★イエス様のうめき
イエス様はラザロの死に際して、呻かれました。
ヨハネJohn 11:33-35
そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、34 言われた。「彼をどこに置きましたか。」彼らはイエスに言った。「主よ。来てご覧ください。」35 イエスは涙を流された。
Therefore, when Jesus saw her weeping, and the Jews who came with her weeping, He groaned in the spirit and was troubled. 34 And He said, " Where have you laid him?"
They said to Him, " Lord, come and see."
35 Jesus wept.
★死んでも生きる永遠の命とは
ヨハネJohn11:25-26
イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。26 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」Jesus said to her, “I am the resurrection and the life. The one who believes in me will live, even though they die; 26 and whoever lives by believing in me will never die. Do you believe this?”
心理学的に話すと、トラウマの癒しのためには、うめきが一つのプロセスとなります。体の中にうごめく苦しみを感じなければ癒しには到達できないのです。何も感じないで感情の癒しを得ることは無いのです。
トラウマの癒しの先駆者の一人、Peter A. Levineは、著書Walking the Tiger の中で、昔からある土着の信仰や癒しの方法でも、トランス状態で体に苦しみうめきを体験したりして癒しに導くとあります。キリスト教でも、聖霊に触れられた時に癒しが起きますが、みんな何が起きているか頭では分かりませんが、聖霊様が臨んでミニストリーしてくれている間、身体の中にうめきを感じることが多いです。私の体験はそうでした。
イエス様が十字架前に、死に面して感じられたうめき、十字架上で感じられたうめきは、私たちの癒しのためであったのです。イエス様は、私のためにうめいてくださったのです。
自分のうめきをイエス様のうめきの中に見る時に私たちは癒されるのです。
★聖霊様のうめき
今は、イエスを信じる者たちの内に聖霊様が宿られます。聖霊様のうめきが次のように記されています。
ロマRomans 8:22-23,26-27
私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。22For we know that the whole creation groans and labors with birth pangs together until now.
23 Not only that, but we also who have the firstfruits of the Spirit, even we ourselves groan within ourselves, eagerly waiting for the adoption, the redemption of our body.
御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。
26 Likewise the Spirit also helps in our weaknesses. For we do not know what we should pray for as we ought, but the Spirit Himself makes intercession for us with groaning’s which cannot be uttered.
27 Now He who searches the hearts knows what the mind of the Spirit is, because He makes intercession for the saints according to the will of God.
聖霊様は今日も私たちのためにとりなし、回復と癒しのためにうめいておられます。
★贖いは今日あなたのものに
ヨハネJohn19:30
イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。When he had received the drink, Jesus said, “It is finished.” With that, he bowed his head and gave up his spirit.
使徒2:31
それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない』と語ったのです。Seeing what was to come, he spoke of the resurrection of the Messiah, that he was not abandoned to the realm of the dead, nor did his body see decay.
ヨハネ12:24
まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一粒のままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。Very truly I tell you, unless a kernel of wheat falls to the ground and dies, it remains only a single seed. But if it dies, it produces many seeds.
ルカ 9:23, 24
イエスは、みなの者に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。 自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。Then he said to them all: “Whoever wants to be my disciple must deny themselves and take up their cross daily and follow me. 24 For whoever wants to save their life will lose it, but whoever loses their life for me will save it.
イエスは、素っ裸でうたれた傷を隠すことなく、自分の弱さを隠すことなく十字架に罪人として掛けられて、本来完全無欠、全知全能の神であるのに、死にゆく姿を人々に見せるという究極のVulnerability を示された。
このイエス様は、私たちの罪を赦し天国へ導いてくれる、ご自身を神への全焼のいけにえとして捧げられた大祭司であります。
そして、
へブル書4:15では、
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。For we do not have a high priest who is unable to empathize with our weaknesses, but we have one who has been tempted in every way, just as we are—yet he did not sin.
