用ではさほど高加速があっても使いづらいと言うことから。当面は、出力を下げてMT比を下げる手法が取られました。
当初は8M2Tその後6M4Tとトレーラーの両数を増やす形で性能は最終的には旧形国電とさほど変わらない2.0km/h/secになってしまいました。
それでも、当初は将来的には電動車化するとのことで付随車(サハ)も動力台車を履くこととなり、DT21T(Tはトレーラーの意味)と呼ばれる電動車用台車を履き、また一部のサハにはパンタグラフの設置のための準備工事なども行われていました。
この失敗に懲りたのか、それ以降は国鉄では電車の起動加速度を積極的に公表することはありませんでした。
現在のN700系の加速度2.6km/h/secであり101系よりも速いことになります。

第一話はこちらを参照

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新性能電車の幕開け 第1話

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直角カルダン駆動 Wikipe... 直角カルダン駆動 Wikipedia参照 WNカルダン駆動 Wikipe... WNカルダン駆動 Wikipedia参照
本日から、新性能電車の幕開けとということで何回かに分けてお話をさせていただこうと思います。
しばしお付き合いくださいませ。

1)今までの常識を変えた湘南電車

昭和25年に「運行を開始した湘南電車は、今までの電車の常識を覆すこととなりました。
それまで、電車は振動も多く長距離の移動には向かないのでせいぜい60km程度までの距離を走るものと思われていました。
 100km以上の距離を走る湘南電車は、電車の新しい可能性を示すものと言えました。
80系電車は性能的には吊りかけ駆動のため、分類上は旧型国電ですが、電車による可能性を広げたことは間違いありません。

2)新駆動方式による高性能電車の誕生

昭和27年には、新しい駆動方式、カルダン駆動が国鉄の電気式気動車キハ44000形でが初めて採用され、45kWモーターを駆動する方式が試験的に採用されたました。
 しかし、閑散線区に電気式は不利ということから、電気式気動車は、全車液体式に再改造されましたが、日本初であることには変わりありません。
翌昭和28年には、東武の5700系が直角カルダン駆動方式でデビュー、京阪1800系はWN駆動としてデビューするのですが、東武5700系が初期故障に巻き込まれていた中で、京阪は完成後直ちに営業運転に使われるなど安定した走りを見せました。
ということで、新性能電車(カルダン駆動)の最初の営業運転は京阪ということになりますが、この頃から私鉄では積極的に新性能電車(当時の表現を借りれば)を導入が検討されていきました。

3)眠れる巨人、国鉄

国鉄でも、新性能電車の設計は検討されましたが、その動きは緩慢で、昭和28年当時は63形電車から72形への改造が昭和26年の桜木町事故から行われており、昭和27年当時も半鋼製のモハ72形電車が増備されていた時代でした、全金属タイプの72形電車が登場するのは昭和31年まで待たねばなりませんでした。
しかし、昭和31年頃、大手私鉄は着々と新しい電車を導入して、近鉄では奈良線用として800形を増備したり、阪神でも3011形がジェットカーとして新性能電車が運転を開始していましたが、巨像はまだ、目覚めないと言った状況になっていました。
国鉄の新性能電車がデビューするのは、昭和32年に登場するモハ90系(後の101系)まで待たねばなりませんでした。
101系については、みなさんもよくご存知と思いますが中央線の慢性的遅延を解消するために導入が検討されたものであり全車電動車で当初は3.2km/hの加速を計画していました。
 
