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ぼくしのめがね

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悔い改めの力Power of repentance

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昨日、今日とすがすがしいお天気... 昨日、今日とすがすがしいお天気が続いています。
私は、熱が出たりしてましたが、季節の変わり目、みなさんもお大事にしてください。
2018年9月16日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ音声は、


二週間前に、一人の人の救いの尊さ、あなたの尊さ、について話しました。迷子の羊、そして、無くしたコイン、イエス様は、最後に放蕩息子の話しをされました。あなたは、イエス様の大切な羊、価値のあるもの、目的のあるもの、大事な存在であることを話しました。また、放蕩息子の話しでは、あなたのことを神様の子供だとおっしゃっているのです。今日は、見つかった弟の話しではなく、その兄の話しをしたいと思います。

ルカ15:20-32
20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
21 息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。26 それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、27 しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』28 すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』31 父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。32 だがおまえの弟は死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

★弟についておさらい
弟は、自分の罪に気が付き、謙って、自分の悪を全て認めて、父のもとに帰ってきた。
真の悔い改めは、神に向かわせる。自分のプライドや反抗心何て、全てか殴りすてて。自分を助けることができるのは父しかいないと確信しているから。
神、救い主イエス様にわたしたちの心が向かうには、必ず、自分の罪について理解しなければならない。Personal knowledge of our sin and our Savior、Inseparable

★大事なのは、心のつながり
教理や、聖書のお話を知っているだけでは、十分でない。イエス様との個人的な関係がなければ、救いを体験できない。イエス様との個人的な関係とは、自分の罪が分かり、その罪を赦していただくこと。個人的にイエス様を救いのために必要としない限り、イエス様に出会えない。

★ 聖書は、この救いの体験・心の繋がりの継続を勧めています。
コロサイ2:6
あなたがたは、このように主キリスト・イエスを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。So then, just as you received Christ Jesus as Lord, continue to live your lives in him,

キリストの弟子となることは。形式ではない。何々通りに決められたことをしていることではない。さて、お兄さんを見てみましょう。

★お兄さんについて

お兄さんは、死んでいたはずの弟が帰ってきたにも関わらず、全く喜ぶことができませんでした。また、父の喜びと心が一致することがありませんでした。全く、父が理解できないと思ったのです。これは、外見上の宗教に凝り固まった人の特徴と言えます。喜びは天の通貨であり報酬。お兄さんは全く報酬がなかった。。。

〇 宗教の霊=形だけの信仰の特徴
- 喜びない
- パーティに参加しない ---- 喜びの集いに属することに興味がなく価値を見出さない。     
- 自分は奴隷だと文句を父に言う—自分の父を理不尽な人だと思い込んでいる。これは、全ての権威についてそう思っている。
- 父はヤギ一匹くれたことがないと文句を言う---- 報酬を求める。霊的な報酬を感じてないから。それが、地位であったりお金であったり、見返りを求める。
- 父は「あなたはいつも私とともにいる。私の持っているすべてはあなたのものではないか」と。---- 神が共にいて下さるという臨在の中で充足することが分からない。また、神の家族の中にいる充足がない。
- 心が冷たくなっている。裁きで満ちている。= イエス様とのコネクションがない。
  - 救い、赦しを必要としていない。だから、イエス様と個人的なかかわりがない。

◎ 私は、キリストの身体とのつながりとイエス様とのつながりは比例すると思っている。結局コネクションが分からない時に、私たちは、宗教の霊にやられて躓いてしまう。。。
   次のような、罪の根っこに私たちにしがみつくとき、宗教の霊につかまってしまう。
  Legalism & self-righteousness 律法的、自己義 Pride プライド
Judgments 裁き Fear  恐れ、自分の本当の姿を誰にも見られたくない、
Self-pity 自己憐憫 Bitterness and unforgiveness 苦々しい思い、赦さない心

