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主と一つに Becoming One with the Lord

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礼拝後雪が降りだして、子供たち... 礼拝後雪が降りだして、子供たちは外にーーーーー 寒くて積もった雪はしばらくのこ... 寒くて積もった雪はしばらくのこりました。エリックがシアトルセンターをお散歩中。
2019年2月10日日曜日バイリンガル礼拝


みなさん、こんにちは。最近、よく考えさせられていることがあります。それは、「一つになること」です。聖書を読んでいると、いかにこのコンセプトが多いことか、と思います。また、私たちの日々の生活でも、特に結婚生活では、いかに一つになるかが重要になってきます。まぁ、エリックとも良くも悪くも一つになってきて、「あらー、長いこと一緒にいたんだなー」なんて、冗談を言うこともあります。結婚は、イエス様と教会の型でもあります。私たちは、どのようにイエス様と一つになっているでしょうか。

★信仰によって By Faith

咀嚼して一つとなる。By chewing and digesting

ヨハネ6:55-56
わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。For my flesh is real food and my blood is real drink. 56 Whoever eats my flesh and drinks my blood remains in me, and I in them.

イエス様は、この六章の文脈の中でご自分をいのちのパンであるとおっしゃいました。肉と血は、イエス様の十字架の上で裂かれた肉、流された血のことです。聖餐式を思い出してください。これをいただいて、文字通り自分の身体の中にいれるなら、イエス様の内にとどまり、イエス様も私の中にとどまるようになるというのです。この私たちを永遠に生かす、いのちのパンは、信仰によって食べるのです。そして咀嚼し、自分の身体のための栄養とし、そして、今度は私たちの血となり肉となるのです。私たちとイエス様はこのようにして一体となるのです。

★とどまることによって By Remaining

ヨハネ15:5
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。“I am the vine; you are the branches. If you remain in me and I in you, you will bear much fruit; apart from me you can do nothing.

ブドウの木は、つるです。リンゴの木のように枝と幹に分かれてません。リンゴの木のようだと、私たちは太い部分がイエス様で細いところが私かなー何て思うのですが、ブドウはつるですから、どこからどこまでがイエス様で、どこからどこまでが私か、見分けがつかないのです。それほど一体化しているのです。

とどまる= キリストの中に宿る、住む

キリストの内に住み、キリストが私のうちに住んでいるなら、私たちは多くの実を結ぶというのです。私たちはみな、実りの多い人生、有意義な人生、意味のある人生、また周りの人を祝福する人生を送りたいと願っているのではないでしょうか。私たちは、キリストを離れては、そんなことはできないのです。

★みことばにとどまる=愛にとどまる Remaining in word = Remaining in Love

ヨハネ15:7-10
あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。8 あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。9 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。10 もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです。それは、わたしがわたしの父の戒めを守って、わたしの父の愛の中にとどまっているのと同じです。If you remain in me and my words remain in you, ask whatever you wish, and it will be done for you. 8 This is to my Father’s glory, that you bear much fruit, showing yourselves to be my disciples. 9 “As the Father has loved me, so have I loved you. Now remain in my love. 10 If you keep my commands, you will remain in my love, just as I have kept my Father’s commands and remain in his love.

私たちは、み言葉、戒めを守るとなると、ちょっと緊張するかも知れません。しかし、こう考えてみてください。あなたと神様は愛の関係の中にいます。互いに愛し合い、尊敬しあっているのです。神様が嫌うことをしたいと思うでしょうか? 私と夫の関係の中でも、わざわざ夫の嫌がることを私は選んですることはありません。うっかりはあるかも知れませんが。。。愛にとどまっていれば、私たちは、自然にみ言葉に従いたくなるのです。神の戒めを守りたくなるものなのです。
愛というものは、決断が伴います。とどまることは、あなたの決断を要します。何となく、ではなく、自分の意志によって愛するのです。

★主よ主よではなく、御心を行うもの

マタイ7:21
わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。“Not everyone who says to me, ‘Lord, Lord,’ will enter the kingdom of heaven, but only the one who does the will of my Father who is in heaven.