続く

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高速鉄道の可能性を求めて

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広軌高速鉄道建設要綱(案)にな... 広軌高速鉄道建設要綱(案)になります。参照 交通技術昭和31年2月号
本日から、高速鉄道の可能性についてと言う話題でお話を進めて行きたいと思います。
戦後の輸送量は飛躍的に増加し、経済成長率は戦前の水準を越えたと思われ、昭和32年当時、輸送申込みの60%しか輸送できなかったと、国鉄線の記事では出てきますが、当時は他の輸送機関が殆ど発達しておらず、(飛行機も60人程度の定員で東京~福岡などは、特急1等運賃で東京~博多まで行くのとほぼ同じ金額(当時はあえて、航空運賃を高く設定すると言う政策的な部分がありました。)
利用者の多くは、鉄道に頼らざるを得ない状況でした。
 そのような中、輸送力の拡大(特に東海道線)は喫緊の課題だったのです。
 当時、国鉄本社の予測では、現在の経済成長が続く限り、東海道本線の輸送力は昭和39年頃には飽和状態に達するであろうと考えられていました。
 その解決策として、東海道本線の全線複々線化による解決策を模索していました。
 昭和21年当時にも戦前の弾丸列車の復活を提唱する意見もありましたが、新幹線の実現と言うのは夢のまた夢と思われていました。
 そんな折、鉄道技術研究所【現在の鉄道総研】が昭和32(1957年年)5月30日に銀座山葉ホール「東京~大阪間3時間」の構想を発表した時は大変な反響がありました。
 画像は、昭和31年交通技術に掲載された「広軌幹線の構想」に掲載された、広軌高速鉄道建設要綱(案)になります。参照 交通技術昭和31年2月号
 高速鉄道建設の話題は、新聞にも大々的に扱われたため、85%以上の人が知っていると答えたと言われています。
 だた、本社としては、鉄道技術研究所が勝手なことをしたといって物議を醸したとも言われています。
 当時、本社では鉄道技術研究所という組織は、あくまでも付属物であり、本社の命令で動いていればよい、そんな風潮がありました、しかし、東海道線改良の抜本的対策は新幹線しかないという信念を持って、かつその実現の推進に尽力したのが、十河信二国鉄総裁でした。
 なお、十河総裁については改めてお話をしたいと思います。
 ちなみに、国鉄当時の運転速度では、3時間10分運転であり、3時間ではないと言うご意見もあるかもしれません、当初の計画では、京都停車は想定していませんでした、ところが、世界的観光地である京都を通過させるのは問題があるという経営的判断から停車が決定したと言われています。
 それにより当初は東京~大阪3時間運転の予定が、3時間10分に延長となりました。
 京都通過の列車が誕生したのは、平成元年にデビューした「のぞみ1号」東京発の列車で、途中新横浜以外は全て通過と言う過激な?運転でしたが、その後は名古屋財界の猛反発もあり、現在の形になったのはご存知のとおりです。

参考 http://library.transport.or.jp/

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景気循環と国鉄 第3話 特急あさかぜの誕生

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参照 wikipedia 昭和... 参照 wikipedia
昭和31年運転当初の時刻表
昭和31年に、「特急あさかぜ」は旧形客車を連ねた編成で誕生します。
荷物・3等合造車 3等寝台車3両、3等座席車2両、食堂車、2等座席車、2等AB寝台車(個室&開放室)2等C寝台(開放室非冷房)の編成でした。
当初案では、大阪を無視する列車(実際には停車・客扱を行う)として計画され物議をかもしたものでした。
考えられた案は下記の3つ
1)東海道夜行+山陽昼行特急とする案。(東京発は深夜になる)
2)つばめ・はとに続行する形で、山陽区間を夜行にする案(昼間の走行時間が長くなる。
3)大阪を深夜に通過するダイヤとし、東京を夕刻、博多には到着する案

3案は、前例がないと大阪鉄道管理局は反発しますが、関西始発の九州方面急行列車「玄海」・「天草」を同時に登場させるということで、本社に言い切られる形でダイヤは決定したといわれています。
実際には、旧形客車で運転されていましたので、列車が停車すれば自由に乗り降りできる状態でしたので、大阪駅を2:00に客扱いすると言うことが行われていたわけです。
余談ですが、国鉄時代は、寝台急行列車の場合は、停車駅では客扱いをしていましたがこれも、旧形客車で運転されていた頃の名残です。

当初は、大阪が非有効体時間帯になることへの危惧もありましたが、宇年開始してみると、好評で、切符が取れない列車と言うことでむしろ話題になり、昭和32年7月20日からは「特急さちかぜ」が設定され「あさかぜ」に続行する形で運転されました。

誘発需要や急行列車からの転移もあったかもしれませんが、それ以上に飛行機の深夜便(ムーンライト)からの転移が大きかったのではないかと言われています。
当時ムーンライトは、博多~羽田間に飛んでおり、夜2:35頃出発し、大阪空港を経由して、朝の5:30頃に羽田に到着する便と、東京を3:20に出発し、博多に6:15に到着する便があったそうですが、定員60人に対して20人程度しか乗らないことも多くなったという記事が国鉄線の記事の中にかいてありました。

昭和30年代は、景気拡大に支えられ、人や物の動きは活発化、一方では高速道路の建設も進められることから、輸送力のさらなる拡大(特に東海道線)は喫緊の課題としてクローズアップされていくのでした。

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景気循環と国鉄 第2話 経済の発展と国鉄

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151系 国鉄のパンフレットよ... 151系 国鉄のパンフレットより
画像引用 Wikipedia
昨日も書きましたが、朝鮮動乱に伴う外貨の獲得は日本に好景気をもたらすきっかけとなり、昭和29年からは神武景気と呼ばれる好況な状況が作り出され、貨物・旅客ともに需要は増えていく状態でした。
 そんな中で、国鉄では積極的に輸送力の増強に努めるとともに、ディゼルカーによる地方ローカル線の輸送改善なども本格的に行っていきました。
投書投入されたのはキハ01と呼ばれる気動車で、戦時中に不要不急路線として撤去された白棚線復活用の車両として計画されたものですが、ご存じのとおり白棚線はその後専用道で復活することとなりましたが、白棚線に代えて、木原線(現在のいすみ鉄道)に投入することとなりました。
 模型等で見られた方も多いと思いますが、キハ01は両端にドアがあるタイプで、これは元々路面電車タイプで復活させることを目的としていたからだと言われています。
 当時は、自動車も発展途上の時代でしたが、既にその頃から地方ローカル線の扱いには国鉄も経費節減に努めていた他、地域特別運賃の導入や、レールバスの導入といったあらゆる経営努力はしていましたが、実効は上がらなかったようです。

