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「実体」「現象」「コトバ」のGAPに迫る-構造主義医療論

スレッド
「実体」、「現象」、「コトバ」の3要素。構造主義医療論を提唱されている名郷直樹先生が示す、構造主義医療概念の基本的な枠組みです。「実体」と「現象」、そして「現象」と「コトバ」の間には{GAP}の存在があると指摘します。

週刊医学界新聞第2985号 2012年7月9日
http://www.igaku-shoin.co.jp/paperDetail.do?id=PA02985_03

「実体」、「現象」、「コトバ」の3要素、そして「GAP」、これらが意味するのはいったいなんでしょうか。構造主義医療論の根本概念であるこの枠組みを、存在論と郵便的理論により解きほぐしていきます。

まず、構造主義医療と言うのはいったい何なのでしょうか。構造主義的な医療論ですから、構造主義の概念が包括されていることは疑う余地はありません。少なくとも構造主義の源流と言われるソシュールの思想を知っておく必要があります。

[ソシュールの思想]

ソシュールは言語の記号表記(コトバ)そのものをシニフィアン、そしてコトバの同一性を認識し意味へと変換されたものをシニフィエと呼びます。たとえば「イヌ」という言語はinuという音声=“シニフィアン”と、その意味としての「犬」というイメージ=“シニフィエ”に分けられるわけです。このシニフィアンとシニフィエの結びつきが自然的ではなく、非自然的である、すなわち恣意的であると指摘します。イヌは日本語ですが、英語ではdogであり、したがって犬というシニフィエが直接的にイヌというシニフィアンに結び付いているわけではありません。

またもっと重要なことは、犬、山犬、狼という言語があった時、それぞれのシニフィアンに対応するシニフィエを持っていると考えられますが、たとえば山犬というシニフィアンが消えてしまっても、客観事実である山犬そのものが消滅するわけではありません。山犬というシニフィアンが消えてしまっても、犬と狼に対応するシニフィエが山犬をカバーするだけです。ソシュール研究で有名な丸山圭三郎さんの言葉を借りれば、「この世界のあらゆる事物を砂漠のようなただの砂地に例えれば、コトバと言うのはその砂をすくう網のようなものであって、網の目の大きさや形によって砂に描かれる模様が異なるように、おおよそコトバによって切り取られる世界の見方が変わる」のです。

コトバはその存在と同時に世界の見え方を変えていきます。「山犬」という言葉が生まれると同時に、「犬」たちは「犬」と「山犬」に分節されます。言葉はそれが話されている社会に共通な、経験の概念化、あるいは構造化と言えます。

[ソシュールの思想と病気、病名]
ソシュールの思想を現代医療に落とし込むとすれば、ごく簡単にいうと、「さまざまな病気があらかじめ存在し(未発見である疾患と言えど…)それに対して人が病名を付けるのではなく、人が病名によって、本来連続的な正常(健康)と異常(病気)をカテゴライズしている」ということです。

ソシュール言語学ではカテゴライズする際の同一性概念をシニフィエと呼びました。病気の「実体」から主体が知覚する「現象」、そして主体が発する「コトバ」(=シニフィアン)。そのコトバと病名(シニフィエ)の対応は二重の意味で恣意的だということが分かります。

例えば『呆け』という実体を『痴ほう症』と呼ぶか『認知症』と呼ぶかは社会文化的背景によるという意味で非自然的だということです。さらに、呆け状態をどこから病気としてカテゴライズするかという問題において、MMSEスコアというコトバが正常と異常を分節して行くのです。

構造主義医療論における「実体」⇒「現象」⇒「コトバ」の流れの中で、患者主体からもたらされた「コトバ」と、つけられた「病名」との対応は恣意的であるという側面を持つのです。

[コトバではなく実体・現象に立ち戻れ]

「コトバ」と「病名」という一義的な対応でもって、医療を行うというのが一般的には常識に登録されています。「最近物忘れが多い」というコトバに対して、「認知症」という病名が与えられる。これが常識に登録されているコトバと病名の関係です。しかしながら僕たちは、この時点で認知症という病名とコトバには非自然的な対応があることを見てきました。近代医学は身体不条理を表したコトバに対して、明確な診断名を与える、それが真の医療であるかのような価値観を見出してきましたが、実はそのような主体的理性に基づく科学的な病名付与はなされていないことの方が多いのです。

そして構造主義医療では「コトバ」のあり方すら揺さぶりをかけます。そもそも患者主体から発せられたコトバそのものが、身体不条理という現象、さらにそれを引き起こしている実態とのギャップがあるというのです。したがって、“医療者と患者のコミュニケーションギャップを「現象」と「コトバ」のギャップと置き換え,そのギャップにアプローチしていくような対話が必要”と指摘します。

[実体と現象の存在論的ギャップ]

人はある現象を存在していると意識する存在です。例えば、痛み、吐き気などの現象を知覚し、意識する存在であるのが人間です。このように、現象の存在を知覚する存在そのものを、ハイデガーは現存在と呼びました。そして、その存在への意識は、物事への欲望・関心の影響を常に受けてなされているというのです。

すなわち、端的に言えば、痛みという現象は関心相関的に知覚されるということです。少々頭痛があってもどうしても終わらせないといけない仕事があれば、それに夢中でしばらくは頭痛の知覚がなされないということもあるでしょう。かゆみに対して、メントールなどが配合された薬剤はメントールが掻痒を著明に抑えるわけでもないのに、かゆみが和らぐよう知覚されます。プラセボ効果も関心相関的に知覚される現象の一つでしょう。

現象とはこのようにヒトの欲望・関心相関的に知覚されるのです。したがって、「実体」から知覚された「現象」にはそもそも、ずれが生じており、関心相関の程度によって軽微なものから重篤な知覚まで、人によってはそのギャップがかなり大きくなるということが起こりうるのです。

[郵便的コミュニケーションによる現象とコトバのギャップ]

病気という「実態」があり、人がその「現象」を身体不条理として意識する際のギャップは関心相関に基づく存在的ギャップでした。さらに「現象」を具体的に言語化し「コトバ」として構造化されるところにもギャップが存在します。

郵便というのは、宛先が必ず記載されていますが、相手に届く保証は必ずしも100%ではありません。途中で紛失したり、誤った宛先に届けられてしまうという可能性を排除できないのが実は郵便なのです。さらに郵便は発信者が感じたテクストが相手に届くまでに時間を要します。郵便とはこのように、コトバの送信先のズレ、そして時間的な延長の概念を有しており、デリダは、この差異と延長を合わせて差延と呼びました。

医療におけるコミュニケーションも極めて郵便的です。患者のコトバが、そもそも現象そのものを医療者に伝えられているのかという問題。現象とコトバの対応はソシュールに言われるまでもなく恣意的な非自然的な対応を含んでいます。したがって、患者主体から発せられたコトバがもとの現象とのギャップを孕んでいることは明らかでしょう。

また現象は時間とともに変化するものです。痛みは徐々に和らぐか、ひどくなるか、そのように変化する現象は、常に今現在をコトバによってとらえることは不可能です。そのために現象とコトバの間には差延に基づく郵便的ギャップが存在するのです。

[コトバが編み上げる不健康]

医療を求める人間の思想構造は、健康な生き方と、不健康な生き方の二元論にあると考えられます。生きていくなかで、絶対的に正しい健康的な生き方が存在し、今自分はそこまでの生き方をしていない不健康な存在であるという認識が医療を求める基本構造ではないでしょうか。しかし絶対的に真なる健康的な生き方など存在しません。健康的な生き方など、人の欲望が関心相関的に作り上げた幻想にすぎないのです。

真なる健康的な生き方という現前とそのコピーとしての正しい医療の受給。有史以来、そして今現在すら、多くの人間が疑いません。正しい健康的な生き方というオリジナルを求めさまよう人々、そして共同幻想としての医療「文化」の存在は確かにあります。

健康と不健康という連続性は、絶えず揺れ動く差異の体型として存在している。これらの存在はア・プリオリな実体上ではなく、コトバ自身がうみ出した多義的なシンボルに過ぎないのです。

人間はコトバにより世界を構築していく唯一の生き物です。すなわちそれは、「実体」のないものですら具体化するといえます。たとえば「死」というのも人間だからゆえに具体化された世界でなないでしょうか。

本能的回避行動を除けば人間だけが死を恐れる。そうではないでしょうか。生と死を分節しカテゴライズして思考しているのは人だけではないのかと思います。言い換えれば、人間以外の生物は本当の意味で死なないと言えるのではないでしょうか。生と死の境が存在しない世界に住んでいないのは人間だけです。生物学的な意味において死だとしても、死を思考できるのは人間しかいない。そんな風には考えられないでしょうか。

また異常、正常というのも人間がコトバにより編み上げた社会全体の除外と包括の関係に他なりません。人間は唯一の高等生物などではなく、関係にもてあそばれる唯一の異常な存在であると言えましょう。人間は自然を支配しているのではなく、自ら生み出した非自然に支配されている。コントロールされているのはどちらか。「コトバ」から、「現象」そして、「実体」に立ち返り、もう一度よく考えねばなりません。
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[コラム]医薬分業批判の本質とは何か

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「医薬分業における規制の見直しに関する規制改革会議」を明日に控えています。余談ですが、僕はかつて医薬分業の思想について「医薬分業の理念はわが国では存在しない」と述べました。

Blogger版 地域医療の見え方:医薬分業という思想を生きる
http://syuichiao.blogspot.jp/2014/06/blog-post_24.html

