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箴言④Sonship 子であること

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箴言④Sonship
2019年6月3日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ


箴言は、父が子に知恵を伝授している書である。家庭で教育していたこと、つまり神の掟に関することを家で親から子に教えていた。
我が子よ。。。父の教えを、母の教えを。。。。

★ 息子よ… My son,
In Proverbs dear “son” (箴言Prov. 1:8, 10, 15; 2:1; 3:1, 11, 21; 4:1, 10, 20; 5:1, 7, 20; 6:1, 3, 20; 7:1, 24; 19:27; 23:15, 19, 26; 24:13, 21; 27:11)
箴言Prov. 1:8 わが子よ。あなたの父の訓戒に聞き従え。あなたの母の教えを捨ててはならない。Listen, my son, to your father’s instruction and do not forsake your mother’s teaching.

V10 わが子よ。罪人たちがあなたを惑わしても、彼らに従ってはならない。My son, if sinful men entice you, do not give in to them.
V15 わが子よ。彼らといっしょの道をあるいてはならない。あなたの足を彼らの通り道に踏み入れてはならない。my son, do not go along with them, do not set foot on their paths;

箴言Prov. 5:1わが子よ。私の知恵に心を留め、私の英知に耳を傾けよ。My son, pay attention to my wisdom, turn your ear to my words of insight,
箴言Prov. 19:27 わが子よ。訓戒を聞くのをやめてみよ。そうすれば、知識のことばから迷い出る。Stop listening to instruction, my son, and you will stray from the words of knowledge.

箴言Prov. 23:15わが子よ。もし、あなたの心に知恵があれば、私の心も喜び、16 あなたのくちびるが正しいことを語るなら、私の心はおどる。わが子よ。よく聞いて、知恵を得、あなたの心に、まっすぐ道を歩ませよ。My son, if your heart is wise, then my heart will be glad indeed; 16 my inmost being will rejoice when your lips speak what is right.19 Listen, my son, and be wise, and set your heart on the right path:
箴言Prov. 13:1知恵のある子は父の訓戒に従い、あざける者は叱責を聞かない。A wise son heeds his father’s instruction, but a mocker does not respond to rebukes.


★ Sonship は、成長、知恵にとって不可欠のコンセプトであり、これを失う、持たない、自分の物にしない者は知恵を持たない。

この書の著者のソロモンは、神に願えと言われて、知恵を願いました。彼は、恵によって、彼の行いによらず、ただで知恵をいただきました。そのために、彼は、栄えました。また、彼は、父ダビデが神の神殿を作るために資材と財産を残し、彼に相続させたので、彼はそれをもって立派な神殿を建てることができました。
これは、私たちが学ぶべき型です。

★ 私たちも、子であるには、親の財産を受け継ぎます。自分で稼いだものではありません。自分の行いにもよりません、法的に、親のものは子であるあなたのものになります。

★ 箴言の中の福音
子であること、息子よという語り掛けは、箴言の中の福音ともいわれています。新約では、私たちは、イエスキリストの贖いの業によって

◎ 神の国の相続財産。
ロマ8:14-17  14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光とをともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。14 For as many as are led by the Spirit of God, these are sons of God. 15 For you did not receive the spirit of bondage again to fear, but you received the Spirit of adoption by whom we cry out, “Abba, Father.” 16 The Spirit Himself bears witness with our spirit that we are children of God, 17 and if children, then heirs—heirs of God and joint heirs with Christ, if indeed we suffer with Him, that we may also be glorified together. 

◎ それに知恵も含まれています。
みなさん、私たちも、その知恵を含んだ神の国の相続財産に預かることができるのです。罪の赦し、永遠のいのち、神の子の身分、天国に行ける約束、日々助けてくださる聖霊様の力、神との関係、聖霊の賜物と、素晴らしい天の相続財産をいただけるように開かれているのです。
それは、この箴言の時代には、血筋によって、父から代々教えられた神の教えを守ることによってでしたが、今は、キリストによって、誰でもアクセスできようになりました。
あなたも今日、神の子となり、神の知恵をいただくことができるのです。

