大祭司カヤパ邸宅の当時のままの石畳道路
当時アントニア要塞のあったところで現在はダビデの塔
ホサナキリスト教会日曜礼拝のメッセージ・ノートです。です
「エマオへの二人」
ルカの福音書 24章13~35節
"ところで、ちょうどこの日、弟子たちのうちの二人が、エルサレムから六十スタディオン余り離れた、エマオという村に向かっていた。
彼らは、これらの出来事すべてについて話し合っていた。
話し合ったり論じ合ったりしているところに、イエスご自身が近づいて来て、彼らとともに歩き始められた。
しかし、二人の目はさえぎられていて、イエスであることが分からなかった。
イエスは彼らに言われた。「歩きながら語り合っているその話は何のことですか。」すると、二人は暗い顔をして立ち止まった。
そして、その一人、クレオパという人がイエスに答えた。「エルサレムに滞在していながら、近ごろそこで起こったことを、あなただけがご存じないのですか。」
イエスが「どんなことですか」と言われると、二人は答えた。「ナザレ人イエス様のことです。この方は、神と民全体の前で、行いにもことばにも力のある預言者でした。
それなのに、私たちの祭司長たちや議員たちは、この方を死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまいました。
私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました。実際、そればかりではありません。そのことがあってから三日目になりますが、
仲間の女たちの何人かが、私たちを驚かせました。彼女たちは朝早く墓に行きましたが、
イエス様のからだが見当たらず、戻って来ました。そして、自分たちは御使いたちの幻を見た、彼らはイエス様が生きておられると告げた、と言うのです。
それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、まさしく彼女たちの言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」
そこでイエスは彼らに言われた。「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。
キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか。」
それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。
彼らは目的の村の近くに来たが、イエスはもっと先まで行きそうな様子であった。
彼らが、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕刻になりますし、日もすでに傾いています」と言って強く勧めたので、イエスは彼らとともに泊まるため、中に入られた。
そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。
すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。
二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」
二人はただちに立ち上がり、エルサレムに戻った。すると、十一人とその仲間が集まって、
「本当に主はよみがえって、シモンに姿を現された」と話していた。
そこで二人も、道中で起こったことや、パンを裂かれたときにイエスだと分かった次第を話した。"
⑴暗い顔つきの二人
①目が遮られていた
人には見たいものしか目に入らない
自らの造った世界観の中で生きているゆえ
②二人が見ていたもの
イエスがイスラエルを贖ってくれるはずだとの望みに生きていた〜ローマからの政治的軍事的独立を成し遂げて、平和と繁栄が行き渡った世界の中心となる望み。それは旧約聖書預言のメシア王国。
⑵心燃やされる二人
①それは世界観が変革した時
「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」
聖書で「愚か」とは、信仰のない状態を表す
二人は弟子であることには違いなくとも、「全て」を信じていなかった。
②「聖書全体」が何を行っているかを理解し始めて世界観が変革していった。
挫折だと思われていたことを包めて栄光に至る1つのプロセスであった。神のご計画は未だ挫折せず。
⑶目の開かれた二人
①その場面〜「そして彼らと食卓に着くと、イエスはパンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された」(30) 。それはユダヤ教ラビとしての典型的な食前の祝福の祈りであった。