「独自の理念を持って行動せよ、というのはいささか無理がある」、ととらえた僕の当時の視点は今でもそれほど大きな変更を要しません。調剤報酬の枠組みの惑わされることなく、薬についてのプロフェッショナルという薬剤師の基本的な部分、そう足元の整理からゆっくり始めること、それが対外的に貢献できたかどうか、現時点でわかりませんが、僕は粛々と取り組んできたつもりではいます。

最初に述べておきますが、これはあくまで個人的意見であり、このような問題が提起された背景にはこれまでの薬剤師の行動に関する問題が存在し、その問題そのものを軽視すべきではなく、重大な問題として慎重に熟慮せねばならないことは十分承知しております。本稿で述べたいのは、責任転嫁でもなく、この国の医療のゆくえから浮かび上がる一つの構造です。その構造を明らかにしたい、そういう観点から読んでいただけると幸いです。(だからこの問題の責任が我々薬剤師に無いなどと主張しているわけではありません)

以下のブログでは医薬分業が話題になっている背景について以下の2点を挙げています
「伸二のブログ」
http://riehener.cocolog-nifty.com/blog/2015/03/post-f2cb.html
1) 患者の利便性
2) 調剤技術料に基づく医療費の高騰

利便性に関して言えば、それを上回るほどのベネフィットが存在すればクリアできるのかもしれません。相当困難な道のりとは思いますが、現状薬剤師はこの問題をクリアせねばならないでしょう。調剤技術料に基づく医療費の高騰、さしあたってはこちらのウエイトがかなり大きいように思います。利便性はバッシングを正当化する理由の一つに過ぎず、問題のコアはこちらではないか、僕はそう思います。

医療費の高騰は深刻な問題でしょう。少子高齢化はこれからますます進みます。健康寿命が延びたこの国で、生きるとはすなわち医療費を消費しながら生活を続けることに他なりません。医療を受けることの当り前さ、その当たり前さゆえに、高齢化社会を生きるには医療を受けない選択というものがあまり明確に示されない、いや示されていけないような、無意識に医療を受け続けるという構造の存在が見え隠れします。 そのような構造の中で、医薬分業が進んだ今日、処方箋枚数は増加し、保険薬局の数も相当程度増え、それに伴う薬剤使用は上昇していくのは当たり前の帰結のように感じてしまう部分もあります。

この問題に関して、アポネットR研究会のHPに小嶋先生の記事が投稿されています。
http://www.watarase.ne.jp/aponet/blog/150301.html
兵庫県立大学大学院経営研究科・商大ビジネスレビューに対して、目に留まったポイントとして以下を挙げられています。

・株式会社化された営利目的の薬局では「あるべき薬局像」は達成することは困難
・我が国の医療を崩壊に導いているのは株式会社化された調剤薬局が主たる原因
・株式会社化された薬局の保険調剤部門は非営利化するか、出来なければ税率を重くし利益を出ない仕組みを考えることが必要

一部同意する部分も個人的にはありますが、医療崩壊を招いているのは本当に株式会社された調剤薬局なのでしょうか。薬局の保険調剤部門は非営利化することで医療崩壊が防げるのか、この問題にはいささか疑問を感じ得ずにはいられません。

[調剤技術料に基づく医療費の高騰を招いたのは何か]

ジャック・ルソーというフランスの思想家がいます。僕はルソーについて、そう多くは知りません。ただ彼が構想した「一般意志」という概念はとても興味深いものがあります。一般意志とは1762年にルソーが発表した社会契約論のなかで提唱された概念です。

人間個々はそれぞれの意志を有しています。ルソーは、これを特殊意志と呼び、それらの総体、人間あるいは国民全体の意志を全体意思と呼びました。特殊意志は人間個々の欲望など私的な利益を含むものであり、その総和の全体意思は国民の欲望の総和にすぎません。一般意志は単純な特殊意志の和ではないところに存在している。そうルソーは言うのです。一般意志とは社会契約論の中で理解しようとすると非常に難しい。ここでは、全体意思と一般意志とは異なるもの、まずはそこを強調しておきたいと思います。

小説家であり、思想家である、東浩紀氏は「一般意志2.0」のなかで、一般意志の概念をフロイトの「無意識」、そして現代社会の背後にそびえるインターネット上での人々のアクティビティから抽出できるもの、そこに見出せる可能性を指摘しています。僕たちはツイッターやフェイスブックなどのソーシャルメディアを常に活用しながら、日々テクストを投稿し続けています。そのテクストが意図的に投稿されたものであろうと、世界中の人々のアクティビティを縦断的に抽出すれば、無意識的な意志を見出すことができ、インターネット上に記録されたこのデータはその意思を可視化することができる。現代だからこそ具現化したこの一般意志を一般意志2.0と呼んでいます。ここではその詳細について言及しません。

さて医療費が高騰し、医療崩壊が叫ばれている今日、その急速な医療費高騰に貢献したのが調剤報酬なのでしょう。それは医薬分業を政策誘導した背景ももちろんありますが、ここで僕が強調したいのが、国民の健康への認識の高まり、偏ったヘルスリテラシー、予防接種よりも病気の早期発見を推進する活動や政策、医療アクセス向上への政策と福祉の充実、薬価の高い薬剤のプロモーション強化、感染症流行に対するメディアの反応、健康診断、メタボ健診、乳癌検診の推進、インフルエンザ検査、などなど、人々の関心が、医療や健康問題に集まり、健康で長生きする、健やかな生活をおくることに政治や医学は注力することが望まれるということ。これは全体意志とも取れるのです。このようなアクティビティは現実の医療・衛生・福祉環境を大きく改善し、世界最高長寿を達成するまでになりました。

このような観点からすれば国民の全体意思を反映した政策は成功したように思えます。しかしながら医療者や政治家も含めた日本国民全体のアクティビティが医療費高騰という現実を浮き上がらせます。これは少なくとも、より良い生活環境を生み出そうとする意志の実行のために副次的に表れた、無意識と言えば語弊があるかもしれませんが、医療費の高騰は国民の一般意志と言う形で具現化したのではないのかと僕は考えるのです。医療を受けることの当り前さ、ゆえに医療を受ける。このような医療を受ける仕方を「無意識に受ける医療」と定義するのならば、「無意識」に医療を受け続けるという構造が確かに存在するのではないかということです。その構造そのものが僕自身も含めた国民の一般意志であり、それが経済的データとして可視化されたに過ぎないのではないか。

調剤報酬額の高騰が医療政策における致命的な問題ならば医薬分業について疑問を投げかける、それは国民の一般意志と言う形で明確になったものに対して、あたかも、医薬分業のせいで、と言うような後付けの理由に思えてしまうのです。

当然ながら僕ら薬剤師にも責任がないなんてことは全くありません。この問題の一部(繰り返し強調するが全部ではない)は国民の全体の責任と言うよりは一般意志と言う形で現れたと主張したいのです。すなわち調剤報酬額の高騰という形で示されているものの一部は一般意志である可能性は十分にあるのではないか。EBMを意識した業務を実践されている方なら思うことも多いでしょう。このような医療ではこの国の医療経済が破綻するのは目に見えていると。

この国の医療崩壊の一部の原因は実は国民の一般意志が招いたものであることに気づくべきではないか、そして高齢化社会を乗り切るその、しのぎに全体意思が利用されているのではないか。誰かを犠牲にすれば逃げ切れる目算がある。そのターゲットに国民の全体意志を使うのはややお門違い。そんな気もします。これは理論の拡大解釈であり、極論かもしれませんが、そういう見方もあってよい、一部はそういった理由なのではないか、そんなふうにとらえることもそろそろ必要ではないかと僕は問いたいのです。だからと言ってこれは薬剤師の問題ではないということではないのです。薬剤師から発信されるテクストの総体が一般意志を変えていく可能性を模索したい。そのために何をなすべきなのか、すべての立場の薬剤師が模索を始める事こそ肝要ではないか、そう思うのです。
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[コラム]保険薬局と調剤薬局

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この問題だけはやや静観していましたし、僕自身は薬局を離れた立場なので、あまり言及しませんでした。「調剤だけが薬局の役目ではない。そもそも調剤薬局という言葉は存在しない。」というテーゼのもと、保険薬局と言う呼称を用いるというのが今のスタンダードなのでしょうか。「単に調剤だけしているわけじゃない」という意味合いで、調剤薬局と言う呼称を使うべきではないということらしいでのです。

誤解を招くといけないので、先に述べておきますが、僕は「薬局」の呼称が保険薬局だろうと調剤薬局だろうとどちらでもいいという立場です。僕は今現在、病院薬剤師ですが、薬剤師の経歴の上では薬局勤務年数の方が長く、至らない点も多々あったかと思いますが、それなりに薬剤師としての職責を全うしよういろいろ模索し、努力を怠っていたつもりはありません。EBMスタイル診療支援は薬局勤務時代から提唱しているものです。

僕が大学を卒業して最初に就職したのが株式会社●●調剤薬局でした。今もその名前は残っています。僕を育ててくれた会社です。当時の直属の上司には薬剤師として、そして社会人として大変多くのことを学んだんです。当時の会社、そしてその上司や先輩方がいなかったら今の僕は無いでしょう。

調剤薬局など存在しないという主張はそのまま株式会社●●調剤薬局の存在を否定することにもつながりかねません。(少なくとも僕はそういう意味においてあまり良い気分ではありません) いやいやそれはコトバの綾だよ、とおっしゃるかもしれません。そうなのです、コトバと言うのは実に奥が深いのです。そのことを理解すれば、この問題はつまるところコトバの同一性をめぐる信念対立であろうかと思います。