「戦後は終わった」の合言葉とともに、始った30年代、巷では神武景気、更にはその後なべ底不況を経て、昭和33年6月から昭和36年12月まで続く岩戸景気に繋がってといわれた好景気に支えられ、国民経済は大きく発展しました。
 当時は投資が投資を呼ぶと言われ、マネービルという言葉が使われ出したのもこの頃でした。
 マネービル、ボディビルを真似た造語のようで、証券会社が積極的にこの言葉を使っており、当時家風呂が無かったのでよく銭湯に連れて行ってもらったのですが、銭湯の洗い場の鏡などに証券会社の宣伝が入っていて、マネービルという言葉が書かれていて、幼稚園児であった子供には何のことか理解できなかったと言う思い出があります。笑
 サザエさん(原作)でも、マネービルという話題が出てくるのもこの頃で、空前の投資ブームと言われました。(今のビットコインのような感じでしょうか)
 そうした好景気に浮かれる話がある反面、森永砒素中毒事件や、水俣病(当時は、原因は不明の精神疾患が多発と報告されていた。)などの食品に関する事件が起こっていた時期でもありました。
 この辺は、本題から外れますので省略させていただきます。

 話題を鉄道に戻しますと、昭和31年11月には最後まで非電化で残っていた米原~京都間が電化され、東海道線は全線電化が完成。
 これによりC62やC59など特別幹線用機関車はその活躍の場を山陽本線に移すとともに、東海道区間は快適な電化の旅となり、特別急行用の機関車には、淡いグリーン(通称青大将塗装)のEF58が客車とともに準備されました。
 当時は、現在と比較にならないくらい貧富の格差が激しく、特急は特別な人が乗車する列車であり、一般庶民は急行が最も早い列車と言われていました。
 その代わり、編成の半分以上が1・2等車(現在のグリーン車)という徹底ぶりで、(普通車は3等の時代です。)食堂車には、2等車以上の客しか入れないそんな風格のある列車でした。
景気拡大が続く中、昭和33年には、動くホテルと揶揄された、20系客車が151系「こだま」とともに、デビュー、ビジネスライクなこだまに比べ、個室寝台を1等座席車、食堂車などからなる全室冷暖房完備の車両は庶民の憧れと言えるものでした。
完全冷暖房、固定窓による快適な車内はたちまち人気となり、こだま同様切符の取れない列車として有名になりました。

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景気循環と国鉄 第1話 神武景気と鍋底不況と国鉄

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いただき物の画像から モハ52... いただき物の画像から モハ52形電車
京阪神急行を走ったモハ52もこの時期になると都落ちして飯田線に転出していった。
今回は、オリジナル記事として神武景気と鍋底不況と国鉄と言うことで書かせていただきます。
日本史で聞かれたことはあるかと思いますが、神武景気は昭和29(1954)年 12月から 昭和32(1957)年6月まで 31ヵ月間続いた好景気の俗称ですが、国鉄も、好景気を受けて第1次5か年計画がスタートするのは前述した通りですが、その原資となるべく運賃値上げは当初18%で申請しますが、運輸審議会の答申でその値上げ額は15%に圧縮され、さらに国会審議を経て13%に圧縮されたと言われています。
そこに来て、第1次5か年計画の当初に国際収支の悪化を端緒とした、公定歩合の引き上げが5月を始め、金融引き締めを強化したことで景気は後退、不況期(後になべ底不況と呼ばれる)に入りました。
これにより、鉄道輸送も大幅に後退を余儀なくされ、好景気を元に組んでいた予算ベースで比較すると、旅客収入で10億円、貨物収入では30億円の不足、計40億円の収入不足が見込まれるうえ、利子支払いの増加(約14億円)や、物件費などの増加(120億円)に入り、国鉄としては、初年度から計画にかなり無理が生じる形となりました。

その後、昭和33(1958)年7月からは日本銀行の金利引き下げと国内消費の回復で岩戸景気と呼ばれる景気回復局面に入りました。
この時は、積極的に工場などが建設され、投資が投資を呼びと言われた時代でしたが、国鉄の場合は輸送量の増加以上に人件費の増加、更に支払利子の増加が大きな足かせになったと言われています。
当時は人件費だけで100億円毎年増加し、利子払も34億円の増加したという記録があり?。
人件費の増加はいびつな年齢構成にあることがこの頃から指摘されており、適切な人員配置などの合理化がなかなか進まなかったことも原因と言われています。
どうしても趣味誌ベースで考える部分だけでは見えてこない、問題がいくつか潜んでいるように思えてなりません。

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