②その前提〜「すると彼らの目が開かれ、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(31)。
イエスのパンを裂く仕草を覚えていた。
イエスとの共通した共有体験が開眼に至らせた。
(結論)
イエスとの共有体験をどこまで経験し深めているか。主は会話のきっかけ(17)、議論の深まり(19)、叱責(25)、解説(27)、供与(30)など、信仰生活のあらゆる場面で働きかけておられる。
たとえ私たちが「愚か」の状態であったとしても、ともに道を歩いてくださる主のお言葉に耳を傾けようではないか。
シアトル熱中小学校に出席して来ました。
1時間目は音楽の時間。
日本からわざわざお出で下さった講師による指導のもと、
メロディーに合わせた歌詞を創作しました。
講師は多才な方で作曲や作詞、ミュージカルまでも手がけておられる方。
私たち生徒が作詞したものをご自分でピアノ演奏しながら自ら歌ってくださいました。
2時限目は芸術の時間で、シアトル裏千家の淡交会の幹事長さんを講師に茶道について学びました。
茶道には亭主が客人を迎えるおもてなしの心があり、茶室の中に掛け物水差し茶碗釜などを整えて客人との人間的なぬくもりを大切な要素とすること。そこには日本の風土が育んだ文化的結晶とも言える美の世界であり、それが「和敬清寂」の精神と言われるものとのこと。
和 Harmony
敬 Respect
静 Purity
寂 Tranquility
千利休が茶道を大成した時はキリシタン隆盛の時代。
キリスト教の影響が茶道にも色濃く反映されていることが講師からも確認出来ました。
例えばフクサのたたみ方。十字を切る仕草であることなど。
茶道での楽しみは、なんといっても和菓子。
自家製のお菓子をいただきながら自らチャセンでお茶を点てる、和敬静寂世界を堪能しました。
このところ先週から春の長雨と言ったらいいのでしょうか、
降ったりやんだりが続いて気温も低めです。
その前の週は初夏の高温だったため、この気候の変化に体調崩す人が私の周りにも散見されます。
息子も学校休む日があったり、半日だけ行ったり。
こんな不純な気候にも負けずに野生動物はどう体調を維持しているのでしょうか。
今年もまたイースターバニーが実際に庭にまでやってきてくれました。
この日はよっぽどこいのぼりを庭に掲げようかとも思ったのですが、芝生が濡れているためもう1週間ほど待つことにしました。
ノースウェストの春はこうしてまもなく花々が一斉に繚乱する初夏に向けての準備中です。
しっとりとした雨が地を潤してくれています。
またこのような気候の変動が私たち人間にストレスを与えて体調を乱すことにつながるのは確かです。
しかしその一方で、そのストレスが体の免疫力を強めていると言う結果にもつながっているようで、快適な気候が長く続くことだけがプラスとはならないようです。
イースターおめでとうございます。
復活の主イエスは今日も来ておられます。
ホサナキリスト教会日曜礼拝のメッセージノートです。
「マリヤとマルタ」
ルカの福音書 10章38~42節
"さて、一行が進んで行くうちに、イエスはある村に入られた。すると、マルタという女の人がイエスを家に迎え入れた。
彼女にはマリアという姉妹がいたが、主の足もとに座って、主のことばに聞き入っていた。
ところが、マルタはいろいろなもてなしのために心が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。私の姉妹が私だけにもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください。」
主は答えられた。「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。
しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません。」"
⑴マリヤの選択〜Better or Best?
①主の足元でみ言葉に聴き入る〜学問や教育が許されていなかった女性に対しての主の配慮や価値観が伺われる
②姉のマルタの選択〜世間の常識やホストとして当然の行為でありストレスが高じているのもやむを得ない
⑵マリヤの洞察〜Many or One
①より価値のあることに時間と心を用いて実践せよ〜それは突き詰めて言えば主の御言葉と同化することであり、キリストご自身が内住されること。
②キリストご自身が望んでおられたことでもある
人々を教え癒されたがそれを通して人々に内的な変革を与えるためだった
