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サウスベイ マネジメント セミナー( Southbay management seminar )は月一回のセミナーを中心に勉強し、時々に親睦をする、乃ち「よく学び、よく交友する」そのような会です。

2017年2月 アメリカで俳優として生き抜いてきた50年 講演:トシ・トダ氏

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2017年2月 アメリカで俳優... 2017年2月 アメリカで俳優...
ニューヨークでのブロードウェイからロスアンゼルスでの映画、テレビドラマに出演してきた芸歴50年の経験を持つトシ・トダが自らの経験を元に どのようにアメリカの芸能界を生き抜いてきたのか、いろいろな人間との出会いを経て、その中から生きていく目的、それに必要なエネルギーをどう作って行くかをみなさんと考えて行きたいと思います。 アメリカに来た時と今の状態の違い、役者たちの経済、映画や舞台の裏話など興味深い話が満載です。

講師
戸田年治(とだ としはる)氏プロフィール

東京都杉並区阿佐ヶ谷出身。 小学校時代には祖母に映画、母親に東宝の舞台によく連れて行かれて過ごす。 19歳の時に浪人をしながらモダンダンスを当時ニューヨークに住む著名舞踊家三条万里子に師事。初めて海外の舞台の情報を得る。役者に成る為にはまず体をコントロールすることを学ばなくてはいけないと認識したのが、きっかけとなる。 すぐにプロの役者に本当になりたいのか、自分を確認する為にとにかく大学に入り、演劇部で経験してからでも遅くないと思い、大学に入るが、当時の学生運動、東大闘争が勃発し、演劇部も潰れてしまうが、自ら演劇集団黒猫を作り演劇活動に2年間勤しみ、この仕事をしたいと再確認し、劇団四季に受験、合格となり、そのまま大学退学。プロとしての道が始まる。四季に在団中バレー、ジャズダンスも始める。3年間四季に在団のあと、オペラ歌手の帆足拓也率いる音楽シアターに参加。その後、バレー学校の姉妹スクールがニューヨークにあり、1974年留学する。1年留学の予定がそのまま永住権を取得、オフ、オフオフ、オンブロードウェイの舞台に出演。ブロードウェイミュージカル“Anything Goes” を2年間続けたあと、ロスに移住。ニューヨーク生活17年。ロスに移住後数々のテレビ番組、映画に出演。現在に至る。ロス在住25年。舞踊家時代を含め50年の芸歴になる。 
主な作品: 『硫黄島からの手紙』『ジャスト・マリッジ』『もしも昨日が選べたら』『パール・ハーバー』『GODZILLA ゴジラ』『ER』『フラッシュフォワード』など、アメリカのテレビ・シリーズや映画を中心に活躍。


講演録
米国では、年治ではなく、TOSHI で活動

役者だというと、どんな作品にと聞かれますが、聴く人が知らない作品ばかり。
そして、役者というのは、派手で特別なイメージがありますが、本当は地味な仕事。
オーディションに受からないと無職ですし、いつ仕事が入るかわからない。
未来が見えずに不安になることも多い仕事ですが、必ず夢は叶う。仕事が入ると信じられる人が役者を続けられるんだと思います。

昨年のオートショーのことですが、チケット担当の黒人の方に「あの映画に出てたでしょ」と声をかけられたんですが、その映画は、「MENACE II SOCIETY」
米国の映画界では、黒人映画では、スタッフも黒人のことが多く、言葉遣いも仲間内のラフなもので、知らない人が聞いたら、本当に俳優?と思いたくなるような現場。
“I Feel Sorry For your Mother” というセリフがきっかけで、殺されてしまう役なのですが、
このセリフは、監督の要請で、僕が考えたセリフ。
そして、殺した犯人を演じた俳優にも、このセリフのおかげで感情移入ができたと感謝された。
そして、“I Feel Sorry For your Mother”というこのセリフが黒人の間で流行りました。
そして、この映画の続編もできた。喜劇:「Menace II Society while drinking juice in the hood」
これらの映画の中では韓国人役を演じることが出来ましたが、最近は、韓国人の役は韓国人の俳優が、チャイニーズは中国人の俳優が演じるようになり、日本人俳優が雇われることはほとんどなくなりました。

なんで役者になったんですか?とよく聞かれますが、
小学校5年生くらいの時に、教科書の中にある戯曲があり、そのセリフを自分で読んでいたら木j持ちよく、翌日学校でも当てられ、自然にその役を演じられ 、クラスのみんなも喜んでいた、その快楽的な感覚を今でも覚えています。

子供の時祖母によく映画を見に阿佐ヶ谷のオデオン座に連れてってもらいました。
当時は2本立てで、超満員。通路にも人がいた時代でした。
また、母親には帝国劇場にミュージカルや演劇などを観に連れていってもらいました。

でも、そんな時、自分だったらこう演じるのにという思いを抱きながら作品をみていました。

家族に「役者になりたい」と話をすることができず、2浪の最中 に役者に成るためにはまずは体が動けなくてはいけないと思い、ダンス学校を探し、
阿佐ヶ谷で「三条万里子」というモダンダンスの先生に師事、この先生がニューヨークのダンス学校のメンバーであり、アメリカの情報が入り始めた。日米文化交流会を通し、六本木にある外国人のお宅でモダンダンスを踊ったこともありました。