コトバには二面性があります。調剤薬局というコトバには音声としての「調剤薬局」そして概念としての「調剤薬局」があります。僕たちが発する言葉としての「調剤薬局」は共通の日本語として交わされますよね。ただそれが概念として認識される「調剤薬局」は個々個人で異なるんですよ。

そもそも調剤というコトバからしてその概念は人それぞれでしょう。僕にとって調剤とは疑義照会やEBMスタイル診療支援も含めて調剤なんです。だから僕の薬剤師としての業務の基本は調剤薬局にある。でも人によっては単に処方箋通りに薬をわたし、無難に薬歴を書く、それが「調剤」と認識されている方もいる。だから調剤なんてコトバに縛られずに、僕らは薬剤師としてそれに終始しない、ということから保険薬局という呼称にこだわりがでるのも理解ができるんです。

ただ大事なのは調剤という業務概念を分節しているのは、個々個人で全く異なるということなんです。だから僕は保険薬局と言う呼称が適切であるということに異存はありませんが、調剤薬局は存在しないという仕方に違和感があるのです。僕の中では存在しているのだからどうしようもないのです。

●●調剤薬局と言う会社名は決して少なくないと思います。大手の会社でもあるでしょう。調剤薬局は存在しない、と言うのは業務内容において存在しないという意味合いだと僕は想像していますが、コトバの捉え方はやはり恣意的な分節に基づいていますから、コトバの綾と言われようと、会社の存在そのものを否定している、あるいはそこに努める薬剤師を簡単に言えば「調剤」しかしていない、と見下すということにもとらえられる恐れをはらんでいます。

薬局の呼称がどうであれ、中身の薬剤師が患者の役に立てるかどうかなんですよ。保険薬局の薬剤師を自称しようが、なかみが「調剤」のみであればそれは「調剤」薬局と変わらんでしょう。念のため、調剤というコトバをあえて「」で示してますが、僕の思う調剤は「」が付きません。

調剤薬局か、保険薬局か、この名称にこだわるのは自由ですし、こだわりを持つことも大切です。しかしながら調剤薬局は存在しないという仕方で無用な信念対立を起こすよりはもっと他にやるべきことがあるでしょう、と言うのが僕の主張ではあります。
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[コラム]医療に対する常識を形作るもの

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一般の方が医療に関する情報をどのようなツールから得ているのでしょうか。テレビによる健康情報が最も重要な情報源であるとする報告もあるようです。(※1)(※2)あるいはインターネット上の情報を調べることも多いと思います。

[健康に関するテレビ番組の情報妥当性]
本邦でも健康に関する情報番組は決して少ないわけではなく、そのような情報をもとに健康食品の売り上げすら変わるという事もあるようです。レスベラトロールや花粉症に対するヨーグルトなど過去に事例もありますよね。

テレビで放映されている健康情報プログラムの情報の妥当性はどの程度なのでしょうか。海外の医療情報番組ですが、その情報の妥当性を検討した論文がBMJに掲載されています。(※3)

この研究は健康問題に関するテレビの医療番組での推奨内容や主張内容を評価した前向き観察研究です。健康情報トーク番組の「ドクター・オズ・ショー」と「ザ・ドクター」で放送されたエピソードからランダムに40エピソードをそれぞれ抽出し、さらにそれぞれの番組から80の推奨テーマ(全160テーマ)について、経験豊富なエビデンスレビューアーによりエビデンスに支持されたテーマの割合を検討しました。

その結果160の推奨テーマのうち少なくとも54% (95%信頼区間47~62)がエビデンスにより支持された内容でした。「ドクター・オズ・ショー」では46%が支持され、15%が矛盾し39%は根拠不明でした。「ザ・ドクターズ」では63%が支持され、14%が矛盾し、24%が不明でした。

番組内容の半分はその情報の根拠がないか矛盾しているという衝撃の結果です。このような番組の推奨内容には懐疑的であるべきと結論しています。

[医療ジャーナリストが伝える情報妥当性]

医療ジャーナリストって何でしょうか。具体的な定義は見当たりませんが、医学・医療・福祉分野での報道に関心を持つジャーナリストと言えましょう。インターネットの普及とともに、テレビ番組のみならず、健康問題はネット上で実に多彩な情報が入手できるようになりました。しかし、その多くが明確な根拠に裏付けされたものではない印象があります。グーグル検索でトップに表示されるような健康情報には何かと健康によさそうな文句で関心を集めるような文言が並んでいますが、明確な出典がほぼ明記されていません。

そのような中で医療情報を妥当な根拠に基づいて伝える仕事は僕ら医療者の使命でもあるわけですが、世間一般への情報の発信は医療ジャーナリストによりなされていることも多いでしょう。

がん関連問題を報じる医療ジャーナリストに関するアンケート調査が報告されていました。(※4)この報告は82団体の364人の日本人医療ジャーナリストに対してがん関連問題を報じる理由と、直面しうる困難さに関するアンケート調査を行ったものです。364人中57人(約16%)から回答を得得ました。非常に少ない回答率です。ジャーナリストは必ずしも医療系出身の専門家ではありません。この研究の対象となったジャーナリストのうち34人は人文科学を専攻し、自然科学専攻は13人、医学を専攻していたのは1人だけでした。

健康問題について以下の項目が挙げられています。
理由 結果
個人的な興味 36人
従来治療について 33人
医療政策について 30人
新規治療法について 25人
診断について 25人
ワクチンについて 25人

最も多かったのは個人的な興味でした。これは大変重要な示唆です。個人的に興味のないことは報じられないのですから。たとえばワクチンの害に興味があればワクチンの有効性について報じられることはなく、薬の効果について興味があれば害について報じられることがない可能性を示唆しています。ワクチンの有害性についてはテレビのニュースでも取り上げられますが、ワクチンにより疾患が激減したという報道はあまりなされませんよね。明らかな関心相関の原理が働いているように思えます。

アンケート調査したジャーナリストの全員が、健康上の問題を報告における困難さを経験しているようです。


感じている困難さ 結果
情報の質について 36人
社会的影響について 35人
専門的な知識の欠如 35人
専門用語を理解する困難さ 35人

回答したジャーナリストの背景にもよるかと思いますが、この調査では多くが人文科学系出身者ですから、医療介入の因果関係を論じる際に必要な疫学や確率論、統計学はもとより基本的な医学・薬学知識の不足はジャーナリスト業務遂行の上で大きな困難さを生み出すことは間違えないでしょう。

医療ジャーナリストの情報ソースを見てみましょう。主なソースは、医師を含む個人のネットワーク(42人)、電子メール、TwitterやFacebookなどのソーシャルメディア(32人)で学術誌18人(38%)でした。このアンケートは16%しか回答が得られていませんので、実際のところ学術誌をベースに報道されているという状況はかなり低いものと言えそうです。なお 48人中35人のジャーナリストがホスピスに関するトピックを報告したことがなく、情報が偏っていと報告されています。先にも述べた通り、個人的な興味で報道を行っていますから、必然的に内容にはバイアスが生じます。システマテックレビューでもこのようなバイアスを避けるために2名以上のレビューアーが独立してアセスメントしますよね。
現状では日本の医療ジャーナリストが報道する内容は、質・バランスともに非常に偏りがあるのもまた事実でしょう。

[医療に対する常識]
テレビ番組や医療ジャーナリストによる報道により形成される医療への価値観は、非常に拡散力が高く、世間の一般常識に登録されることもしばしばでしょう。しかしながらそのような常識を形成している情報は明確な根拠がないかあるいは矛盾しているか、情報発信者の関心のある部分しか強調されていない非常に偏ったものです。繰り返しますが医療に関する常識は非常に偏った考え方である可能性が高いのです。

これは臨床医学論文を読んだことのある方ならすぐにでも実感できることかもしれませんが、少なくとも本邦において医療に対する常識と、臨床医学論文の示唆は矛盾することが多々あります。EBM実践者であれば、そのような世間との常識のギャップから、患者との信念対立を起こすことも多々経験されているかと思います。

 臨床医学論文からの示唆、いわゆるエビデンス自体も現象の部分に過ぎないという面もあり、エビデンスの結果のみを正しい価値観とするとこも大きな偏りなのではないかと僕は思います。客観的に正しい価値観なるものが存在するというわけではないので、どちらを正しい価値観とするかで信念対立は避けられないでしょう。偏った医療の価値観、それをどこまで補正できるか、エビデンスと常識の折り合いをどこでつけるのか、医療情報を発信し、実際に活用する僕たちにとってはとても重大な問題でしょう。

この信念対立の解消はよりよい医療を行い、患者のアウトカムを改善する、といったようなことが目的ではありません。医療に対する常識がほんの少し変化したところで日本人の平均寿命はもうこれ以上劇的に伸びることはないでしょう。大事なのは常識が変わることそのものです。風邪に抗菌薬、病気は早期に発見するべき、新薬は良い等の常識が変わることで、医療者、患者問わず、「これが良い医療だ」、から「こんな選択肢」もある、に代わることが期待できます。
まあそう単純じゃないかもしれませんが、この問題は決して軽視でいないものと思います。