パウロもただ「この1時に励んでいる」と言っている
⑶マリヤの保全〜Knowledge or Life
①「それが彼女から取り上げられることはありません」未来形であり受け身形。かつての新改訳と異なり原文に忠実。信者の信仰は永久に保存される教えにつながる
ローマ8:39
②事実として生きることと理解している事とのあいだには雲泥の差である。内住の恵みはかつて与えられたに違いない。これを正しく理解し時々刻々の自覚に生きながらその恵みを更新しよう。
(結論)
イースターは2000年前のイエスの復活という歴史的事件を想起するだけでは足りない。
今私の心の中にも復活の主が事実として生きておられる恵に生きるものとされよう。
イースターおめでとうございます。
誠に主は死を打ち破り復活してくださいました。
これにより、
ご自身の語られたお言葉の信憑性
ご自身が約束してくださった救いの確かさ
ご自身が初穂として私たちに永遠の命を担保してくださいました。
かつて義父が出席していた教会に行き、そこに併設されている墓地に家族で行きました。
私たちはやがて愛する方々との再会が実現できるのです。
ハレルヤ。
"イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。"
ヨハネの福音書 14章6節
ドロシー師回顧録「人生は80歳から始まる」
錦は漁師町です。新鮮なカツオをふんだんにいただきました。人生で初めて3枚におろしたのもドロシー先生に教わってのことです。
アイオワ州の恐ろしい雷や嵐の日がやって来ると、
私たちの家に中に居れば安全ですが、外にいて安全は保証されません。
ある日の夕食後、少し年上のドーリスっていう怖がり屋の従兄弟ともに外出したんです。
母はそんな私たちを見て、皿洗いの手伝い仕事から逃れるためだろうと決めつけたのですけどね。
その日、外からの帰り道で雷に遭ってしまったの。
「黙示録の患難時代に突入したのかな?」
従兄弟はそう言って大変驚いていました。
家に走り込むなり「殺された、殺された」と喚いていたんだけど、もちろん彼女は立派に生きていましたよ。大きな声を出す元気があったんですから。
ところで、私たちが犯罪者とならなかったのは母親に寄るところが大きかったのです。
四番目の新しい従兄弟はマウデおばさんの家に生まれたの。
私の母は超お世話好きだったので新生児とその母親の介護だけでなく、そのお家全体の家事まで面倒を見ていましたよ。
従兄弟らと生活をともにするのは本当に楽しいものね。
でもね、喧嘩だってしょっちゅうだったんだから。
そんなときが母親の出番だったんです。
ある時、母は私たちのいさかいに疲れて外にやって来ると私たちを年の順番にならばせたの。
そして年長から「あなたは何をやらかしたの?」と聞き始めたわ。
順番となると誰もが同じように互いを責め始めると、
「私はそんなこと聞いているんじゃぁないのよ。
あなた自身が何をやったのかって事よ!」
と言ったものでした。
各人の応えは「いやぁ、何もしていません」となったんですけどね。
私はメディアとペルシアの変更不能な法律のように、彼女の変わらない質問の姿勢を聞きながらその意味していることを理解したものよ。
私たちは天使のようではなかったのですが、人生の早い段階で自分自身の誤った行為には自らが責任を負わねばならない事を学んだのでした。
小さなお馬さんを滑り台にして遊んだのは楽しかったわ。
冬になれば決まって雪を駆け回るお馬に付けた鈴の音も良い思い出ね。
ドロシー師回顧録 人生は80歳から始まる
1988年、神学院卒業直後の23歳の私と73歳のドロシー先生
錦キリスト教会旧会堂での英会話クラスにて。
「人生は80歳から始まる」
日本で40年間以上宣教師として尊い御用をされたドロシー・ラバツウ先生の回想録です。
私が聖書学院を卒業したのが23歳の時。
卒業と同時に遣わされた最初の任命地が三重県大台町にある錦キリスト教会でした。
そこで1人で伝道されていらっしゃったのが教団最高齢の73歳になっていらっしゃったドロシー先生でした。
私はそこで7年間働きましたので、ドロシー先生が80歳になるまで共に生活し伝道したことになります。
本の題名によると、「人生は80歳から始まる」。
確かに年齢を感じさせないバイタリティー溢れる体力と気力に満ちておられた先生でした。
私との共同牧会伝道期間は助走期間に過ぎず、その後から先生の本格的な宣教師人生が始まったのですね。
今回初めてこの回想録を手にすることが出来て、ドロシー先生という稀有な宣教師を生み出した背景を垣間見ることが出来たのは実に祝福でした。
まるで宝物を探し当てたような感覚を持ちながらページをめくっています。