私がまだクリスチャンではない時に、クリスチャンでどんな人だろうとよくよく注目していました。特徴は、とても優しい、そして、芯が強い。揺るがない。そして、強い新年を持っている。上品。という特徴を見ていました。また、自分がクリスチャンになりたての頃、よく家族から、そうでないことでつつかれたものです。。。また、自分がまだ若い信仰の時には、まだまだイエス様の深い愛についてもあまり咀嚼できてなかったです。咀嚼して、完全に自分の体験として、自分の血となり肉とはなっていませんでした。頭の中の知識でした。

★行いの無い信仰は死んだ信仰 No deed, No faith

ヤコブ2:14-17
14 私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行いがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。15 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、16 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。17 それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは死んだものです。14 What good is it, my brothers and sisters, if someone claims to have faith but has no deeds? Can such faith save them? 15 Suppose a brother or a sister is without clothes and daily food. 16 If one of you says to them, “Go in peace; keep warm and well fed,” but does nothing about their physical needs, what good is it? 17 In the same way, faith by itself, if it is not accompanied by action, is dead.

ヤコブ書は、ごもっともなことが書かれています。信じていたら、行動が伴うはずだというのです。確かに、口では「私はクリスチャンなのよ、教会に行きましょう」とか言っていても、未信者であっても、それはクリスチャンらしくないというような行動をしていたら、どうでしょうか。。。その人の信仰は無いに等しいと、未信者でも判断できるのです。

★実=行い Fruit = Deed

私たちが、主と一つになるには、咀嚼が大切です。咀嚼の方法の一つに無くてはならないのは、「行い」です。私たちが神と愛の関係にあり、神の言葉、教えをいただいて、自分の一部になるならば、行動が変わるのです。それでこそ、キリストとあなたが一体化しているということなのです。だからこそ、パウロは、信者のことを小さいなキリストと呼んだのです。行いは、私たちの信仰の実です。

今週、少し考えてみましょう。私は、私の信じていることを行動に表せているか。吟味してみましょう。また、神の愛にとどまること、神のみ言葉にとどまること、たくさん食べて、自分の一部となることができますように。。。聞いたみ言葉を行動に移すことが成長の鍵です。


#ブドウの木 #一つになる #礼拝

ワオ!と言っているユーザー

主を待ち望む Wait on the Lord

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主を待ち望む Wait on ... 木曜日の聖書の学びのひと時。。... 木曜日の聖書の学びのひと時。。。。
毎週、神様に心ふれられています。。
2019年2月17日日曜日礼拝音声は、


イザヤ40:28〜31
28主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。29疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、30若い男もつまずき倒れる。31しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

★イザヤ書の背景
バビロン捕囚、長い間解放されないので、希望を失い、疲れ果ててしまった様子。バビロン捕囚はそもそもソロモンが入れた外国人の女たちの神々が始まりであり、偶像礼拝がそもそもの問題でした。国が分裂することになり、またそれぞれの国は、バビロンとアッシリアに取られてしまうのです。結局、バビロンでは、70年も過ごすことになるのです。これは、孫の世代まで続いたということです。三代、四代。。。何か罪の呪いは三代、四代、しかし、祝福は千代に至る、を思いだいますね。

私たちも神を信じていても自分には手におえないと思う大きな試練が来ることがある。また長く苦しんで脱出の道がなかなか見いだせずに苦しいこともある。とてつもなく遠い道のりに感じる。
また、人はなかなか良い結果が見れないと、心身ともに疲れ果ててしまう。日本の伝道では、特に因習深い地域では、10年やって人がやっとこさ一人救われるというようなケースも少なくない。伝道者たちは疲れ果てるのです。
皆さんも、そのような経験はないでしょうか。

★主を待ち望むもの

●主
28主は永遠の神、地の果てまで創造された方。疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。29疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。若者も疲れ、たゆみ、30若い男もつまずき倒れる。29 He
- 主は永遠の神、すなわち時を選ばない、時を超えて働くことのできる神。全てを無から有に造られた方。疲れることのない方。知恵のある方。この方が、疲れたものに、倒れたものに力を与えることができるのだと言います。

●待ち望む Wait on the Lord

◎待つことと、希望 to wait and to hope
Wait 待つは、原語でカバァqavah
意味は、つなぐ、to bind ロープで、しっかり結ぶことで強くなる、待つ、期待する、希望を持つという意味です。

◎希望は神にかかっている--- 神と繋がってる
新しく力を得Renew
素早く、スムーズに通る、出てくる、捨て去る、全身する、成長する、終えるという意味があります。

◎ 神を信頼して、神にしっかり繋がっているならば、将来に希望をもって待つことができる。神と繋がっているなら、ある時に、劇的に力が与えられ前進させてもらえる。
という意味になります。イメージは、ロープで繋がっている。何もないところからばっと芽がでてくるような。

●神にあって希望を持つ時に

①自分の願いの中に答えがある
  イスラエルの民は、「自由になりたい」という願いだったでしょう。願いは聖なる場所。神が私たちの心に与えるものであり、完成させるのは神である。ピリピ2:13 for it is God who works in you to will and to act in order to fulfill his good purpose.