★ 愛の関係によって知恵の伝授
以前に、私たちは、知識があっても、その使い方、知恵が無いといけないというお話しをしましたが、知恵の伝授とは、父を通してなのです。
ある日突然、知識が満ちたら知恵がつくのではありません。人を介して、私たちは伝授されるのです。ユダヤでは、口伝の伝統(タルムード)がありますが、これも、一つの型であると思います。自分たちの守るべき言葉を人づてに聞いて習って覚えていく。なんだか、落語の師匠に着くみたいですね。
御父とイエス・キリストの関係を考えてみましょう。
イエス様は、いつも父を仰ぎ、祈り、時間を過ごし、父のしてることを私はしているのだと言うほど、父から目を話しませんでした。

キリストと弟子たちの関係。
イエス様は、常に弟子たちを同行させ、時間を共に過ごしました。まるで寿司職人のようですよね。私の業を見て盗めというような。。。。私は、若い時に、これが分かりませんでした。牧師夫人が私をいつもキッチンの奉仕や他の奉仕を一緒にするようにし、牧師がいろいろな会議に私を連れて行き、霊的リーダーが私を連れて行きました。初心者クラスにも私は参加し、いろいろなことに私は一緒にいることを牧師にお願いされました。若い時には、どうしてまだ私の役目が無いのに一緒に行かなくてはいかないのかな、とか、ただインストラクション、マニュアルだけくれたらやるのに、効率が悪いな、などとも思いました。ようやく、意味が分かったのは、私に弟子ができてからでした。このやり方でなければ、人の心は育たないのです。マニュアルでは、伝わらない、牧師のまごころであったり、人に対する愛、苦悩、葛藤などは、理解できないのです。今となれば、一緒に奉仕させてもらったことは、私の宝です。
子は、父がそばにいないと育たないのです。
知恵とは、師、と一緒にいることから、共に過ごし、共に働くときに、伝授されるものなのです。それに、目が開かれなければ、私たちはチャンスを逃しているのです。

★ 関係の中で教えを守ることができる
箴言の中では、教えを守ることについて、具体的な事がたくさん書かれています。しかし、それは、父と子の愛の関係の中でしか完成することができません。

ヨハネ14: 23
イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。Jesus replied, “Anyone who loves me will obey my teaching. My Father will love them, and we will come to them and make our home with them.

★ 子になるには、何が必要か。子である資質。
信仰によって
父を愛する。(父を慕う) 
共に歩むことを自分が選ぶこと。(義務感や強いられてではない)
“子”である父を見続ける。父の従ってる神を見続ける。
どんなことがあっても躓くことを拒否する。NO offence

★ 聖書に見る霊的父と子の例
エリヤとエリシャ  
モーセとヨシュア
ナオミとルツ
この三人は、父から離れなかった。慕い求めた。父の信じている神を敬った

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愛は妬まない Agape is not Envy

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愛➄妬まないAgape is not Envy
2019年10月27日日曜日礼拝メッセージ


Ⅰコリント13章4-8
4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、6 不正を喜ばずに真理を喜びます。7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
4 Love suffers long and is kind; love does not envy; love does not parade itself, is not puffed up; 5 does not behave rudely, does not seek its own, is not provoked, thinks no evil; 6 does not rejoice in iniquity, but rejoices in the truth; 7 bears all things, believes all things, hopes all things, endures all things.8 Love never fails. But whether there are prophecies, they will fail; whether there are tongues, they will cease; whether there is knowledge, it will vanish away.

愛の章を読んで、とても不思議に思うことの一つに、愛は妬まないが三番目に来ていることです。前にも言いましたが、これは、コリント人たち、賜物豊かな教会に対してパウロが書いていることだと考えるととても理解できます。賜物も素晴らしいけど、それらを包括してあまりある道がある、それが愛。その愛の中には、妬まないということがある。

★ねたむ神?
これを読んで、聖書をよく読んだことのある人は、あれ? と感じると思います。それは、聖書の中で、旧約の時代から、よく神は、ご自身のことを、ねたむ神という風に表現されているからです。
愛による契約関係にある者の間では妬みは起きて当然だ。神は、ご自身をねたむ神であると言われた。それは、愛の契約の中で。。。。
ヤコブ4:5
それとも、『神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる』という聖書のことばが、無意味だと思うのですか。Or do you think Scripture says without reason that he jealously longs for the spirit he has caused to dwell in us?

ゼカリヤ8:2
万軍の主はこう仰せられる。『わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、ひどい憤りでこれをねたむ』This is what the Lord Almighty says: “I am very jealous for Zion; I am burning with jealousy for her.”