★ 多く赦された者は多く愛するthe more you are forgiven the more you love ルカ7:47 

「この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。」

★ 私の証し

私は、去年、学校でとても嫌な出来事がありました。またそれは、長く続きました。とても理不尽で、差別的にも感じていました。私のセラピストも、非常に私のために怒ってくれましたが、「でも、これは霊的戦いのような気がする。」と言われました。その時は、その言葉を流していたのですが、結局、そのストレスが大きすぎて、身体にも支障がでました。
(続きは、音声から。。。。。)

ダビデは、神よわたしを探り心を知ってくださいと祈りました。私たちも、日々、神様の前に、もしも私の中に私に悔い改めるべきところがあるな示してください、永遠に続く喜びの道に戻してくださいと、祈りたいと思います。

詩編139:23-24

神よ。私を探り、私の心を知ってください。私を調べ、私の思い煩いを知ってください。24 私のうちに傷のついた道があるか、ないかを見て、私をとこしえの道に導いてください。Search me, God, and know my heart; test me and know my anxious thoughts. 24 See if there is any offensive way in me, and lead me in the way everlasting.

悔い改めない心、赦さない心、裁きの心が、神の喜びを私たちと私たちの教会から取り去ることが無いように。今日、もし、手放さなければならないことがあるなら、祈りましょう。
悔い改めは、神とのコネクションの入り口であり、神の祝福の入り口です。
Repent --- opening the door for God.




#イエスに出会った人 #宗教の霊 #放蕩息子 #礼拝

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幸いな人 The Blessed

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今日は、学校も新学期が始まり、... 今日は、学校も新学期が始まり、教会でも、進級式を行い、去年一年、みんなご褒美シールを集めたので、それぞれの長所にしたがって表彰し、ご褒美を渡しました。表彰しているときに、つい、感動して私も声が詰まってしまいました。神の恵みなしに、子供たちは育たないなー神様ありがとうございます。。という気持ちです。。今年も、みんな、頑張ろうね!
2018年9月9日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ音声は、



詩篇 1篇
1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。
3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。4 悪者は、それとは違い、まさしく、風が吹き飛ばすもみがらのようだ。5 それゆえ、悪者は、さばきの中に立ちおおせず、罪人は正しい者のつどいに立てない。6 まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。しかし、悪者は滅びうせる。
★幸いであること
「幸い」は、原語へプル語では、"esher," エシャー>
語源は、"to be straight" or "to be right." まっすぐ、正しいという意味。この言葉は、複数形で使われており、最上級の幸せの表現であり、完全な満たしを表現している。

そして、この幸せの質というものは、魂、霊的レベルのものであり、自分の手で何かを成し遂げた、達成したレベルのものではない。例えば、医者になることでも、地位の高い人になることでもなく、権力をもったり、お金を持つことでもない。本当の魂の充足なのだ。

ですから、この「幸せ」というものは、全世界共通、ユニバーサルなものであります。人は全世界を手に入れても、いのちを失ったら何になりましょう。と聖書が言っているとおりです。

この幸せは、お金持ちで、外見上何も問題なく生きている人にも幸せであり、また、落ちぶれて、悪いことばかりをして、その結果、ホームレスになってしまった中毒患者にとっても幸せなのです。

そして、聖書は、あなたが、どんな過去を持っていようが、今までどんなチョイスをしようが、または、どんなに立派な肩書があろうが、神様が差し出してくださる幸いがあるのだと、皆さんを今日招いているのです。

★人には二つの歩み方がある

その道は、歩みであり、生き方である、両方進行形である。Both progressive. すぐさま、目には見えにくいかもしれない。もしかしたら、正しい者の方が、苦労しているかのように人には映るかもしれない。また、悪い者の方がいかにも、美しく見えるかもしれない。しかし、みなさん、霊的なものは肉の目、世の目には見えないのです。進行形であること、がこれは霊の世界のことであることを指し示しています。私たちは、見えない神を、信じていて、心に否むことのできない確信をもって生きています。見えない世界は、リアルなのです。