皆様にもその全てでは無いですが、ハイライトと思えるところを今後紹介して行きます。
まず最初の第一回目は、ドロシー先生の誕生ストーリーからです。
第1章
宣教師の養成遺産
それは実に膨大な時間、問題、訓練を要するプロセスです。
私の場合、43年間かかりました。
私には実に素晴らしい遺産があったことも覚えねばならないでしょう。私の先祖はフランスのユグノーまで遡ります。
それは信仰ゆえに迫害を受けた人々で、農場、財産、富を背後に棄てて国から逃れてきた人たちでした。自由を求めて定かでない旅を始めたのです。
ある人たちはオランダを経由し、他の人たちはイギリスを経由してアメリカまで渡ったのでした。
農場での誕生と幼少時代
私は1915年11月11日にアイオワ州にて誕生しました。
二人の兄弟に挟まれるサンドウイッチの具のように真ん中でした。
家族全体から「お姉ちゃん」というように呼ばれたものですから、自分の名前の持つ高貴な意味については長く無知のままでした。
ずっと後になって次のような意味があることを知りました。
「ドロシー」
それは、人気ある名前の意味で「神の賜物」
起源ーギリシア語
強調点ー「この女性は決してあなたを引き下げない」
「彼女の行く手には挑戦が待っている」
「彼女には想像力がある」
「彼女は成熟した配慮ある行動をする」
これら上記の意味には私の実際からして手が届きそうになく、単純に「お姉ちゃん」が最もふさわしいものだったでしょう。
私の二人の兄弟と私は農場で誕生したのです。私たちにはご自慢の動物園や木の枝に結ばれたブランコ、それに忍耐深い子馬がいました。
その子馬は人嫌いなのですが私たちは別格で、三人一緒に乗っては滑り台のようにして遊んだものです。それに乗って尻尾へ滑り落ちるのですが、何ら抵抗しませんでした。
ある時、私はそれに乗ったまま眠り落ちてしまったこともあります。子馬はそれに気づくと、上手に完璧でゆっくりとした早さでしか動こうとはしません。お陰で私はそのまま午後の昼寝を楽しめました。
また私たちには専用の特別牛乳配送装置がありました。直接ミルクの供給源を「モミモミ」して自分たちのカップに注ぐのです。
電話は地方新聞の役割を果たしていました。
1本の電話線に多数の人がつないでいるものですからご近所さんの愚痴などこぼさないように気をつけねばなりません。緊急時には皆が協力して電話を切りその人に優先権を与えたものです。
私の子供の頃はテレビはまだ無く、漫画本さえ見たことありません。従兄弟で集まる時にはそれはそれは楽しかったですよ。自分たちで即興の笑い話や劇を作ってしまうですから。
(つづく)
巨人ゴリアテに青年ダビデはどのようにして立ち向かったでしょうか。
〜ホサナキリスト教会日曜礼拝のメッセージ・ノートです。
(序論)
286センチの身長と鎧の重さで57キロもある巨人ゴリアテに青年ダビデがほとんど素手で戦うのは常識を超えたところのものであった。ダビデが勝利できたのは肉(身体の強靭さ・優れた武器・戦士としてのスキル.......)によるものではなく、霊よる勝利であった。
その霊(スピリット)の法則を自らにも適用しよう。
⑴あなた自身であれ(39)〜日頃使い慣れた道具を手にせよ
①羊飼いとしての日常道具(40)〜ありのままのあなたで行け。戦士としてではなく羊飼いとして戦え。
②自分自身を見失ってはならない
*皮肉と悪意のある中で(28)〜エリアブの嫉妬
*善意と好意のある中で(38-39)〜サウル王の気遣い
⑵ストレスを乗り越えよ〜本番に強くあるために
①信仰による戦い〜「万軍の主の御名によって」(45)
中近東における古代の戦争はその民族の神々の戦いであると考えられていた。
②すでに勝利を確信していた
5つの石から1つだけの石で決着(49)
⑶平素の営みに心せよ〜危機にあっての最大の準備
①羊飼いとしての命を張った日常生活(34-35)
戦士としての訓練はなかったが羊飼いとしての忠実な毎日がそれと代わるものとなっていた。
②羊飼いとしての大自然の中での信仰生活(36-37)
野原や岩場がダビデにとっての神殿であり神学校でもあった(詩篇23)
(結論)
手に負えない大問題に接するとき、しかもそれが主の栄光に関わる事であったとしても心配には及ばない。私たちのうちにお住まいになっておられる御霊に信頼をおこう。信頼を置くために平素からの信仰生活に心しよう。
"しかし、これらのことすべてが起こる前に、人々はあなたがたに手をかけて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出します。
それは、あなたがたにとって証しをする機会となります。