妥当性の低い情報で世間の価値観を医療を受ける方向に誘導させることは、テレビ番組やジャーナリストの報道でいとも簡単にできますが、それにより医療スタッフの負担や医療経済的な問題が現実となって降りかかります。日本は医療アクセスも良いとこもあるでしょうが世界的に見ても不必要な医療を受けすぎているように思います。早めに医療を受けることが本当に安心なのか、そういった常識をほぐすためにエビデンスを活用してみる、偏った価値観から多数の選択肢を導ける柔軟な価値観へ、それだけで僕らの暮らしが少し豊かでゆとりのあるものになるような気がしているのですがいかがでしょうか。

[参考文献]
(※1)Chew F, Palmer S, Slonska Z.et.al. Enhancing health knowledge, health beliefs, and health behavior in Poland through a health promoting television program series. J Health Commun. 2002 May-Jun;7(3):179-96. PMID: 12166872
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/12166872
(※2)Oakley A, Bendelow G, Barnes J.et.al. Health and cancer prevention: knowledge and beliefs of children and young people BMJ. 1995 Apr 22;310(6986):1029-33.. PMID: 7728055
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/7728055
(※3)Korownyk C, Kolber MR, McCormack J.et.al. Televised medical talk shows--what they recommend and the evidence to support their recommendations: a prospective observational study. BMJ. 2014 Dec 17;349:g7346. PMID: 25520234
http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/25520234
(※4)H. Nakada, M. Tsubokura, Y. Kishi, Koichiro Yuji, et.al. How do medical journalists treat cancer-related issues? ecancer 9 502 / DOI: 10.3332/ecancer.2015.502
http://ecancer.org/journal/9/full/502-how-do-medical-journalists-treat-cancer-related-issues.php
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[構造主義薬学概論]

スレッド
~臨床薬学実践のための行動原理~2015年2月4日更新

序章:構造主義薬学論の位置づけとその機能

[薬学教育における根本問題]

これまでの薬学部における教育課程を振り返れば、そもそも薬学部は臨床薬剤師育成のみならず、創薬研究者育成も兼ねていたため、学問領域は臨床と言うよりはむしろ基礎科目に重点が置かれてきた。(少なくとも自分はそうであった。)有機化学や生物学を基盤に薬理学や病態生理学を駆使しながら薬剤の効果を考え、また実臨床へ出てからも学問基盤として臨床判断の根拠を支えていたのはこのような基礎学問であったこともまた事実であろう。薬剤師向けの専門書の多くもそういった基礎学問を基盤とした記述が多く、薬学部6年制以前において、臨床疫学的知見をベースとした薬剤師向けの専門書はほとんどなかったのではないだろうか。近年EBM(Evidence-based medicine:科学的根拠に基づいた医療)が臨床薬学領域においてもクローズアップされるようになってきており、臨床疫学による知見の臨床応用が普及してきている。しかしながら、いまだ病態生理学的知見、薬理学的知見に基づく薬物治療の考え方の多くが世間一般にも「常識」に登録されているということは大きな誤りではない。

[糖尿病治療における信念対立]
例えば糖尿病を例に挙げてみよう。臨床疫学的知見が示すことは、厳格な血糖コントロールではあまり良いアウトカムを生み出さず、むしろ有害アウトカムが増加するという結果を複数の研究が一貫して示している。しかしながら血糖値が高いのが糖尿病の病態生理であり、合併症を予防するためにもインスリン分泌を促す作用のある薬剤がその治療に有用であり、健康を維持することにつながるという病態生理・薬理学的知見に基づく解釈に違和感を感じる人はむしろ少数ではないだろうか。

近年、糖尿病の早期発見をめざし、薬局店頭での簡易血液検査が可能となり、積極的に勧めているプロジェクトも存在する。糖尿病を早期に発見し、食事指導や医療介入により合併症を予防し、健康を維持しようという目的である。しかしながら英国で行われた糖尿病スクリーニングのクラスターランダム化比較試験ではその有用性を示すことはできなかった。

臨床疫学的知見と病態生理・薬理学的知見はその結果が同じ方向であれば何の問題もない。しかしながらこの2つは相反することが多々存在する。そのためEBM実践を意識する人たちは、病態生理・薬理学的知見に基づき臨床判断をする人たちと時に信念対立を起こすことがある。

病態生理・薬理学的知見は学部教育で多くの時間を費やし、学ぶ「背景知識」だけに、正しい医療は病態生理・薬理学的知見の上に存在するという信憑が深く根付いているという側面もある。一方、病態生理・薬理学的知見と相反することの多い、臨床疫学的知見は、研究参加者の現象を具体的に構造化したものである。基礎理論ではなく、実際のヒトで検討しているがゆえによりリアルに感じるであろう。しかしながらその結果はごく一部の特殊な人を対象に行われた研究である。そのため推定統計学を駆使して構造を95%信頼区間と言う形で一般化する。EBMの実践はこの結果に基づきつつも、自分自身の経験や患者の思い環境をも統合して臨床判断を行うという行動スタイルである。なおEBM創始者のSackett は「EBMとは個々の患者の医療判断の決定に、最新で最善の根拠を、良心的かつ明確に、思慮深く利用すること (Sackett DL et al.:BMJ,312:71,1996.)」と述べている。
しかしながらここで重要なのは、様々な要素を統合すると言ってもエビデンス(≒臨床疫学的知見)をベースにする限りは、まさにそこに関心があると言っても過言ではない。エビデンスによりゆがめられた医療を実践する恐れもはらんでいるのである。

[構造主義薬学概論の役割]

そもそも正しい医療などは存在しないのである。外部に正しい医療が自存するという錯覚は、むしろより多くの知識を学んだからこそ存在する。構造主義薬学概論は臨床薬学分野におけるメタ理論であり、その行動原理の構築を目指すものである。そしてこの理論は正しい医療など外部に自存しないということをあらためて再認識させる装置として機能するという面も有する。

構造主義薬学概論は現在社会においては、いまだ認知されていないが、臨床薬学もまた人間科学であり、このようなメタ理論はいずれ必要になってくるだろう。構造主義薬学概論における構造とは「関心相関的にたち現れる何か」のことである。その何かに名前がつくことにより現象の同一性が編み上げられるのであり、世界が分節されることもある。コトバによって世界が編み上げられるというのは、やや大げさであり、そのすべてがそうであるとは言わない。当然ながら構造のみにとどまるということもありうる。

 繰り返しになるが、臨床疫学的知見、すなわち医薬品の臨床試験から得られた知見は、研究参加者における現象の構造化であり、その一般化として推測統計に基づく統計解析がなされる。そして、一般化に基づいたデータを活用しながら、よりよい臨床行動を模索するその仕方がEBMとも考えられ、構造主義薬学概論はEBMをも包括するメタ理論である。

[EBMが目指したもの]

医療に関してその方針決定にかかわる思考は様々と言えよう。この思考プロセスはもちろん科学的妥当性、医学的妥当性が大きな割合を占めることになるが、それ以外の要素も大きく影響している。でなければ、ワクチンはうたない方がいい、と言うような極端な思考プロセスが話題となることもないだろう。EBMもそのような観点からすれば思考プロセスの一つともとらえることができる。より良い医療を目指すためのツールとしてのEBMがあるならば、何がより良い医療なのか、ある一定の思考プロセスに基づいて、決断している、これは考え方の一つであり、思想であるという側面をもつ。

 考え方の多様化が進む現代社会において、思想は哲学や文学あるいは宗教ともその境界は曖昧と言える。もともとヒトの考え方、思考プロセスにカテゴライズできるような明確な境界線は存在しない。ここからが宗教でここからが哲学そんな線引きは困難と言えよう。そういった思想や宗教において良い思想、悪い思想、そういったカテゴライズもまた意味をなさないことも自明である。

 しかしながらヒトは分類をする生き物である。生物学者の池田清彦先生は「分類とは思想の一つである」と指摘している。分類という思想は、人が有する根本的な価値観なのかもしれない。カオスよりはましという仕方で“あれ”と“これ”を区別する。そして“あれ”と“これ”を共有する2つの集団が時に無用な対立を引き起こす。

 医療における根源的な考え方の違いが医療従事者の間でもやはり対立を生み出す。たとえばEBMを「主義や思想」にしてしまうと、それは必ず相容れない集団を生み出すと考えられる。EBMに関わらず、臨床判断、治療方針等、医療者同士での信念対立は日常的に生み出されていることは多くの医療従事者が経験することだろう。

 例えばEBMをよく理解してない人は対立概念にNBM (Narrative Based Medicine)を提示することがあるが、NBMも結局どこにフォーカスするかの問題であり、医療者自身の関心がどこに向けられているかの違いに他ならない。関心のある部分が強調され、関心のない部分は視野に入らない。無意識的に行われているこの現象は関心相関性と呼ばれる人間の根本的な認識原理である。分類を一言で表すのならば、関心相関的に恣意的に現象を区別したものと言えよう。それをコトバでコードしたものがカテゴライズするということである。これは人に立ち現れる身体不条理と言う現象を、病名によりコードしカテゴライズするという構造と原理的には同じものである。

 EBMとNBMというような二項対立が生み出す信念対立はなにも医療の現場だけではない。二項対立という図式は日常でもごくごく身近に生み出される。たとえば、「赤」と「青」や「男性」「女性」のように、二項対立には「自己は正しく、他者は誤りである」というメタ認知が関心相関的に駆動していると言える。