① 悪者の道

V1 悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着く

始めは点であっても、最後には道になり、その後は、住み家となる。
thinking, behaving, and belonging
みなさん、私たちのクリエイティビティは、私たちの頭の中にあります。これは、神様のデザインであり、神様と協同作業をするためにそう造られているのです。ですからこそ、神は、信仰を強調されるのです。目に見えないものを信じることが信仰ですから。。。そこから、創造が始まるのです。
悪者のはかりごとも正に私たちの考えから生まれてきます。気をつけていただきたいのは、それが、私たちの願いに基づいていることが多いのです。
前にも話しましたが、願いは聖なる場所です。聖なる能力です。それをどう行動に移すのかが問題となって来ます。
また、ある人は、それを行動に移し、罪人の道に立ちます。そして、行動に移した後には、そこを住み家とし、そこに属するようになります。あざけるものとは、自分が一番偉い人になっている状態です。自分がまさに神になったように、王座に座り、そして、全てを自分の清くない考えで裁いていきます。。。自分が義だと思っている人のことです。
これが、聖書で悪者のと言われる人の生き方です。

② 幸いな人の道

v2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。v3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

- 自分の義ではなく、神のことばによって生きるという人。
- 神から受け取るという謙遜さ。
- 神の言葉を黙想し、思いを巡らすことの祝福。
- 私たちは、教会に行っているだけ、または、メッセージを聞いているだけ、み言葉を読んでいるだけでは、私たちの心は変わらない。神様に出会わなければ。。。
- 神様に出会った人は、自分の義を手放す。そして、神の義に従う。
- また、水路のそばに…表面上では、厳しい環境に見えたりするかも知れない。しかし、根っこで、水源に繋がっているならば、葉が枯れることがないばかりか、たくさんの身を結ぶ。

- 水路は、まさにイエス様です。また、キリストの身体である教会です。個人的に、イエス様に繋がっているか。今日、あなたの心の思いをイエス様と分かち合って、目と目とが合ったか。声をかけてもらったか。個人的にみ言葉が響いたか。。。

- Planted 植えられる---- 神様の摂理を受け入れること。この世は、自分中心。イエス様の弟子さえ、イエス様に選ばれたのであって、自分で選んだのではない。また、場所を示している。毎日、神様と出会う場所、スペースあるでしょうか。神様のことを話す仲間の場の中に植えられているでしょうか?

- 黙想をするには、私たちが鈍いからというのも一つの理由です。しかし、同じみ言葉を何度も何度も読んで、思いを巡らすうちに、神様の語りかけが、気づきが後から後から来るのです。ぱっとみ言葉を読むだけではなく、羊や牛のように反芻するのです。

- また、キリストの身体に植えられて、周りの人の証しや、みなさんが体験した神様のみ言葉を分かち合っていただき、それを聞くことも私たちには、霊の肥やしなのです。決して軽くみることができない。

- そういう人は、時が来ると実がなる。。。これも、霊的なことです。実は、いつ、なり、いつ育つか人には分からないのです。。。夜、皆が寝静まっている時に、いつの間にか育つのです。肉の目で見定めることのできない、霊の出来事です。

★ 今日子供たちの進級式でしたが、子供たちは、毎週きちんとみ言葉を暗唱してきました。大変な霊の賜物をいただきました。若いうちに、心に入れたみ言葉が、物事を考えるときに、きっと、出て来て、彼らの人生を助けることでしょう。大人も、見習って、9月から、み言葉を黙想することを大切にしていきましょう。そして、毎日必ず、今日、イエス様と目があったかな。イエス様に私を見ていただけたかな。イエス様の義で、毎日、まっすぐに、そして、正しいものとされ、私たちの心の王座にいつもイエス様に座っていただきましょう。

ワオ!と言っているユーザー

失った一匹の羊

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礼拝後に、ボーイズは、大好きな... 礼拝後に、ボーイズは、大好きなお兄ちゃんと、七ならべを楽しんでいます。。。 今週は、新しいおばあちゃんも礼... 今週は、新しいおばあちゃんも礼拝に来てくれました。
子供たちにとっも、おばあちゃんにとってもいろいろな世代と交流できて、ランチタイムや、礼拝後のおやつタイムは、貴重な時間となっています。
2018年9月2日日曜日バイリンガル礼拝メッセージ音声は、