ですから、どう弁明するかは、あらかじめ考えない、と心に決めておきなさい。
あなたがたに反対するどんな人も、対抗したり反論したりできないことばと知恵を、わたしが与えるからです。"
ルカの福音書 21章12~15節
シアトルを南北に貫いている高速99号線が開通して初めてドライブしてきました。
今までの99号線は海辺に沿って2階建ての構造物だったのですが、老朽化が進み次回の地震ではおそらく崩壊するとの専門家の意見。
新しい道路は海にせり出して作るか、地下に埋めるか、かなりの議論となったですが結局ダウンタウンの真下を通るトンネルを掘ることになりました。
この道路が完成したと聞き、今なら無料で通れると言うことで行ってみたく思っていたのですが、
どこが入り口なのか分からないまま日時が過ぎて行きました。
この日は99号線を北から利用してダウンタウンに入るとトンネルが見えました。
どうもそれが新しいトンネルらしい。
そのままトンネルを抜けるとセイフコ・フィールドの真横に出て、高速90号線のジャンクションが目の前に見えます。
「案ずるより産むがやすし」とはよく言ったもので、何も問題なく迷うこともなく以前の出口と入口が新しいトンネルとつながっていたのです。
Google マップは既にアップデートされていて、この新しいトンネルの位置情報を正しくナビしてくれていました。
今まで99号線利用は気が引けていたのですが、思い切ってしてみるといとも簡単に利用できてしまいました。
「ハウルの動く城」をベルビュー・リンカンシアターで観てきました。
宮崎駿監督のジブリ映画が毎月1本ぐらいのペースでここベルビューで公開されているのです。
幼少期に隣のトトロを見て以来、子供たちもジブリ作品の大ファン。
英語の吹き替えでしたので彼らにも充分楽しんでもらいました。
反面私は映画のテンポの速い英語にはなかなかついていけずに苦労しました。
英語吹き替えの日と、英語字幕スーパーで原語の日本語で上映する日とがあるようなのです。
これからも10ほどのジブリの作品の上映がありますので、次回からは日本語放映の日を選ぼうと切に決めました。
ベルビューのど真ん中で日本語世界が再現されるだなんて拍手喝采ものです。
今日の観客は1割にも満たないほど、劇場がスカスカでした。
ジブリ作品のストーリー展開はものすごく早くてついていくのに大変です。
ありえない奇術や魔法のような展開。
それでもアニメーションの各シーンがとてもきれいに撮られていて飽きません。
優れた日本のアニメから日本語や日本文化に関心を持ってくれる外国人も多いのです。
我が子たちもそのようにいつか釣られるかも?と言う下心もあるんですよね〜
ジブリ作品の上映予定日一覧を写真に収めておきました。
関心のある方々のために。
長女がサーバーをしているレストランに息子と行ってきました。
リンカンスクエアと言うベルビューのど真ん中にあるレストランで、その階上は昨日のジブリ映画の映画館となっています。
マネージャーが私どものテーブルに来て、娘のテキパキとした働き振りを褒めてくれました。
娘は朝の7時半からある事務所で8時間の正規労働の上、高校の未消化クラスを取り、そして夜からこのレストランでの働いています。
こんばんは疲れを感じる、とボヤいていました。
しっかりと食べしっかりと休むようにと、親バカながら繰り返しアドバイスしました。
無理が出来るのも若い者の特権ですね。
四国在住の友人が花見に行った様子をFacebookで紹介してくれました。
繚乱の言葉を思い出す見事な満開に桜。
日本の風土と景色によく溶け合っているピンクの花柄。
ここシアトルにも日本から移植されたソメイヨシノの見事な花見の場所があります。
そのワシントン大学のキャンパスに今週は行ってこようかと思います。
桜には私たち日本人の心を愛でさせ、上に向けさせる何かがあるようです。
ところで聖書の世界には、
何となく「何かが」といったあやふやさを超え、
聖書には確かな約束が記されています。
そうです。
恵みをいただくために、大胆に神が御臨在されるその場に侍ることができるのです。
"ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。"
ヘブル人への手紙 4章16節
Zion Williamson
ザイオン・ウイリアムソン
息子が夢中になっているバスケットボール界の新星。
先日高校を卒業したばかりの若干18才。
彼のプレイを見ろ、と言うことで強制されて息子の隣に座って何度かビデオ観戦。
確かに他の選手を寄せ付けない飛び抜けた身体能力とシュートの正確さ。
280ポンドもある筋肉で鎧われた巨体で40インチの垂直飛びが出来る。