★コリントの文脈から
先ほども話しましたが、この手紙は、コリント人にあてて書いていることです。人々の当時の行動に対して矯正する意味で、神の愛はこうである、ですから、神を信じるあなた方もそのような愛を持つべきであるということになります。その文脈で見てみると、当時は、やれ、この賜物が素晴らしい、やれあの人は力がある、ということや、賜物を持つ人たちがぶつかったり、どちらが正しいかということで混乱していたと思われます。ですからこそ、パウロは、預言する時は、必ず複数の人に預言させそして吟味しなさい、と言ったのです。神の権威の元で、賜物を試しなさい、というのです。その中で、愛は、妬まない。という第三の愛の特徴になりました。

★妬みとは
ヒーリングシアトルでもしていて感じることですが、人が複数集まれば、人は必ず互いを比べたがるということです。これは、ある意味、仕方がないことなのかもしれません。自然に人というのは他人と自分を比べます。

特に、裁き、規制の元では、互いを比べることが激しくなる。
ある程度の緊張があるからです。自分への評価というものが、裁きを左右するからです。

ですから、私は、教室スタイルの弟子訓練が嫌いです。一対一、もしくは、自由の中で、弟子たちに自分で考える力を養い、自分で神様に繋がれるようにすることを好みます。
教室スタイルのクラスとなれば、弟子たちは、すぐに間違ってはいけない、と緊張し、他の人のコメントと、私の反応に過剰に反応します。

そして、どちらが偉いか、どちらが優れているか、どちらが。。。ということになる。

特に恥が強い人にはその傾向が多くみられます。

★自分は重要ではない? Am I insignificant?
恥が狙っているのは、これです。
Feeling unchosen, insignificant ===== a big deal for the inner world.
創世記、アダムとエバのはじめの子供たち、カインとアベル。カインはアベルが神に喜ばれたのをねたんで、アベルを殺してしまいます。
サウルがダビデに対して妬みました。そして、命を狙いました。
イエス様も宗教者たちの妬みによって、結果的に十字架にかけられ殺されました。

ねたみは、人と比べて、自分が重要ではない、取るに足らないと思うことです。背後に恥が働いています。
そして、以前にも話しましたが、この恥は、自分の身体の中に持っておくと、居心地が悪いので、外に出したい、あるいは、外に恥の原因を見出し、それを指をさしている間は感じなくてもいい。または、自分の身体の外で裁きを完成させる時に、すっきりする。ということが起きます。

人の少しの過ちが気になって仕方がない。人のことを気にしすぎる、ゴシップをする。自分に関係ないことでも、首を突っ込みたがる。これも、恥がドライブしているサインです。
自分が重要であり、自分が少しでもましな人間であることを人と比べることによって知りたいというのが、恥のリアクションなのです。

ですから、妬みません、の後に、自慢せず、高慢にならない、とあるのです。この三つは同じ根っこから来ているものだからです。

自分が大丈夫だ、人よりましだ、ということを知りたい、それを強調していないと、自分の存在が危うくなるので、自慢し、高慢になります。

また、
アガペーの愛というのは、一方通行。自分の目的を叶えるのが愛ではない。
見返りを求めるのはアガペーではない。
アガペーは相手のために注がれるものである。自分に帰って来るものではない。
ですから、この後に、愛は、自慢せず高慢にならないとある。
自慢や高慢は、自分が人と比べて高い位置にいることを、一番の目的にしているからこそ、おこること。

★アガペーは妬む必要がない。
愛は、親の顔と顔を合わせね中で培われる。しかし、恥は、親の顔が遠ざかることで起きる。
私たちが神の愛の中にとどまるなら、神の顔だけを見ている状態にあります。
ですから、妬む必要がありません。
神からの愛の言葉を受け取り、神にあって自己充足しているなら、人と比べる必要がありません。なぜなら、あなたは、自分は神にとって重要であることを知っているからです。

★チャレンジ
今日あなたは、自分が神にとって重要であることを知っているでしょうか。
そこに、安住し、とどまり、ひたっいるでしょうか。
神に、自分の弱さを十分に知っていただけているでしょうか。

愛は、妬みません、自慢せず、高慢にならない。
あなたがまず、神の愛にとどまっているなら。。。。

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愛は礼儀に反することをせず。。。

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愛⑥礼儀Agape does not behave rudely
2019年11月3日日曜日礼拝メッセージ


Ⅰコリント13章4-8
4 愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。5 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、6 不正を喜ばずに真理を喜びます。7 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。8 愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。
4 Love suffers long and is kind; love does not envy; love does not parade itself, is not puffed up; 5 does not behave rudely, does not seek its own, is not provoked, thinks no evil; 6 does not rejoice in iniquity, but rejoices in the truth; 7 bears all things, believes all things, hopes all things, endures all things.8 Love never fails. But whether there are prophecies, they will fail; whether there are tongues, they will cease; whether there is knowledge, it will vanish away.