 あるテーゼの正しさをいったんカッコに入れ、判断停止する。オーストリアの哲学者フッサールはこれを判断停止「エポケー」と呼び、そこから、なぜ自己を正しいと認識したのか、その前提そのものを問い直すこと、これを還元という仕方で信念対立を解消するための思考プロセスを提示する。このような思考プロセスはいわゆる現象学と呼ばれる系譜に繋がっていく。

 フッサールはさらに『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』という書籍の中で「自然の数学化」という、とても興味深い示唆を述べている。科学の進歩は、ヒトがかかわる現象を一般化していくのだが、それは数値で示せる客観的な指標として自然科学の体系を基礎づけてきたわけだ。科学の進歩によって、世界はすべて数学的に説明できるという信憑が一般に広がったと言えよう。そしてそのことが、僕らの生の意味というものをあまり深く考えないようになってきていると指摘する。つまり学問体系は、意味世界を排除することで、客観的な世界を説明するものとなってしまったということだ。

このように自然の数学化は、数量的に示すことができる客観的物体世界とそれ以外の主観的世界に分裂していくことを引き起こした。これは、哲学上最大の難問である主観、客観問題に発展していく。そしてこの二項対立は自己と他者という二元論を形作ることになる。様々な宗教感、多様な思想、思考プロセスの違いが、信念対立を生み出し、時に人は争いを起こしてきたことは歴史を振り返れば自明だろう。

 EBMはこうした二元論、あるいは信念対立を解消するひとつのツールとしての機能するはずであった。人を幸せにすることがEBMの真のアウトカムであるのならば、EBMは医療者、患者、全ての人を繋ぐ架け橋として実践されるべきものであったはずだ。当然ながらEBM実践の多くはそのような仕方で機能してきた。しかしながら、EBM推進論者を時にエビデンス原理主義と言うような仕方で批判することもありうる。またEBM実践者は時に自身の最善の医療と確信する構造と患者が抱く、受けたい医療の構造とのギャップに悩まされる。

 これらは大変重要な示唆である。関心相関の原理に従えば、EBMの実践が価値あるものとして取り出される背景にはそのベースとなる論文、すなわちエビデンスそのものに関心があるという事を忘れてはならない。エビデンスにとらわれ、ある行動原理の価値は、それを実践する人の関心により変動するものであるということだ。エビデンスか、ラナティブか、EBMは本来、実践的原理であったはずではあるが、理論的原理としてとらえられ、多くの誤解を生んできたこともまた事実である。

[構造主義薬学論の概要]

 構造主義薬学概論は「正しい医療」なる前提を疑い、関心相関性という人の根源的な認識原理を踏まえたうえで、現象学的思考を中核とする信念対立解消モデルを採用する。これは西條剛央先生が体系化した構造構成主義の原理を継承している。(と個人的には思っている) また特に疾患という現象に対して言葉が世界を構築していく側面を、ソシュール言語学を源流とする構造主義を科学論に特化させた池田清彦先生の構造主義科学論、そしてそれをさらに医療に特化した名郷直樹先生が提唱する構造主義医療論をもとに、臨床薬学領域への応用を試みたメタ理論がこの構造主義薬学概論である。

 この構造主義薬学概論は、先に述べたように関心相関性という人の根源的な認識原理を踏まえ、現象学的思考を中核とする信念対立解消モデルを駆使しながら、疾患成立の恣意性、薬剤効果の恣意性、そして医療における時間と同一性という3つの原理を認識装置として活用することによって、不毛な信念対立を解消し、臨床判断の多面的評価を可能にさせ、新たな視点を通して、薬剤師における臨床行動原理を構築するものである。いずれもその内容は「当たり前」のことかもしれない。しかしながら、「当たり前だ」という事を人は当たり前に忘れていくので、それが当たり前だということを当たり前に意識できないのだといえる。この概論はその当たり前の認識プロセスをあらためて再認識させるような仕方で駆動することを目的に構築を試みている行動原理である。

第1章:疾患成立の恣意性

[コトバの恣意性と差異性]

 言語学と言っても、さまざまであるが、この構造主義薬学概論ではフェルディナン・ド・ソシュール(1857~1913)の言語学、そしてソシュールの思想をより具体的に体系化した丸山圭三郎先生の、からの示唆を用いて、疾患成立の恣意性を捉えていく。

 例えば、兄弟と言うのは日本語であり、英語ではbrotherである。これは対応的な恣意性と呼ばれる。言語が異なれば、現象とコトバに違いが生まれ、これは恣意的な対応であるということである。また兄弟は日本語で兄と弟という2つの言葉がある。要するに兄弟には年上と年下という2つの概念が存在するわけだ。しかしながら英語のbrother原則的に兄と弟を区別しない。日本語で姉妹に相当するSisterも同様に、姉と妹を区別しない。もちろん英語話者では全て“双子”で生まれてくるわけではない。また当然ながら2人の子供がいたら、双子でない限りにおいて、どちらかが年上であり、一方は年下であるはずだ。僕らは英語を習う時、あまりそのことを意識させられないまま学んでいる。だがしかし、言語の種類によって、その言語話者が有する認識に応じて、目の前の事物の分類の仕方が変わるというのは大変重要な示唆である。

 この世界をコトバと言う道具を使って、切り取りながら、いうなれば言葉を用いながら混沌とした世界に切れ目を入れ、それに名称をつけながらこの世界を理解していると言える。この切れ目の入れ方が、言語ごとに異なるというのである。これを分節恣意性と言う。

 病気と言われるような現象も診断基準というコトバによって単なる身体不条理という現象から疾患を切り取ると考えられる。本来“あれ”と“これ”の病名の間には境界がない連続帯なのだといえるが、例えば咽頭炎と喉頭炎と副鼻腔炎のように言葉をあてがうことで、上気道の炎症という現象をカテゴライズし、概念化し、認識し、治療を考えていく。

 また他者と比較できないような感情表現。こういった感情表現は特に難しい。なぜならば物事の認識は他者との比較により物の価値が産み出される。すなわち、”大きい”という価値観は”小さい”が存在しているからこそ概念化される。言葉は差異の体系であるがゆえに、対立概念のない現象を具体的に概念化し名指すことは困難であることがありうる。不定愁訴と言うのはその良い例であろう。

言語次第で現実の連続帯がどのように不連続化されていくか、その区切り方にみられる異なり方の問題は、例えば日本語で分節できない感情表現、すなわち「言葉では表せない気持ち」のような。これは個人の主観的な問題ではなく、その人のリアルな現象のはずであるが、言語化できないためにリアルさを共有できないということが起こりうるのである。医療においては「なんだかわからない症状」と変換されてしまう恐れを孕んでいる。

[病名分類と疾患生成]

 これまで見てきたように、目の前の連続帯に切れ目をいれカテゴライズする、二項対立に価値を見いだす、言葉はこの二つの性質をもつと言える。すなわち言葉の恣意性と差異性である。言葉は価値を相対化し、物事をカテゴライズすることを可能にしたが、言葉を使えることで、むしろ人は何事も感情を伝え、物事を区別し、概念を共有できると錯覚するようになっている。言葉を使う限りにおいて、曖昧さを受容することは困難なのだという側面もあると言えよう。

 今目の前の身体不条理に病名をつけてもらわないと不安なように、あらゆる身体不条理は病名によりカテゴライズされ、治療が最適化できると考えがちである。でも実際のところ、感染性胃腸炎なら、そこには吐き気と下痢症状という現象が存在するだけで、それ以上でもそれ以下でもない。その原因がノロウイルスだろうとロタウイルスだろうと、そんなことはあまり重要ではないのであるが、ウイルス名が確定されることをヒトは求める。現象に切れ目を入れることで医学は発展してきた。ただそれは切れ目を入れる必要があるかどうかとは、また別の問題を孕んでいるということだ。

 構造主義薬学概論では、疾患の成立は恣意的な側面があり、また関心相関的に現象が病名に変換されるという側面を重視する。したがって、病名ともとの現象には関心と言う名の増幅装置が機能しており、また、その対応がコトバを使う限り、恣意的であるということを十分に認識することで、現場における薬剤適応を多数の視点から考察できるわけである。繰り返すが、構造主義薬学概論は薬剤師の臨床現場における臨床判断の原理となるものであり、イデオロギーではない。疾患成立が関心相関的に恣意的に病名へコードされるという側面を認識することで、様々な視点を獲得できる点を強調するものである。

具体的に機能性ディスペプシアという疾患を取り上げてみよう。機能性ディスペプシアのROME IIIという診断基準(コトバ)によってその同一性がコードされている。診断基準を改めて見てみると、内視鏡検査で潰瘍などの異常が認められなければ、このような現象は従来、臨床的には慢性胃炎として取り扱われてきたと考えられる。消化器症状という現象自体は変わらないにも関わらず、ROME IIIというコトバにより、慢性胃炎と機能性ディスペプシアが分節された良い例である。またその病名がクローズアップされてくるようになった背景にはアコチアミドという新薬の開発がある。この薬剤は機能性ディスペプシアにしか適応を持たない。アコチアミドという薬剤の認識を高めるためにも機能性ディスペプシアという疾患をクローズアップさせなければいけないという構造になっている。すなわち、薬剤の売り上げを伸ばすにはどうすればよいのかという、売り上げへの「関心」がそこには存在する。