相手選手のシュートボールをゴールより高くジャンプして自ら手の手でボールを弾く。
プロリーグのNBAには大学に1年間通わなくてはならないと言うルールがあるとのこと。
そこでつい先ごろ、彼はまもなく終える大学1年の後、NBAへ行くことを表明した。
来年の東京オリンピックには米国代表の1人の選手として来る事はほぼ間違いないでしょう。
大相撲でもやっていけそうな体躯を持ちながら、トカゲのような素早さで相手選手をすり抜け、高く舞い上がってのダンクシュート。
子供たちが夢中になるのも無理は無い。
やがて日本でも注目されるでしょう。
ホサナキリスト教会・日曜礼拝のメッセージノートです。
「大胆に恵みの御座に近づこう」
ヘブル人への手紙 4章14~16節
"さて、私たちには、もろもろの天を通られた、神の子イエスという偉大な大祭司がおられるのですから、信仰の告白を堅く保とうではありませんか。
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。
ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。"
⑴主イエスを知ろう(14)〜その職能を把握せよ
①「もろもろの天を通られて偉大な大祭司となられた」
かつて大祭司アロンは贖罪の日に会衆の面前でさまざまな仕切りを通り至聖所にまで至った(レビ16:15、17)
②本書が論述している「優れた方」
預言者より
天使より
モーセより
ヨシュアより
アロンより
⑵主イエスとともに(15)〜その方は低いところに降って来られた
①人との自己同一性を開拓された主
完全な人間として肉体、感情を備えられ喜怒哀楽を経験して来られた
②自己同一性が成立して始めて「同情」が可能となる
*イチロー選手の引退。
「アメリカに来て、外国人になったことで、人の心をおもんぱかったり、人の痛みを想像したり、今までなかった自分が現れた」「孤独を感じて苦しんだことは多々ありましたが、その体験は未来の自分にとって大きな支えになると、いまは思います」。
国民栄誉賞授与を3回目にして拒否〜「人生の幕を降ろす時に」
⑶主イエスに近づこう
*新しい元号「令和」時代の華やぎと希望
『初春(しよしゆん)の令月(れいげつ)にして、気淑(よ)く風和(やはら)ぎ、梅は鏡前(きやうぜん)の粉(こ)を披(ひら)き、〜』(万葉集)との文言から引用。
「この令和には人々が美しく心を寄せ合う中で、文化が生まれ育つという意味が込められております。万葉集は1200年あまり前に編纂された日本最古の歌集、我が国の豊かな国民文化と長い伝統を象徴する国書であります。悠久の歴史と香り高き文化、四季折々の美しい自然、こうした日本の国柄をしっかりと次の時代へと引き継いでいく、厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、見事に咲き誇る梅の花のように、一人一人の日本人が明日への希望とともにそれぞれの花を大きく咲かせることができる、そうした日本でありたい」(安倍首相談話)
新しい時代を感じさせる、希望を見据えた元号改元である。
春という季節や日本古典からの典拠と言う雰囲気に依拠するのではなく、
私たちが希望を失わずに済む確固とした土台があることを知ろう。
①あわれみと恵みとをいただくために
②折にかなった助けを受けるために
③恵みの御座に近づこう
(結論)
私たちの側には俊敏なユダヤ人弁護士(イエス)が常時ついていることを知ろう。この方は、大祭司として私たちのために執り成しをしておられる。
半日間失っていた財布。
数百ドルの現金やクレジットカード数枚、それにドライバーズライセンスや教会堂アクセスの鍵まで入っている。
机の周りや部屋中探しても、またあらゆるポケットを探しても出てこなかった。
息子に打ち明けてみると、
「車の中を探したか」
「助手席に置いてないか」
とのたもう。
そんなとこに置くわけないよ、と言いながらも行ってみると車の窓越しにちゃっかりと財布が助手席に座ってるのが見えた。
その時の喜び、開放感、満たされた思い(^^)
昨夜息子に運転させて自らが助手席に座った時どうやら財布を持ち出したのを忘れていたらしい。
聖書の次の言葉を思い出しました。
"また、ドラクマ銀貨を十枚持っている女の人が、その一枚をなくしたら、明かりをつけ、家を掃いて、見つけるまで注意深く捜さないでしょうか。
見つけたら、女友だちや近所の女たちを呼び集めて、『一緒に喜んでください。なくしたドラクマ銀貨を見つけましたから』と言うでしょう。
あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです。」"