ルカの15章は、聖書の中の福音の中の福音と言われている箇所です。神様の良いニュース。神様の救済のエッセンスが込められています。三つの失ったものがでてきます。今日は、はじめの二つから。

ルカ15:1-10
1 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。
2 すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。4 「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。
5 見つけたら、大喜びでその羊をかついで、6 帰って来て、友達や近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。
7 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。8 また、女の人が銀貨を十枚持っていても、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。9 見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。10 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」

★ 罪人と食事をするイエス様
先週は、取税人ザアカイの話しでしたが、今週のルカ15章は、イエス様がそんな取税人や罪人と食事を一緒にしているということで、パリサイ人、律法学者たちがイエス様を責めて詰め寄っているシーンからです。

◎ 当時、ユダヤ人たちは罪人と言われる人たちと付き合いをしないようにしていました。ですから、イエス様が罪人たちとハングアウトしていることが大きな信仰の躓きとなりました。イエス様のような行動をするということは、神の心が分からない人たちをますます神から話す、分裂をもたらすことがあります。このシーンでクリアに私たちには理解できます。日常の中で、注意してください。分裂、人が信仰を持てなくさせたイエスが悪いのだろうか。それとも、躓いてしまうパリサイ人たちに問題があるのだろうか。真理が必ずしも、人に歓迎されるとは限らない。。。

◎ パリサイ人たちは、罪人と取引、ものの売買をすることを禁じていた。そういう人たちと交われば、自分が汚れると考えた。また、ラビたちは、そういう人たちに神の言葉を教えなかった。しかし、イエス様は、ラビであるが、彼らと親しくしていた。これは、衝撃的なことであった。

◎ 私たちも少し、立ち止まって考えてみたい。つばは、口の中にある時には、雑菌を殺すいいものである。唾液は、たくさん出ている方が虫歯になりにくいともいわれている。しかし、一旦、口の外に出ると、侮辱の意味があり、人は、汚いと感じ、そのつばに触れたくないと思うものであります。
罪人も、そのようなものかも知れません。。。。続いて、イエス様は次のような有名なたとえ話をされます。

★ 羊飼いの話し

羊飼いは、一匹の迷子の羊を、99匹を置いても探しに行くというお話し。

◎羊とは

羊は、聖書で人間に例えられる。よく似ている。視力が極端に弱く、先が見えにくい。人間も、将来のことが見えない。自分の身の周りのことだけで精いっぱいです。野生の羊はいない。必ず、羊飼いに飼われないと生きていけない。人も、誰かに世話されないと人間として育たない。これは、赤ちゃんとしてもそうだし、霊的にもそうです。霊的な育ててくれる、一緒に歩いて教えてくれる先輩がいないと、霊的な成長はありません。一匹オオカミはいても、一匹羊はいないんです。一匹羊でやっていきますと言っても、牙や、強い角があるわけでもない、目の見えない羊が、猛獣に勝てるはずがないのです。

当時、イスラエルは、青々と茂る牧場で羊を飼っていたわけではない。ちょろちょろと生える岩間の草を食べるのです。けれども、羊飼いが食べ物のある所に連れて行き、水を飲ませるのです。私たちの詩編23篇で想像するような、ハイジのような世界ではないのです。すぐ先は、がけ、すぐ砂漠がある。など、結構危険なところで生きていたのです。ですからこそ、羊飼いなしでは、羊は命の危険にさらされるわけです。

よく考えてみたら、私たちの人生のようです。一難去ってまた一難。楽な人生を送っている人が果たしているのでしょうか。試練の無い人はいないのです。

◎羊は、群れでいる時安全であり、守られる。右向け右で、団体行動をすることもあって、守られる。また、臆病で、目の見えない羊は団体行動に向いている。逆に言えば、極端に孤独に弱い。一匹群れから離れると、パニクッて余計に逆の方向に行ってしまったりと、一人よがりにどんどんあてずっばの場所に行ってしまい、ますます迷ってしまうそうだ。なんだか。。。自分のことを言われているみたいですね。ですから、失った羊という、失うというのは、迷子の羊というより、滅びの、という意味があるそうです。ですから、まさに、群れから外れるということは、滅びの道に向かうということでした。