 なお疾患成立については恣意的ではないという指摘もあるだろう。確かに急性期の疾患では、ウイルスが同定されたり、血管が詰まって脳梗塞が起きたりとその原因が明確であり、疾患成立は恣意的ではないという批判である。しかしながら、ここでは原因が明らかかどうかを問題としているのではない。感染症においてもウイルスや細菌がいるだけでは疾患として成立することはないだろう。また脳梗塞でもその重症度は大なり小なり幅が存在し、治療適応となるかどうかという意味において疾患成立は恣意性を帯びているということである。またガイドラインや診断基準も言葉で記述される限り、その構造化には恣意性が伴うと言わざるを得ない。

[本章のまとめ]

疾患は診断基準というコトバにより構造化されたものであり、コトバで構造化される限り、もとの現象とのギャップが生じることは否定できない。そして、現象とコトバの対応が恣意的である以上、疾患成立も恣意的と言わざるを得ない。このことはある疾患名がその現象の実体を指し示すものではないということである。したがってこの疾患にはこの薬剤を使うべき、というような正しい医療が存在しえない側面もありうるということがお分かりいただけるであろう。

第2章:薬剤効果の恣意性

 臨床試験の結果、いわゆるエビデンスから得られた客観的な薬剤効果は一種の構造であると言える。そしてその構造の一般化が統計解析である。したがって、臨床医学論文を読むということは現象を構造化し可視化するための手段の一つであり、それが実臨床における臨床判断の唯一の根拠となるものではない。EBMが誤解されている点は、まさにここにある。

[自然の数学化と正しい医療なる錯覚]

 自然現象の数学化あるいは定量化という自然科学が打ち立てた法則や関係式はヒトの世界認識を大きく変えた。フッサールは「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」の中で、現象の定量化(構造化)はヒトの日常経験と言う主観的な世界観を、いわゆる「関係式」により具体化することで、確実で絶対的な世界だ、という感覚をヒトに与えることに成功したと指摘する。関係式を与える自然科学は、法則が表現する定式化された世界こそ客観的なものの見方であり、日常の経験そのものはそれに比べてしまえば相対的であいまいなものだという感覚をヒトに植え付けてきたということだ。生活の便宜として現れた自然科学は、やがてある因果関係の体系化を推し進めていくことが目的となり、現実の生活世界は、この目的のために検証されるべき手段に過ぎないものとみなされていく。

 分子生物学、薬理学、病態生理学、疫学や統計学といった学問は、現象を構造化し、それに名称を付けることで定式化し、因果的な法則の客観化を成し遂げたが、現実の生活世界における現象に必ずしも直結しないという事が忘れ去られてきたということは軽視すべきではない。端的に言えば自然科学は目の前の現象を捉えるため、その認識に対する仮説的補助線(≒フィクション)であるという事を認識できなくなっている。

 学的に生成された構造から生活世界をみつめるというのは、構造化の手法により、相反する結果が出てしまった場合、信念対立を引き起こす。例えば、糖尿病では血糖値を下げることで治療効果が得られるという認識は、病態生理学的知見から構造化されたものだ。また真のアウトカムを検討したエビデンスが示す厳格な血糖コントロールが死亡を増やすという臨床データも現象を構造化したものに過ぎない。この2つの構造は、相反する結果を生み出しているため、その構造を常識としているものどうして信念対立を引き起こす。薬剤効果を学的に生成された構造から考察することはこのような信念対立を生み出す可能性を有している。

 EBMはその相反する構造をうまく融合しながら、その時点で最善の臨床判断を模索しようという行動原理であったはずであるが、現象の構造化の際にエビデンスばかりが重視されているというような誤解もまた孕んできた。しかし一方で、文脈のみが重視されEBMと言えど、エビデンスはほとんど意識されていないとする指摘もある

[医療者の理論的薬剤効果から現象としての薬剤効果への思考変容]

ここで視点を180℃変えてみよう。薬剤効果を医療を受ける人の立場で考えてみると、患者自身は、死亡や合併症発症など真のアウトカムとしての薬剤効果を現象として「感じる」ことは現実的に不可能であり、薬剤効果の判断基準は、血糖値や血圧など代用のアウトカムであることが多い。

 この薬は効くのか、と言うのはどういうことなのか。血圧の薬であれば血圧が下がることをその薬の効果と言うのか。それとも寿命が延びることをその薬の効果と言うのか。血圧が下がると言ってもどの程度下がれば効果として認められるのか。寿命が延びたとして、いったい何日延びれば効果と言えるのか。

寿命と言う時間は年単位、一か月単位、1日単位、時間、分、秒…切れ目のない連続性の中で、いったいどこからが寿命が延びたという効果につながるのか、ヒトが意識の中で薬の「効果」を規定しているもの、それは極めて恣意的であると言わざるを得ない。薬の効果を期待している個人個々の感覚と、現実に現れる薬剤効果が一致するかどうか、指しあたって重要なのはこの点であろう。

 主観的な薬剤効果(現象としての薬剤効果)を考えるうえで、実は医療従事者によって理論的に構造化された薬剤効果はあまり大きな意味を持たない。人は薬剤効果を裏付けた学問的正当性の存在と言うよりはむしろ自分の認識の中で意味のある物かどうかと言うところで薬の効果を判断している。すなわち薬が効いたのか効かないのかは多くの場合、個々個人の文脈に依存している。そしてその効果の尺度は有効性という連続帯の中で個人の感覚的なものによって恣意的に分節されている。

 主観的な薬の効果において、真のアウトカムと代用のアウトカムという軸は大切であるが、さらにそれぞれの効果の尺度は連続帯で存在するという事であり、人が恣意的にその尺度を効果あり、なしみたいに分節しているという、もう一つの軸が存在する。

 連続帯の中のどこからが「効果あり」なのかはヒトの認識の中にある「意味」によって分節されていく。また真のアウトカムは多くの場合、自分自身でその効果を確かめることが相当困難である。例えば死亡リスクが減るという真のアウトカムは、統計的手法でこそ示せるものの、これはあくまで現象を可視的に構造化したものにすぎず、主観的にこれを“感じる”ことは難しい。だから現実的には多くの人が代用のアウトカムを基準に主観的な薬剤効果を判断していると言えよう

 これまで述べたようにヒトは生物学という科学理論で合理的な解釈ができるような認識があるかと思えば、一方では自分の認識の中に存在する「意味」で編まれていることの方が多いという事はありうる。プラセボ効果と言うのは、体の中での生化学的反応、薬理学的反応、薬物動態学的反応と言うよりはむしろ、関心相関的にヒトが作り出した「意味」によって規定されるものと言えよう。すなわち、薬が効いたという現象とを患者の言葉で一般化したものと、臨床試験データから構造化し統計手法で一般化したものの間には限りなく大きなギャップがあるわけだ。

 これは真のアウトカムに関してエビデンスと言う客観的データの前に圧倒的無力な健康食品について考えてみるとわかりやすい。健康食品が「効くのか」「効かないのか」という判断は、客観的な臨床試験データに基づく有効性の強弱が重要なのではなく、薬剤有効性尺度の連続帯にヒトが編み上げた『意味』が入れる切れ目の問題である。ヒトによってはこの健康食品がよく効いた、とか全く効果ないよ、と言うのは、代用のアウトカム、真のアウトカムに関わらず、そのヒト個々の基礎疾患や背景因子などを含む文脈により関心相関的に編み上げられた「意味」が大きなウエイトを占めてくるといえよう。

 また市販薬でも同じことが当てはまる。風邪をひいたら早めに病院へ行って抗生剤をもらおう、とか、早めに風邪薬を飲んでおこう、と言うのはこの社会において人々が共有している共通合意であることは、その学術的な正しさを差し置けば、大きな間違えではない。物事、認識の正しさは学術的な妥当性よりはむしろ、社会合意(意味)が編み上げるという側面をもつ。

 風邪のひき初めに総合感冒薬で、その疾患症状が、因果関係がなくとも改善したという事実があるのであれば、その患者にとって総合感冒薬は効果があるということになる。そして、その総合感冒薬と言うのは特定の総合感冒薬であり、他の風邪薬はこの患者にとっての「エビデンス」がない。臨床試験により構造化されたデータによればある総合感冒薬と葛根湯に大きな臨床効果がないことが示されている。
(Intern Med. 2014;53(9):949-56. Epub 2014 May 1. PMID: 24785885)
しかしこの患者に副作用の観点から葛根湯を進めたところで、この患者は総合感冒薬が欲しいと思うだろう。

 何かを正しいと確信した時に、その事象の正しさという要素が問題なはずなのだが、主観的な正しさへの好みという要素が、無意識的に排除されている。したがって、本来好みというバイアスがあるにもかかわらず、自分の好みを無意識的に排除された上で物事の正当性を主張することが多い。関心や意味を見いだせない事象に関して僕たちは、興味がないので別に知りたくない、ということを意図せず自ずからそうせざるを得ない生き物と言えよう。この薬が欲しいという、患者の希望は、その薬が正しい選択か否かという問題よりも、薬が欲しいという欲望・関心相関がたち現れている良い例である。時として医療者は薬剤選択の正当性に関心があるため、ここで患者との信念対立に陥る。

 そのことを踏まえたうえで、薬剤効果を考察すれば、「薬が効いた」というのは関心相関的に立ち現れた、ヒトの主観的な症状に対する感覚がコトバにより恣意的に構造化されたものである。したがって薬の有効性も恣意的に決定づけられるという面を排除できない。臨床試験データにより構造化された薬剤効果とのギャップはかなり大きいものと言えよう。それをふまえてEBMではこのギャップをどう埋めていくかと言うところを重視するのだが、EBMを誤解している多くの人たちはこの点を言及しない。

[本章のまとめ]

