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栃木県の歴史散歩

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宇都宮家弘安式条

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 モンゴル軍が、わが国へ二度目の襲撃をかけた事件(弘安の役)の翌々年の弘安6年(1283)、下野の豪族宇都宮氏(景綱の時代)が一族の統制強化をねらった独自の「家法」を制定した。「宇都宮家弘安式条」といい、わが国の武家法の中で最古のものである。
 執権北条泰時が、鎌倉幕府の根本法典「御成敗式目」(貞永式目)を制定してから、わずか50年しかたっていない。その後作られた他の豪族の家法と比べると御成敗式目を見習った点が目立ち、観念的で〝土着性〟が薄い。しかし、宇都宮氏の所領支配の仕方、当時の状況などが、具体的にわかって大変興味深い。
 宇都宮氏は鎌倉幕府草創以来、幕府の要職にあり、文化的にも活躍した、鎌倉時代を通じてトップクラスの御家人。まっ先に家法を制定した原因も、このへんにあるようだ。
 政治上の活躍からみると、宇都宮氏は頼朝から、伊予(愛媛県)と美濃(岐阜)の国の守識に任じられている。
 また、頼綱は北条時政の娘をめとって泰綱をもうけ泰綱は北条朝時の娘をめとって景綱をもうけている。当時、有力な御家人はたいてい、北条氏と婚姻関係を結んでいる。宇都宮氏も時流をみるに敏だったといえる。
 鎌倉幕府には嘉禄元年(1225)、執権北条泰時が創設した「評定衆」という職制があった。北条氏一門や有力御家人で構成。裁判や政務を合議・裁決した幕府の有カポストである。
 泰綱は18年間も評定衆をつとめ、その子景綱も引付衆から評定衆へ昇進。引付頭人になっている。引付衆とは建長元年(1249)、執権北条時頼が設置。評定衆の下で裁判の迅(じん)速。正確を期す役目。引付頭人とは引付衆の「かしら」の意味で、評定衆が兼ねた。
 文化的にも極めて進んでいた。よく知られているように、宇都宮一族には和歌をたしなむ人々が多く、京・鎌倉に次ぐ地方歌壇=宇都宮歌壇が成立した。
 加えて景綱は廂番(ひさしばん)、御格子番(みこうしばん)、昼番(ひるばん)など、いわゆる鎌倉番衆の中でも重要度の高い番衆に加えられている。廂番とは将軍の寝所を守る任務。御格子番とは営中に宿直して格子の開閉を掌った。昼番とは文武遊芸中、特に一技に秀でた者を営中に結番させたもの。景綱は蹴鞠(けまり)が巧みだったところから加えられたのだろう。
 この式条は全文70ヵ条で、次のように分類できる
(カッコ内は条数を示す)
一、社寺に関する規定(24)
二、裁判方法に関する規定(2)
三、相論(訴訟)に関する規定(11)
四、幕府との関係を示す規定(2)
五、一族・郎党に対する統制策(31)
 まず神社・神宮寺などの修理、社官、僧侶祭祀、法令、湯屋、社頭(神社付近での)狼籍の禁止などに関するかなり詳細な規定が目立つ。
 宇都宮氏は代々、宇都宮二荒山神社の社務職を世襲する家柄だった。特にこの条文がくわしいのも当然である。
 次に裁判方法、相論(訴訟)に関する規定についてこの式条は民事、刑事の訴訟に関する細かい手続きまで決めている。宇都宮氏の行う裁判は、単に警察権に付随したものだけではなく、所領内のあらゆる階層のあらゆる紛争を解決する目的と力をもっている。幕府からは、何も干渉されず、一定のルールに従った裁判を行っていたことに注目すべきである。宇都宮氏の支配圏はまるで一つの独立国のように思える。
 そして、さまざまな事件を審議・裁決していた機関が「内談衆」である。式条からその存在がうかがえる。宇都宮氏の一族と有力な家臣の中から選ばれた人が構成していたものだろう。
 内談衆会議の下に、「田所」(土地関係の事務を掌る)や「検断所」(所領内に発生した刑事犯罪人の検断を掌る)がある。この存在も式条に認められる。
 いずれも宇都宮氏領内の統治機関として、重要なものだった。この情か式条には、鎌倉時代の宇都宮氏支配圏の様子を知る興味深い規定があるが、それらについては別の機会にゆずろう。
 ところで、式条が制定された弘安年間(1278-87)は、幕府政治が従来の執権体制から「得宗(とくそう)専制」へ移行する時期だった。得宗とは執権北条氏の嫡流のこと。
 特に弘安8年(1285)の「霜月騒動」で、一般御家人の代表安達泰盛(執権北条時宗の外戚=がいせき)が壊滅させられてからは、得宗家の被官(家来)=御内人(みうちびと)による幕府政治の専制化が強まっていく。この時、景綱は評定衆の一員だったが、泰盛の妹婿だった関係上、一時的に政界からの失脚を余儀なくされていた。ここで注目されるのは、女性の所領についての式条の規定である。当時は女性も所領の相続権が認められていたが、式条では「かの一期(いちご)ののちは本郷に付せしむべし」とある。「女子一期分の制」と呼ばれるものだ。これは、所領を相続した女性が死んだ場合は、領地を一族の惣領(そうりょう)に返すことを決めたもの。財産が分散され、「家」の勢力が衰えるのを防ぎ、惣領の権限を強めよう、という日的だ。
 以上のことから、宇都宮家が弘安式条を制定した意義は、内部的には惣領権を補強して一族の結合と家臣支配を再強化し、宇都宮氏の支配体制をいっそう拡充しようというもの。対外的には、足場を固めて、得宗体制に対決しようとしていた点に求められる。なお、鎌倉時代に宇都宮氏と並んで、独自の成文法規を制定していた豪族として、豊後国(大分県)の大友氏、筑前国(福岡県)宗像神社の社家宗像氏がある。