② 愛において…愛が無ければ、私たちは互いに興味を持ちません。相手を知りたいと思うから、歩みよりがあるのです。知ろうとすることが愛の始まりです。
③ 喜びにおいて…あなたがわたしにいるように。。。ヨハネ六章に祈りがきかれたとき、あなたがたの喜びが満ち溢れるためだ、と書いている箇所がありますね。一人で喜ぶより、誰かと喜んだ方が、喜びが倍増しますね。「ねーねー聞いて聞いて-」と誰かに言いたくなるのも、喜びがあふれるためです。また互いの繋がりが深くなる。
ヨハネ3:16
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。For God so loved the world that he gave his one and only Son, that whoever believes in him shall not perish but have eternal life.
v15 イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。16 あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」And he said to them, “I have eagerly desired to eat this Passover with you before I suffer. 16 For I tell you, I will not eat it again until it finds fulfillment in the kingdom of God.”
V19-20 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」20 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。And he took bread, gave thanks and broke it, and gave it to them, saying, “This is my body given for you; do this in remembrance of me.”20 In the same way, after the supper he took the cup, saying, “This cup is the new covenant in my blood, which is poured out for you.
① イザヤIsaiah 51:1
義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。“Listen to Me, you who follow after righteousness, You who seek the Lord: Look to the rock from which you were hewn, And to the hole of the pit from which you were dug.
惰性や習慣ではなく、神に新しく出会い、神の義を求めるもの、神を求めるものは、自分の出てきた所、どこから救われたのかを見なさいと言われます。
② 黙示Rev. 2:4
しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。Nevertheless I have this against you, that you have left your first love.
次の節では、だから「悔い改めなさい」と書いてあります。私たちは、悔い改める時に、いつでも初めのあの愛に帰ることができるのです。
① 恥…自分の過去を振り返れない時、そこには、恥の問題があります。もうあれは終わったことだから。過去のことを思い出して嫌な気持ちを再体験したくない。暗い気持ちになりたくない。何て思う方も多いです。私も、クリスチャン生活が浅い時はそうでした。けれども、何回もその思い出に空気を入れるのです。恥は、自分から自分の感情をも隠そうとし、癒しを遅らせるのです。何回も訪れて、何回もイエス様がここに来てくださったということを確認するところに癒しがあり、恥の思いが小さくなります。恥の思いが小さくなれば、自分から、また人から隠れなくてもよくなり、また、それも証しとなるのです。時々、本当につらかった思いや、自分の黒歴史について全く証しできない方もいますが、もしかしたら、恥にふたをしてしまっているのかも知れませんね。
② 宗教
過去を振り返り、自分を省みれない理由の一つに宗教の霊があります。または、み言葉の未熟な適用と言ってもいいかもしれません。聖書では、後ろのものを振り切って前を向いて、何て言葉もあり、私はもうイエス様の十字架と一緒に死んだのだから、ポジティブしかない、なんて思ったり、または、イエス様はどんな罪だって赦してくれる、だから、今日の罪も赦されるから向き合わなくてもいい。というような間違った適用もすることがあるでしょう。
① 肉の弱さ、精神の弱さ、過去のトラウマ、心の傷、過ち、罪に対する脆弱性
---- いつ気づくか、人との関わりの中で。コリントの人たちは注意されて気がつくチャンスをもらいましたね。
----- 聖書の言葉を通して。聖書は、従った見たときに、自分の弱さを実感させられます。けれども、それと同時に神の力を経験させてもらえます。
② 弱さの力
キリストの愛は、雄弁eloquenceさや能力を通して伝わるのではなく、むしろ弱さを通して伝わる。このコリント人たちがまさについていることですが、この世の霊に私たちは気を付けましょう。この世は、見た目が強いほど良いと思われるのです。ですから、私のように、言葉が遅い、もじもじしていると、馬鹿に思われたり、能力がない、知性がないと思われるのです。
しかし、神の福音や、神の愛というものは、能力や雄弁さを通しては伝わらないことを覚えていてください。
弱さは、世の人の心をつかんだり、効率よく人を集めないかも知れません、しかし、不思議な方法で神の愛が伝わるのです。これは、人の業ではなく神の業だからです。私たちの側ですることがあったら、祈りと愛することです。