◎羊は、村全体の財産で、二、三人の羊飼いたちが羊を連れて行っていたそうです。羊一匹一匹に名前を付けて、大切にしていました。もしも、一匹死なせようものなら、相当な責任を問われたそうです。その羊の毛を刈ってなぜ死んだかしっかりと説明する義務がありました。

◎羊飼いは、羊を肩に担いで帰る。はぐれた羊は、パニックになっているので、羊飼いが肩に担いで、全面的に運んであげる必要があります。私や、みなさんにも、そのような経験があってこそ、今ここに存在ているのではないのでしょうか。

人生のどん底、自分の力でどうしようもない時、奇跡が起こって、神様がまるで、持ち運んでくださって、安全なところに自分を運んでくださった。というような。私も、思えば、そんなことがたくさんあって、今日生きています。救われた時は、もちろん、バーンアウトして鬱になったときも、自分が死んだような時、迷い切ったときに、自分を担いでもとに戻してくれたのが、神様でした。

救い、軌道修正はいつも、イエス様の一方的な恵みです。

◎羊飼いが羊を担いで帰って来ると、村全体が大喜びして迎えたそうです。そうです。失ったもの、滅びようとしていたものが帰ってきたのですから。。。。
イエス様の恵みによる救い、帰村は大変な喜びをもたらします。

どうして羊飼いなるイエス様は、一方的な熱心な愛で、迷い出て滅びに向かう私たちをそんなにも必死に探してくださるのでしょうか?
そこで、イエス様は続いて、二つ目のお話をされます。

★ 二番目のストーリー、銀貨の話し

自分の銀貨がなくなったら、えらいことです。私たちも例えば、家に10万円あって、一万円足りなかったら、血眼になってその一枚を探すのではないでしょうか。

価値のあるものであることが一つ、また、自分のものであることが一つ。人のものだったら、そんなに必死にはならないでしょう。でも、あなたの大切な宝物がなくなったら必死になるのです。

また、それがどうしても必要だったから。目的があって、10枚あったのでしょう。目的のない銀貨はありません。当時のパレスチナ、10枚の銀貨で髪飾りを作り、それを今でいう結婚指輪の代わりにし既婚のしるしとして身に着けたそう。せっかく結婚の用意ができたのに、せっかく苦労してためた10枚の銀貨がなくなっては困ります。

God says, “you are mine.” You hold God’s purpose.

★ 今日、覚えていただきたいことは、あなたは、神の大切な存在。神に属する存在です。次のたとえ話ににもあるように。あなたは、大切な神の子供です。また、あなたには、価値があります。そして、あなたの人生には、目的がはっきりあります。
ですから、イエス様は、探さずにおれない。

どこまでも、見つけに行く、危険を冒して、険しい崖も、くらい夜道も、くまなく探すのです。神の、熱い熱心。愛。が、あなたを探したのです。
私たちは、群れから離れては、生きて行けません。一人ではどんどん違う方向に行ってしまうのです。野獣がいつでも襲って、食べられても仕方がないほど弱いそんざいなのです。ですからこそ、互いに集まることをやめてはいけないのです。

イエス様は、だから、熱心に罪人を探し、訪問し、友達になり、食事を一緒にしていたのでした。滅びないために。
イエス様は、今日もあなたを探しておられます。
イエス様は、今日もあなたを担いでくださいます。自分で解決できない、力がないと思うなら。

★ 私は、もとホームレスの人で今は、ホームレスから立ち直り中毒症から立ち直ろうとしている人たちを助けている人に会いました。この人にイエス様を見ました。その、熱心さ。決してあきらめない姿に。自分も、見つけられたから。彼女も見つけるんだ。。。。と思いました。イエス様のその熱心に私たちを求めてくださる、その愛に今日立ちかえりましょう。あなたは、一匹の羊です/でした。


#イエスに出会った人 #礼拝 #羊

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