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創立140周年を迎えた宇女高

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 明治新政府は、国民皆学めざし、1872(明治5)年学制を頒布した。しかし栃木県の女子就学率は低調で全国平均を下回っていた。1875(明治8)年、栃木県令鍋島幹は、女子教育の振興をはかり、女学校設置を決定した。学校名は栃木女学校、設置場所は当時の県庁所在地である都賀郡薗部村(現在の栃木市入舟町)とし、10月10日付で生徒公募を公示した(この10月10日が宇都宮女子校の創立記念日である)。12月24日には、初代校長として手塚信敬が任命され、翌年2月21日には校舎が竣工した。この時期における公立の女学校の設立は全国的にみても数少なく、宇都宮女子高校は現在まで続く公立の女子校として最も長い歴史を有している。
 戦後の1947(昭和22)年、教育基本法・学校教育法が公布され、翌年4月には、新制高等学校が発足した。これにより「宇都宮第一高等女学校」は「宇都宮女子高等学校」となった。1949(昭和24)年4月には宇都宮市立宇都宮高等学校(旧宇都宮実践女学校)と統合した。
 「宇女高」誕生にあわせて現在の校章が制定された。デザインはフランス古代紋章にヒントを得た白百合(マドンナ・リリー)をかたどったもので、宇都宮女子高校英語教師で版画家としても有名な川上澄夫氏が担当した。白百合の花言葉は「純潔」であり、リボンの紅は「誠心」を意味するものであった。副章はブローチまたはバックルとし、その着用は随意とした。またこの時、制服については制定しなかったため、服装は生徒の自主性に任された。
 1951(昭和26)年、「栃木県立宇都宮女子高等学校」と改称された。この年、PTA、生徒諮問委員会、地域社会諮問委員会で本校の今後の教育目標についての審議が行われた。その結果、生活領域と個人生活、家庭生活、社会生活、経済・職業生活の4つの領域における教育目標が定められた。その内容は、4領域をさらに理解・態度・技能(能力)の3つに分け、それぞれ数項目ずつ目標を掲げるという綿密なものであった。
 1966(昭和41)年4月、教育目標が改訂され、「歴史を尊重し、個性の伸長をはかりながら家庭および社会の福祉に寄与する女性の育成をめざし、次の資質の向上につとめる」とした。その資質とは次の5点であった。
 1、強健実践(健康明朗で強い意志と実践力をもち勤労を尊ぶ)
 2、自主創造(広い視野に立って正しく判断し自主創造に生きる)
 3、温雅清純(美を愛し情操豊かで品位をそなえる)
 4、至誠敬愛(たがいに敬愛し礼儀と責任を重んじ親和協力する)
 5、報恩奉仕(謙虚で感謝報恩の心をもって奉仕する)
 さらに具体的努力点として、全校体育、自主的学習による学力向上・HR活動の強化・礼儀作法の徹底・責任感の高揚・清掃の徹底の5項目が設定された。
 宇都宮女子高校は2015年に創立140周年を迎えた。主な卒業生として、最近では「なでしこジャパン」でも活躍したサッカーの安藤梢さんが知られているが、昭和40年代のベストセラー「二十歳の原点」の著者・高野悦子さんも目立っている。
http://www.takanoetsuko.com/

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