 構造主義薬学概論ではEBMの基本スタンスを継承しつつも、関心相関的に立ち現れる主観的な薬剤効果(現象としての薬剤効果)と、医療者が学問的に構造化した薬剤効果という信念対立が現象学的還元を用いながら、その対立解消方法の原理を構築しようというものである。また、そもそも薬剤効果は恣意的な側面を有し、病態生理学的知見や薬理学的知見からの薬剤効果の仮説に対して、臨床疫学的知見がそれに相反するからと言って、前者を否定することの意味があまり大きくないことがお分かりいただけたであろうか。
その目的を理解していただければ、構造主義薬学概論の立ち位置がより明確になるとともに、この概論が単なる理論ではなく、実臨床における薬剤師の行動原理となりうることがお分かりいただけるであろう。

第3章:医療における時間と同一性

 疾患成立の恣意性と薬剤効果の恣意性を踏まえたうえで、薬剤師が学部教育課程の中で学んできた学問的な臨床薬学、あるいは臨床試験データに基づく薬剤の臨床知識、それらを実際に現場でどのように用いたら良いのかと言う問題に対して、その行動原理を構築しようとするのがこの概論の目的である。この原理を十分に機能させるために「医療における時間と同一性」について触れておく。なおこの章は名郷直樹先生が提唱されている構造主義医療論を臨床薬学領域への応用を模索したものである。

 高血圧を例に考えてみよう。高血圧と言うのはいわゆる正常血圧に比べて血圧の値がやや高い状態のことである。そのため将来的にやや脳卒中リスクが高い。ここで大事なのは将来的な脳卒中リスクがどの程普高いかという問題である。年齢を重ねれば、血圧が正常であっても脳卒中リスクが高くなることは疫学的研究により示されている。したがって、時間の経過とともに、どのくらいのスピードで脳卒中と言うイベントが起こり得るのか、それが高血圧と正常血圧でどのくらいの時間差が有るのかと言う問題に帰結できる。

 いうなれば健康という状態がどのくらいのスピードで崩壊していくか、という問題に対して、高血圧はそれを加速するファクターではあるけれども、どの程度加速していくのか、また人によってどのくらいの加速に差がつくのかという問題である。

 高血圧という状態が10年後も高血圧であり、それ以上でもそれ以下でもない場合、それは治療すべき高血圧と言えるのか、と言う問題は、治療をうける患者の年齢にもよるだろう。例えば50歳であれば10年後は60歳であり、まだまだ余命は長い。したがってそれ以降の予後を込みで考える必要があるのに対して、現在90歳である患者に対してはどうであろうか。語弊を恐れずに言えば、高血圧により脳卒中を起こして亡くなるというよりは、寿命により亡くなる可能性が高くなる。したがって両者を同じ治療すべき高血圧症としてカテゴライズするには原理的に無理があるということがお分かりいただけるであろう。

 このように病名と言うのは「時間を生み出す形式」であると言える。構造主義医療論では疾患名のことを「時間を含む変なる現象である」ととらえ、モノではなくコトとして定義すべきと指摘する。すなわち、病名にはその後患者が死亡するなどと言った時間的な流れは定義化されておらず、本来「高血圧というコト」であるはずが、「高血圧というモノ」として定義されているということである。これは大変重要な指摘である。

 認知症を例に考えてみよう。患者にとって、認知症という実体は、患者自身のコトバにより物忘れ症状と言うような現象へ変換される。この時点でこの構造は「コト」であるが、医療はさらにこの現象を「認知症」と構造化する。すなわち認知症は「コト」ではなく「モノ」として医療従事者は取り扱わざるを得ない。診断基準を含め、薬物治療が体系化されるためには実体から現象へ、そしてその現象をモノ化しないと取り扱えないのである。

 しかしここで問題なのがモノと言うのは時間を生み出す形式ではない。認知症は診断基準という同一性が担保される限りは100年後も認知症として構造化されたままだろう。本来病名は「時間を含む変なる現象である」ととらえられるはずなのに、医療者があつかう病名は時間を含まない現象である。

 患者にとっては、疾患は自覚あるいは診断された時点から「コト」であり、刻々と変化する自分自身の「コト」の中で生きていると言えよう。

 従って医療者は病名がまず「モノ」であるという認識をもちながら患者の時間を軸にするという立ち位置をとることが必要となる。この時間軸を「固有の時間」という。病名の時間ではなく患者固有の時間を扱うことこそが「モノ」から「コト」への思考変容につながる。

[本章のまとめ]

 疾患成立の恣意性を踏まえれば、病名を「コト」としてとらえることもまた恣意的と言わざるを得ない。その恣意的な「コト」に対する薬剤効果もまた恣意性を帯びている。臨床薬学は薬理学を背景に臨床疫学的知見に基づき実臨床で使用されるわけではあるのだが、前提となる現象の構造化が既に恣意性を帯びている点は注目に値する。したがってそのような実態を意識しつつ、疾患をモノとしてとらえる事、薬剤効果の前に患者固有の時間を考慮することで、病名の捉え方、薬剤効果の捉え方に複数の視点を生成することを可能にするのである。

第4章:構造主義薬学概論を用いた信念対立解消モデル

 構造主義薬学概論はいまだ未熟な理論であり、その実践原理として完成していない部分が多い。しかしながら、疾患成立の恣意性、薬剤効果の恣意性、医療における時間と同一性という3つの原理を意識することで、実臨床に行ける行動様式の多面的評価が期待できるものと考える。エビデンスか、ナラティブか、と言うような行動方針の信念対立や、エビデンス、プラクティスギャップの取り扱い方、に対して、端的な思考を避け、複数視点からの考察を可能にするものと考えられる。

[薬剤を使用すべきか否かに関する信念対立]

ではここで具体的な例を挙げながら、構造主義薬学概論の全体像をまとめておこう。

薬剤師Aはある糖尿病治療薬Pについて臨床医学論文をシステマテックに検索し、その有効性についてはHbAc1は下げるかもしれないが、心不全を有意に上昇させ、なおかつコストも高く、第一選択としては全く推奨できないと結論したとしよう。

薬剤師Bは基礎研究論文を数多く読み、糖尿病治療薬Pが血糖降下作用のみならず、肥満予防効果、インスリン抵抗性改善効果、動脈硬化進展抑制効果があることを知る。また腎機能が低い患者でも使用可能なこのPは将来的に糖尿病で腎機能が低下したとしても安全に使用できる点を考慮し、第一選択として推奨した。

さてこの薬剤師AとBがある糖尿病患者を巡り、医師に処方提案するということを考えたとき、どの薬剤を提案するか議論したとする。当然ながら薬剤師Bは医薬品Pを推奨するわけだが、薬剤師Aはそれを完全に否定する立場であり、両者の議論は不毛化することはお分かりいただけるであろう。どちらの薬剤師もより良い薬剤選択をしているのにもかかわらずこのような信念対立に陥るのである。

そこで構造主義薬学概論の中核原理を思い出してほしい。どちらが正しい推奨なのかをいったんカッコに入れ、まず医薬品Pを推奨する背景には関心相関性の原理が働いているということを意識する。薬剤師Aは糖尿病の真のアウトカムと言う点に関心があり、それを評価検討したランダム化比較試験とメタ分析をシステマテックに評価し、結論を出した。この薬剤師Aは論文の結果を重視しているということになる。一方薬剤師Aは血糖降下作用と言う点も加味しながら、動脈硬化進展抑制や肥満抑制など様々な生理作用に関心があるものと考えられる。また腎機能低下者でも使用可能な点の評価は薬剤師Bならではの視点と言える。このようにそもそも結論に至るまでに2人の薬剤師の関心には大きなずれがあることがお分かりいただけよう。この時点でそういった背景を認識できれば、不毛な議論へ向かう可能性が低くなる。(全くなくなるとは言わないが、少なくともその可能性は低くなる)

糖尿病の真のアウトカム、代用のアウトカムという概念を話し合い、薬剤Pの生理作用と腎機能の件に言及し、患者背景をもう一度見直したら、やや腎機能が低く、今のところ心不全の既往もなく、患者にとっての関心は血糖が高いことのみであり、さらにこの患者の家族が薬剤Pを服用しており、コストが高いにも関わらず患者自身も希望していたと言った事実が浮かび上がる、と言うようなケースも十分想定できる。ただし有害アウトカムである心不全の件は軽視できないため、薬剤師と医師で慎重にモニターしようということにつながるかもしれない。

臨床試験により構造化された知見と、目の前の患者の現象にはかなりのギャップがあるというのは薬剤効果の恣意性で述べてきた。また糖尿病自体の疾患成立も診断基準がコトバでコードされている限り恣意的である。それらを踏まえれば、薬剤をそもそも用い得るべきかどうかと言った議論も可能になり、より建設的な議論をかわせよう。そして、薬剤を服用することが患者にとって何を意味するのか、患者固有の時間軸での考察を可能にさせる。医薬品Pたとえ1剤であっても、この患者にとってそれを服用するというのは、糖尿病患者として生きていくことを意味する。糖尿病として生きるとはどういうことなのか、糖尿病と言う「モノ」の視点から糖尿病という「コト」への思考変容が可能となる。

[構造主義薬学概論の概要]

構造主義薬学概論は主に、疾患成立の恣意性、薬剤効果の恣意性、医療における時間と同一性の3つの原理を「視点」として活用することで、関心相関・現象学的還元モデルを駆使しながら不毛な信念対立による非建設的な議論を少しでも回避できる可能性を残し、患者固有の時間に配慮した医療提供を模索する、臨床薬学領域における行動原理である。