4節では、自分という個人の内面を探られる言葉が並びましたが、5節では、対人関係で現れる愛の姿が描かれていますね。

★礼儀 not behave rudely
礼儀とは、よいマナー。それは、他者をリスペクトすることからきます。
神は礼儀を尊重する方であり、私たちの心を無理やりに開かせようとする方でもありません。
紳士です。
礼儀とは、キリストの品性と慎み深さを反映しているものである。
この四節では、人間関係の中で相手を尊敬するということに光が当てられています。

★自分の利益 not seek its own
愛は、人間関係に現れます。
そして、人間関係は、組織のカレンシー、通貨です。良い関係を互いに交換することで、組織は、より一致し、より潤滑に動きます。その聖書的な文脈の中で、パウロは具体的に、愛というのは、自分の利益ばかりを求めるものではない、むしろ逆をする時に、周りまわって組織の通貨は自分に帰ってくる、私たちは、一つであるからこそ、他の人の利益が自分の利益になることを知りたいものです。私たち、個人主義の社会に居ては、なかなか想像ができないと思いますが、教会だからこそ、それを体験していけたらと思うのです。
ロマRomans12:10
兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。Be devoted to one another in love. Honor one another above yourselves.
ピリピPhilippians2:3-5
3 何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。4 自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。5 あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。Do nothing out of selfish ambition or vain conceit. Rather, in humility value others above yourselves, 4 not looking to your own interests but each of you to the interests of the others. 5 In your relationships with one another, have the same mindset as Christ Jesus:

★怒らず is not provoked
モーセはイスラエルの民にいら立ち、忍耐をなくしたので約束の地に入れなかった。モーセは、民が文句を言って、せっかく大変な信仰と思いをして民を救い出してきたのに、エジプトで死んでた方がましだったなどという、民にイライラしたのです。それで、神の言葉に従って、岩を打つときに、一度打てばいいものを、いらついて二回も打ったのです。
民数記Numbers20:2-11 このうち、v11,12
11 モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。12 しかし、主はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」Then Moses raised his arm and struck the rock twice with his staff. Water gushed out, and the community and their livestock drank.
12 But the Lord said to Moses and Aaron, “Because you did not trust in me enough to honor me as holy in the sight of the Israelites, you will not bring this community into the land I give them.”

神様は、大きなことに召した人のためには、大きな訓練と教えをされるものです。ですから、モーセの場合は、この民を約束の地に導き入れることはできない。。。とされました。ご存知の通り、弟子のジョシュアがそれを成し遂げます。

私たちも、気を付けなければいけません。この箇所では、怒りの感情を持つなとは言ってません。周りの人や環境にいらいらさせられたり、踊らされて、神様の真意を見損なうなという注意です。

イエス様を思い出してもそうですね、イライラさせられることも、たくさんありました。律法学者やパリサイ人の策略やいやな質問、身体の疲れ、宮の状態などなど、しかし、神様の心にいつも焦点を合わして、踏み外すことがありませんでした。

★人のした悪を思わず think no evil
いつまでも、心に人にされたことを引きずり、苦々しい思いを持ち続けない。
愛は、相手が失敗できる余地を与える。人は、失敗を通して学んで成長するもの。愛は、いつまでも一つの失敗を引き合いにだし、人を裁き続けるのではなく、成長を見守るものである。
わたしも、一度の体調不良のため、ある会合に出れなかっただけで、いつまでも攻撃されたことがありました。体調は忙しさと休みの無さのあまりに、限界でした。失敗というよりも、それは、必要な休みでしたが、いつまでもそれをつつかれたことは、つらかったですね。。。
人は、失敗するものですし、未熟さは、何歳になっても、あるものです。
しかし、立ち直れる余地を与えるのは、悪をいつまでも思わない、神の愛です。

いかがでしたでしょうか。今日は、私たちが神を見習って持つべき、愛、対人関係の中で、どのように愛が現れるのか。。。ということを見てきました。
今週も、この愛について黙想し、イエス様に従って行きましょう。


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