私のブレイクスルーのきっかけは、私の小さな祈りだった。「神様、幸せになりたい。」その祈りがきかれて、アメリカに来た。来て間もなく、一番初めのチャペルで、私に手を置いて祈った友達が、異言でずっと「Shiawase, shiawase」と言っていた。びっくりした。彼女は日本語が話せないのです。神は、私の祈りを確かに聞いて下さって、ここまで導いて下さったと確信する瞬間でした。

②神との関係

  自分が神にケアをされる存在であることをまず受け入れる。あなたは神にとって何ですか。どんな存在ですか? それがはっきり自分ものになる時に、全ては変わる。私の場合、「私は神の娘です」だった。守られて当然の存在。
  神にその能力があることを信じる。

③それを信じること

④ただし、一つこの上に忘れてはいけないのは、
自分を顧みること

…自分の至らなさを自分のものとして認識すること。Own your fault. 一番から三番までは、聞きやすい。しかし、これをスルーされがち。私たちは、恵みによって、赦され、神の子としての権利がある。しかし、自分を顧み、自分の過去を認識し、神に赦された罪でさえ、その結果によって苦しむことがある。

(例) 家族に伝道する時に、あなたはこんなわがままな人だと知っている、キリストはどこにいるんだと揶揄される。---- 自分の過去を塗り替えるために、家族の前では本当にキリストに従い、愛することを試される。
人間関係のもつれの結果---- 理解してもらうには、変革した私を見てもらわないといけない。
罪の結果---- どんな罪も赦されます、しかし、自分がその罪を赦されたラッキー! ではなく、その重み、その罪による神の悲しみをよく理解してこそ、恵みの重みが理解できる。日々己の十字架を。。。。と書いてあるが、自分の十字架の重みさえ分からずに、イエス様の苦しみの意味は分からない。ですから、今、苦しみに中にあるなら、試練の中にあるなら、自分の過去を振り返ってみるいい機会です。罪、悪行、行動パターン、言動、苦々しい思い、裁き、憎しみなども清算する機会となります。

◎イスラエルにとってのバビロン

これがそもそもの神のバビロン捕囚の目的でした。人は試練に合わなければ自分の過去を振り返り、自分の失敗に真摯に向き合うことがありません。私たちの罪はイエス様によって悔い改めるならすべて赦されます。しかし、人生が変わるためには、何回も同じことでごめんなさいを言っても変わらないのです。自分の、罪のサイクル、傾向を知って、そこから離れる意思がないと繰りかえすのです。この繰り返すサイクルを断ち切るためにも、イスラエル、ユダの民は捕囚で三代、四代と過ごさなければいけなかったのでしょう。
念押しのように、サイクルを断ち切って行く。完全に偶像礼拝の罪から世代ごときれいになることが神の御心だったのでしょう。
しかし、長い間奴隷生活をしている民には、それを忘れて疲れ果ててしまったのです。

★翼をかって上る Soar on wings

31しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。but those who hope in the Lord will renew their strength. They will soar on wings like eagles; they will run and not grow weary, they will walk and not be faint.

鷹は、大きな翼をもっているという特徴があります。鷹は、上昇気流ascending air currentを利用して翼を広げるだけでやすやすと飛ぶ(Soarする)ことができます。羽の下に押し上げる風を受けて、その風に乗っかっているのです。しかし、小さな翼しか持たない雀はどうでしょうか。ばたばたたくさん翼を羽ばたかせないといけません。また、そんなに高いところをとぷこともしません。鷹は、高く高く、自分の力を休めながら上ることができるのです。

私たちも、神様に繋がっているなら、高く高く、ばたばたもがくことなく上ることができるのです。

●その風とは何でしょうか。聖霊様の力です。聖霊様の風は、謙るところに吹いてきます。聖霊様の風は、悔い改めの中に。信仰の故に、またあなたの願いを実現させるために、新しい創造のために吹いてきます。
翼とはなんでしょうか。それは、神を待ち望むことに他なりません。


#イザヤ書 #礼拝

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