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[コラム]因果関係の思想構造

スレッド
~ランダム化、傾向スコアから垣間見る因果効果の考え方~

日経DIオンライン に連載させていただいております コラム に、風邪に対する抗菌薬の有用性を検討した英国のコホート研究を取り上げさせていただきました。僕自身、過去に経験があるのは、「抗菌薬を飲んだから風邪が早く治ったんです」と言うような患者さんの声でした。

風邪症状の改善と抗菌薬の服用にどのような関係があるのか、それを明確に示すのは実は相当困難なのです。まず抗菌薬の効果云々以前に、自然経過による軽快という現象があり、その自然経過に関わる因子は多岐にわたるからです。

例えば、風邪症状を起こしている病原体の種類によって重症化リスクが変わるかもしれないですし、個々人の免疫力による自然治癒のスピード、そして感染時期や地域によって、あるいは食事内容や他の薬剤服用による主観的な症状改善などなど、多数のファクターがあり、風邪症状の改善と抗菌薬との関連を明確に示すことは相当困難なことがお分かりいただけるでしょう。

そもそも、風邪と抗菌薬に限らず、おおよそ世の中に起こる現象は、その原因を考えるという立場に立った時に、因果関係を決定づける要因を探索することは相当困難だと言えます。その原因を考える立場に立ったという時点で、原因がもはや明確に特定できず、あるいは関連が一番高そうだという因子を原因と推測しているにすぎないのです。

[料理中におきた手のけがの原因は何か]

良く考えてみると、原因が分かりきった事象について僕たちは、「あれが原因だろう」と言うふうに思考しません。例えば包丁で手を切ってけがをした時に、「このけがの原因は包丁で切ったからでしょう」と切った本人は考えません。本人にとっては「包丁で切ったからけがをした」のだということが自明だからです。しかし、包丁で手を切ったところを直接見ていない、第3者からしたらどうでしょうか。まあ、やや馬鹿げた例ではありますが、けがの原因は包丁以外にも様々なものを想定することができます。カッターナイフで切ってしまったかもしれませんし、紙で切ってしまったかもしれません。そういった要因の中から、少なくとも文脈によりフィットする事象を原因としてより強く確信するのです。

このような思考プロセスの中核は、文脈によりフィットする要因は何かという思想構造にあります。例えば料理をしている時にけがをした、という文脈であれば、まずは「関心」が料理中のアクシデント、に集中するわけです。料理中にアクシデントを起こすようなファクターと言えば火傷や包丁による外傷が挙げられるでしょう。そして目の前の創傷と照らし合わせたときに、「料理中に包丁で手を切ってしまった」という現象と目の前の創傷がリンクし、原因を確信するのです。

しかし、実際には包丁ではなく、はさみでけがをしていたかもしれないですし、その原因とは原因を探る立場の人が最も、原因であるらしいと確信している事象に過ぎないわけです。そもそも関心の的ではなかった料理中のアクシデント以外の要因が原因かもしれません。料理レシピをプリントアウトした紙で手を切ってしまった、など原因はいくらでも考えられるのです。

このように多数の要因の中から、注目した文脈上において、“主観的に感じた、最もありうる要因”を原因として確信する構造が我々にはあります。そしてその確信構造は概して、原因が分からない時に起動するものです。また最もありうる要因はヒト個々人の「関心」により抽出されたものといえましょう。このように考えると、ヒトが確信する因果関係ほど曖昧なものはないのかもしれません。

[サプリメントで痩せるというのは因果効果か]

よくインターネットや雑誌に掲載されている、「このサプリメントを飲めば痩せる」と言うようなものも、曖昧な因果関係に裏付けされた幻想にすぎない可能性を排除できません。サプリメントが原因で痩せたことを示すのは相当困難なのです。なぜならば、サプリメントを服用する対象となる人間そのものが複雑な要因で構成されているからにほかなりません。

ヒトを構成している要素は数え上げればきりがありません。年齢、性別、体重、身長、食習慣、思想、居住地域、治療中の疾患や薬剤、行動パターン、経済状況、…そのすべてが全く同じ人は存在しません。薬の効果を論じる際には、薬剤とその効果の因果関係を示す必要があります。人に対する、ある薬剤の効果を因果関係として導くにはどうすれば良いのかということを、考えねばならないのです。

ここで大事なのが、薬の効果を知るためには、薬以外のファクターが全て同じ条件でなければならないということです。差を知りたい介入以外の介入が等しくなければ、因果関係が正しくわからないのです。因果関係によりもたらされる効果を因果効果とするならば、因果効果は、「ある事象Xが起きた世界A」と「ある事象Xが起きなかった世界B」の差で示されます。

タケオさんがサプリメントを飲んだ世界Aとタケオさんがサプリメントを飲まなかった世界Bの差が因果効果と言うわけです。これによってタケオさんの体重が減り、より男前になったということが示されれば、サプリメントと美容効果の因果関係が示されたことになるでしょう。

しかし、どうしても越えられない問題がここにはあります。当たり前ですが、この世界Aと世界Bは同時的に存在しません。僕たちはただ一つの世界を生きています。サプリメントを飲む選択をすれば、飲まなかった世界にめぐり合うことはありません。すなわち、どちらか一方の世界を選択することで比較する対照を失っていることが、因果関係をより幻想化することを助けています。

介入ありと介入なしと言うのは一人の人間を対象にした場合、同時的にデータを求めるのは不可能です。すなわち差の因果効果は求まりません。介入あり、と介入なしの時間軸をずらせば可能ですが、そうなると、人間を取り巻く様々なファクターが変化します。たった1週間ずれるだけで、感染症の流行状況が変わったり、食べ放題の焼き肉を食べに行ったり、飲み会でビールを飲みすぎたりするわけです。そういったファクターが純粋な因果効果をマスクします。

ランダム化と傾向スコアマッチングに共通する試み

この壁を乗り越えるために考えられた研究デザインの代表的なものがランダム化比較試験です。一人の人間を対象としていては、比較対象データが得られない、だけれども複数の人間を対象にしてみてはどうか。この複数人数が十分なサンプル数であれば、まったくランダムに介入群と非介入群に分けることで2つの同一的な集団と仮定できるようになります。すなわち、同時時系列で比較可能な2群が設定できるのです。そしてこの差が介入効果として定量的に算出することが可能になります。

しかし、実際にはランダム化比較試験が困難なことも多いでしょう。薬を飲ませる人、飲ませない人、そういう仕方で研究に参加者してくれる人たちの同意を得なくてはならないからです。お金もかかりますし、有害事象を検討するのであれば倫理的に問題でしょう。

さて、ランダム化できない場合にどうするか。対象患者の様々なファクターをどう取り扱うかが肝になります。近年はやりの傾向スコアは、この問題をクリアするために開発された手法です。対象患者一人一人の要素(年齢や性別、併存疾患や既往歴…などなど)をもとに、介入を受けるであろう確率を算出するのです。この確率を傾向スコアと呼びます。

例えば心臓病があって、糖尿病もあって、高血圧もある人は、低用量アスピリンを飲んでいる可能性が高いですよね。例えばその可能性を90%の確率と見積もったとしたら0.9という傾向スコアが算出されます。一方、いたって健康そうな対象者では低用量アスピリンを飲んでいる可能性は少ないですよね。例えばこちらは10%の確率と見積もったとして0.1という傾向スコアが算出されます。このように患者1人ずつ傾向スコアを算出していきます。

そして、介入を受けた人、介入を受けなかった人、この2群を比較する際、傾向スコアが等しい人同士でマッチングを行い解析集団を構築するのです。これを傾向スコアマッチングと呼びます。上記の例で言えば、実際にアスピリンを飲んだ人、飲まなかった人の2群に分けるのですが、それぞれ傾向スコアが等しい人どうしてマッチさせ、抽出するのです。すると、傾向スコア算出に用いたファクタ-の偏りなく解析集団を抽出することができます。こうすることによって比較可能性を高めるのです。比較可能性の高い2群を比較することで初めてアスピリンの効果を論じることができます。

しかし、マッチされなかった患者も当然出てきます。特に傾向スコアが極端に高い、あるいは低い患者群では、マッチペアが見つからないという事態が起こりえます。そのため最終解析集団はコホート全体の中でも平均的な集団になっている可能性があり、因果効果の差の検出力はやや低くなるでしょう。そしてそれは特に有害事象を評価する際に過小評価につながる恐れもあるかもしれません。またあくまで調整できるのは、既知のファクターのみです。未知のファクターまで平均することが理論上可能なランダム化とはこの点で大きく異なります。

[人は因果を作り出す生き物である]

さて、これまでに因果関係を示すための手法としてランダム化、そして傾向スコアマッチングを紹介してきました。いずれにも共通するのは差を知りたい介入以外の介入が等しくなければ、因果関係が正しくわからないということに尽きます。あらゆる現象の原因と結果を考えるときに、そういった思考抜きに、原因を特定してしまうというような仕方はあまりセンスが良いとは言えません。

原因とはそもそも「わからない」を前提にしているもので、人間が原因と確信しているものは、その原因が取り出された文脈に関心があるのに過ぎないのです。それがたまたま本当の原因かもしれないですし、そうでないかもしれない、よく分からないということを放置できずに、なにがしかの原因を後付けで挿入する、そういう仕方で物事を考えるのがそもそも人間なのかもしれません。
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