ルカの福音書 15章8~10節
財布が見つかるまでは食事をしても美味しくなかったし、息子とバスケットボールをしても気にかかって楽しめなかった。
財布がどれだけ貴重かと言えば、百ドル少々の現金と後は時間と手間をかければ回収できるものばかりのはず。
もしも悪用された場合カード会社は補填してくれるし、運転免許証だって再発行すれば良い。
考えてみれば全て取り返しの効くものばかり。
それでもあの半日間は空虚な気持ちでそわそわして生きた心地がしなかった。
「生きるって辛いな〜。こんなことも耐えねばならないなら死んだ方が楽か?」
少々大げさだけど、そんなふうにも思った。
失われた私たちに対して神がどんな思いでいらっしゃるかを主イエスが例えにして教えられた。
上記にある女性が銀貨を失った際の慌てぶりと発見の際の喜びの例え話。
銀貨も財布も取り返しのきくものである。
ところが私たちの命には取り返しがきかない。
そこで神は自らの命を差し出すことを決意された。
私たちが神によって発見されるために、
主イエスが十字架でその命を差し出さねばならなかったのだ。
神の目から見て私たち一人ひとりの命はそれほど重い。
「人の命は地球よりも思い」
ある政治家の言った言葉らしいが確かにその通り。
神のひとり子を犠牲にする程の重さだったのだから。
サンフランシスコのミッション通りは思いっきり異国情緒あふれる界隈です。
アミーゴ!
中南米の移民の方々が多く集まり、どのお店に入ってもスペイン語が行き交ってます。
英語を全く解してない人が多く、私が英語で挨拶しても挨拶は帰ってこないで数少ない店内にいる英語の話せる人と話すことになります。
かなりの巨大なスペイン語圏が形成されていますので、端から英語を話そうだなんて思わないんでしょう。
どのようなことを中国人街に行っても感じました。
「ギャリーさんですか?」
「何ですか?、、、、 誰ですかその人は?」
今朝QFCの店でキャッシャーさんからそんなふうに聞かれたのでした。
ギャリーとは、前ワシントン州知事でこのあたりに住んでいて時たまこの店にも来るのだと彼は説明してくれました。
私は中国人でなく日本人であることを彼に伝えたのですが、
彼によると私が彼にそっくりなのだそうです。
その場を離れようとした時、次のお客さんがキャッシャーに来て私に
「ハイ、ギャリー」と話しかけて来ました。
彼女は私たちの会話が終わってから現れたので何も聞いてませんし、
彼女自身の印象から私をギャリーであると勘違いしてきたのです。
写真で彼女は私を指差しながら、「この人はギャリーだよ」と言ってます。
そんな風に見えますかね?
ナザレにある聖誕教会
ナザレのバザール
「ナザレのイエス」
ナザレ〜それは辺鄙な片田舎であり、
当時の聖書には一度も言及なく
「ナザレから何の良いものが出よう」(ヨハネ1:46)と言われるほど蔑まれたところだった。
そのナザレ出身の学歴なし支持基盤なしの30歳の青年イエス。
数ヶ月前、なぶりものにされた上、
十字架で死を遂げられたばかり。
さらに死から復活されたという知らせは、
弟子たちの間に広まっている。
生まれてこの方、足がなえていて歩いたことない男にとって
突然「歩きなさい」とのペテロの命令はあまりに唐突でハードルが高かったに違いない。
エルサレム神殿の美しの門に物乞いのために置かれていたこの男は、当然のことながらこれまでイエスの噂を耳にしていたはず。
そのイエスに賭けてみることにした瞬間だった。
ナザレのイエスと言う方が行なっていた、
病を癒し目の見えない者を開眼させていた他人事話を、
この時、自分にも適応してみたのだ。
つまりイエスと言う方が聖書に予言されたメシアであり、
神ご自身であり、
不可能はない救い主であられるとの信仰を抱いて自らの足で立ち上がった。
いや立ち上がろうと、決意して意思を動かした。
ペテロはその時、彼を助けて「右手をとって立ち上がらせた」(7)とある。
その瞬間、神の力が彼の全身を貫いてその足は飛び上がるほどまでに頑丈に癒されたのだった。
私たちも同様にしてナザレのイエスと言う方が
死なれたこと
復活されたこと
その前にも、イスラエルの地で様々な奇跡を行われたことを
聖書の中から知ることが出来る。
クリスチャンの知人から友人から聞いたこともあるでしょう。
これが単なる昔話、おとぎ話の段階から
自分自身に適応するときに神のみわざが始まる。
ペテロはその直後、その神のみわざがどうしてこの男に実現したかをまとめている。
"このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。"
使徒の働き 3章16節
①この男を癒した直接要因〜「イエスの名」。
