“地味な樹”《襍感・/・点描‘17-17’》

ソテツ(蘇鉄) ソテツ科(Cycadaceae)
学名:Cycas revoluta Thunb.

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ソテツ(蘇鉄)
雌雄異株で、雄花は50cm~1mの先の尖った円柱状で、鱗片の間に花粉嚢が密生する。
ソテツの名は、枯れそうになった根に鉄屑を与えたり幹に釘を打つと蘇ることから付いた。
雌花は炎のように燃え上がる姿をした大胞子葉で包まれ、その中にオレンジ色種子を付ける。
日本では九州南部から沖縄に自生しているといわれている。
低木で幹は柱状、高さ2-4m位、表面は枯死した葉柄の基部に覆われている。
葉は茎頂に集まってつき、長さおよそ1mの1回羽状複葉、表面は深緑色で光沢がある。

研究者ノート(筑波大・國府方吾郎)
『ソテツのなかま(ソテツ目)は、1億5千万年以前の中生代中期にもっとも栄えた裸子植物で、
その形態や生殖様式が原始的であることから「生きた化石」とよばれています。
ヤシに似ているため、学名もドームヤシのギリシャ語[Koikas]に由来すると考えられています。
しかし、ヤシは被子植物で、ソテツはイチョウやマツと同じように裸子植物ですので、
両者は系統学的にかなり遠縁で、いわば他人の空似です。
裸子植物で、イチョウと同様に中世代のジュラ紀の地層から
多数のソテツ属の化石が発見されており、生きた化石ともいわれる所以である。
根に珊瑚状の根粒がある。幹は高さ8mになるものもある。
古来、不老長寿の効あり、とも言われたのはその豊富なでんぷん質のせいかと思われる。
沖縄では食料事情の悪いときにこのソテツの実から澱粉を取って足しにしていた由。
だが、水さらしが十分でないと中毒症状を起こすこともしばしばであった。
これを「ソテツ地獄」と呼んだそうである。』

ソテツといえば、子供の頃、ご近所のお宅の裏庭に大きなソテツの樹があった。
夏、この樹にカナブンが集まってきた。又、クワガタもいたような気がする。
昆虫採集に事欠かなかったあの頃を思うと、今は昆虫が少なくなった。
昆虫に限らないが、何でも手に入れることが容易になった今の時代。
お陰でペットも色々多種になった。又、ペットが逃げ出し野生化して問題になることも。
今、鎌倉市内で当たり前の様にどこでも見れる「タイワンリス」。
このリスは、伊豆大島からの移住到来種と云われている。
前の東京オリンピック(昭和39、1964年)でヨット会場になったのが藤沢市江ノ島。
1965年から1974年まで江の島ー伊豆大島間に高速ジェットフェリーが定期運航されていた。
その船に乗って大島から逃亡した「タイワンリス」が、緑濃い三浦半島で繁殖したと云われる。
2009年より年3回、直行便の運行が再開された。懐かしく昔の記憶が甦える。
話をソテツに戻して。。。! ソテツと母の思い出。
ソテツの葉を煮出していると、トウモロコシやそら豆を煮ている様なにおいがする。
黒々とした葉の姿からして濃厚な染液が出るやに思えるが普通の水ではなかなか色が出ない。
試行的にアルカリ水で煮出すと、薄黄色の液になったと記憶している。
なんとなく白濁でトロミがあるのは、多く含まれるでんぷん質によるものか??
努力してソテツ液で媒染するとあっさり色。鉄分での媒染で明るい飴色や枯野色とは、見事だ。
母は、楽しみで子供の浴衣等を自分で染めていた。戦後の物資のない時代だったからか??
記憶にあるのは、泥染め時、ソテツの葉を泥の中に入れていたこと。そんな事を思い出す。


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《時節感慨・・ひとりごと・・》
先日終戦(敗戦)の詔書を改めて読んでみた。終わりがあるのだから始めもある。
と大東亜戦争(太平洋戦争)の開戦の詔勅(米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書)を読んだ。
<現代語訳文(正確な訳文か否か??>
神々のご加護を保有し、万世一系の皇位を継ぐ大日本帝国天皇は、
忠実で勇敢な汝ら臣民にはっきりと示す。
私はここに、米国及び英国に対して宣戦を布告する。
私の陸海軍将兵は、全力を奮って交戦に従事し、
私のすべての政府関係者はつとめに励んで職務に身をささげ、
私の国民はおのおのその本分をつくし、
一億の心をひとつにして国家の総力を挙げ
この戦争の目的を達成するために手ちがいのないようにせよ。
そもそも、東アジアの安定を確保して、世界の平和に寄与する事は、
大いなる明治天皇と、その偉大さを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、
遠大なはかりごととして、私が常に心がけている事である。
そして、各国との交流を篤くし、万国の共栄の喜びをともにすることは、
帝国の外交の要としているところである。
今や、不幸にして、米英両国と争いを開始するにいたった。
まことにやむをえない事態となった。このような事態は、私の本意ではない。 
中華民国政府は、以前より我が帝国の真意を理解せず、みだりに闘争を起こし、
東アジアの平和を乱し、ついに帝国に武器をとらせる事態にいたらしめ、もう四年以上経過している。
さいわいに国民政府は南京政府に新たに変わった。帝国はこの政府と、善隣の誼(よしみ)を結び、
ともに提携するようになったが、重慶に残存する蒋介石の政権は、米英の庇護を当てにし、
兄弟である南京政府と、いまだに相互のせめぎあう姿勢を改めない。
米英両国は、残存する蒋介石政権を支援し、東アジアの混乱を助長し、平和の美名にかくれて、
東洋を征服する非道な野望をたくましくしている。
あまつさえ、くみする国々を誘い、帝国の周辺において、軍備を増強し、わが国に挑戦し、
更に帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与へ、ついには意図的に経済断行をして、
帝国の生存に重大なる脅威を加えている。
私は政府に事態を平和の裡(うち)に解決させようとさせようとし、長い間、忍耐してきたが、
米英は、少しも互いに譲り合う精神がなく、むやみに事態の解決を遅らせようとし、その間にもますます、
経済上・軍事上の脅威を増大し続け、それによって我が国を屈服させようとしている。
このような事態がこのまま続けば、東アジアの安定に関して我が帝国がはらってきた積年の努力は、
ことごとく水の泡となり、帝国の存立も、まさに危機に瀕することになる。ことここに至っては、
我が帝国は今や、自存と自衛の為に、決然と立上がり、一切の障害を破砕する以外にない。
皇祖皇宗の神霊をいただき、私は、汝ら国民の忠誠と武勇を信頼し、祖先の遺業を押し広め、
すみやかに禍根をとり除き、東アジアに永遠の平和を確立し、
それによって帝国の光栄の保全を期すものである。
天皇の署名と印
昭和十六年十二月八日
*  *  *  *  *  *  *
始まり、と終わりの詔書を読み史実を遡って考え合わせると、感慨深いものがある。
1950年代幼・小・青年期を過ごす、当に「自虐史観」を教えられていた。
そんな中、小6担任の先生は、全きの軍人感覚の持ち主で誇りある日本人感覚を示して下さった。
そして、中学生時代に体験した「いじめ」、これらのことが僕の感性の源と思っている。
「護憲」「今の日本は、平和」等々と言い切っている国会議員。。。!?!
わが子たちには、比較衡量、物事を真摯に受け止める、
他人の論理をも受け止めた上で物事を思考できる人に育って欲しい。

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