ヘブル的に名前はその人自身を表す。
すなわちイエスご自身。
②この男を癒した間接要因〜「その名を信じる信仰」その男がイエスに対して抱いたメシアとしての信仰のこと。
③信仰の起源〜「イエスによって与えられる信仰」
それ故私たちは自らの敬虔に根拠を置かない。
永久に保証されている救いをいただいているのである。
ホサナキリスト教会日曜礼拝のメッセージアウトラインです。
「ナザレのイエスの名によって」
使徒の働き 3章1~16節
"ペテロとヨハネは、午後三時の祈りの時間に宮に上って行った。
すると、生まれつき足の不自由な人が運ばれて来た。この人は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」と呼ばれる宮の門に置いてもらっていた。
彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた。
ペテロは、ヨハネとともにその人を見つめて、「私たちを見なさい」と言った。
彼は何かもらえると期待して、二人に目を注いだ。
すると、ペテロは言った。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」
そして彼の右手を取って立たせた。するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
躍り上がって立ち、歩き出した。そして、歩いたり飛び跳ねたりしながら、神を賛美しつつ二人と一緒に宮に入って行った。
人々はみな、彼が歩きながら神を賛美しているのを見た。
そしてそれが、宮の美しの門のところで施しを求めて座っていた人だと分かると、彼の身に起こったことに、ものも言えないほど驚いた。
この人がペテロとヨハネにつきまとっているうちに、非常に驚いた人々がみな、「ソロモンの回廊」と呼ばれる場所にいた彼らのところに、一斉に駆け寄って来た。
これを見たペテロは、人々に向かって言った。「イスラエルの皆さん、どうしてこのことに驚いているのですか。どうして、私たちが自分の力や敬虔さによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。
アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち私たちの父祖たちの神は、そのしもべイエスに栄光をお与えになりました。あなたがたはこの方を引き渡し、ピラトが釈放すると決めたのに、その面前でこの方を拒みました。
あなたがたは、この聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、
いのちの君を殺したのです。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。
このイエスの名が、その名を信じる信仰のゆえに、あなたがたが今見て知っているこの人を強くしました。イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの前で、このとおり完全なからだにしたのです。"
⑴足の萎えた男にとって
①施しに頼った生き方
「生まれつき」ゆえに人々の哀れみと善意とに頼る他なし。
「美しの門」に置いてもらう
②賛美する生き方
「躍り上がってまっすぐに立ち、歩き出した」(8)
この受け身から能動への抜本的な生き方改革はイエスの御名を信じる信仰ゆえに与えられたもの(16)
⑵ペテロとヨハネにとって
①午後3時の祈りの時間
ペンテコステの御霊の傾注を受けた直後であるが
規則正しいメソジカルな生活態度が敬虔を修行
②栄光をことごとくイエスに帰している
イエスの名によってなされたいやし(6、12、16)〜直接要因
イエスによって与えられる信仰〜間接要因
⑶地の諸民族(異邦人)にとって
①「子孫」によって祝福を受ける(25)
アブラハムによって確立された契約。
その「子孫」とはイエスのこと(ガラテヤ3:16)
②メシアなるイエスが再び来られる(20-21)
イスラエルにとり「回復の時」であり、
全世界にとって「万物の改まるとき」である
(結論)
ペテロとヨハネが施しを求める男に与える金銀は無かった。彼らにあったもの。
それは、「ナザレのイエスキリストの名」=イエスご自身であり御霊の内住であった。
その方は死と復活を遂げられ(13-15)、
再び天から来られ世界を一新される((20-21)。
これらは代々の預言者らにより定められた契約に基づくものである(24-26)。
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