入学後東大闘争の時代になり、演劇部も廃部となり、自分たちで「黒猫」という演劇集団を結成。
また当時の状況劇場とか天井桟敷、東京キッドブラザーズなどに刺激を受けました。演劇でやっていけると確認したあと、劇団四季を受け合格。青年座が好きで受けるつもりが四季の試験で疲れ、入団テストを受けず、そのまま四季に入り、役者として活動を開始。
そして、劇団「四季」の入団テストが一番早くあったこともあり、試験を受け合格。
当時は、今のような大きな劇団ではなく、会社を回って切符を売り、その売り上げが配役に関係するような小さなものでした。四季にいる時からこれも阿佐ヶ谷にあった 東京バレーアート・カーネギーホールにも所属し、NYのカーネギーホールの中に稽古場があるBallet Art Studio66と姉妹校だったこともあり、留学を決意。
渡米時は1400ドルぐらいの所持金で、交通費を使ったら、所持金100ドルくらい。
ですが、NYにいるという興奮から、お金があるないなどは、あまり関係がなくなっていました。

裸のミュージカルLet my people come(Village Gate)で知り合った人の友達がブロードウェイで活躍している人で、渡米後すぐにそういった人に知り合えたことに興奮。
1年の滞在のつもりが、1年たった時、結婚する直前でした。
結婚した相手は、行きの飛行機の中で知り合った米国人女性。
今はこの女性とは離婚し、2番目のワイフがいます。

米国、NYは、こんな楽しい場所はないと思わせてくれるほど、当時の私には、楽しい場所。
そして、当時のワイフは、自分が出演してる芝居にタレントエージェントを招待しても来るわけがない わよと言っていましたが、来てくれただけでなく、テレビの仕事をすでに見つけてくれていた。
ですが、子供ができ、もう役者の仕事は無理かと思いきや、 ユニオンにも加盟でき、また其のおかげで、特別なアパートに入ることができました。
それは、2ベット、2バス、38Fで、自由の女神も見られる場所。それが月95ドル。
自分の収入の4分の1が家賃というアパートだったのです。
毎年、1年間の収入予定を自己申告し、家賃が決まるというところでした。
此のお陰で役者を続けていけるようになりました。

ホテル・レキシントンという由緒あるホテルがあり、その中の「ROPPONGI」というピアノバーでアルバイトしていた時、手相を見るお客さんがいて、「あなたは舞台で絶対成功します」と言ってくれたんですが、そういう、小さなことかもしれませんが、心の支えになっていました。

役者はセリフを覚えるので、記憶力が大切なんですが、
麻雀屋でのアルバイトでも、6テーブル24人分のオーダーを紙に書かずに覚えていたり
自分は聖徳太子よりすごいとか思ったりしてました。そういうとこで鍛えられたのかと。

僕は、米国で演劇学校ではなく、個人授業を受けていたのですが、たまたまバレー学校の友人がActor’s Studioの創立メンバーの一人で、彼女に頼まれスタジオでシーンを演じる機会を得ました。
そこで映画「エクソシスト」の母役をやったエレンバースティンにも指導を受けました。Actor’s Studioはとてもリアルな演劇をさせるのですが、非常にと変わった人が多かった。
レイプシーンのアクティングで、もう少しで本当にレイプが起こりそうになったとか。

ナショナルツアー
ブロードウェイでヒットした作品をキャストを替えて、全米ツアーをすること。
このナショナルツアーで、ジャッキー・グリースンなどとも一緒に舞台に立つことができた。
彼は、セリフがすべてリハーサル初日には入っていて、他のキャストがセリフを覚えるまで練習に来ないのです。Honey Moonerという番組で有名になった大スターですが、撮影ぶっつけ本番で演技するので有名だった人。しかし、ヘビー・スモーカーで、シカゴでハートアタックになり、心臓の手術で全国公演が途中でキャンセルになりました。このSly Foxという芝居のディレクターは
アーサー・ペンで彼はNYではトニー賞、ハリウッドではアカデミー賞をとった人で、こういう一流の人と一緒に仕事をしたということが今の自分に大きく役立っています。

嘘の演技をしない。
役者は嘘を言っちゃだめ。
泣きたかったら本当に泣き、笑いたかったら本当に笑う。
その時々の経験を忘れず、もう一度振り返って其の経験を再認識することが大事。
演技の幅を作るには、自分の表現の引き出しを多く持つこと。立ち止まってかんがえる時間も必要。
忘れない思い、痛み。そういったものを引き出しから取り出し、実際に感じたことを再表現する。それが大切だと思います。

今は合併しましたが、以前はAFTRAはビデオテープを使う、SAGがフィルムを使うユニオンでした。
ある程度仕事があると、ユニオンから健康保険ももらえるようになる。
忙しかった時は、昼間ソープオペラ、夜舞台、おなじ日にテレビで30分間の間に出演CMが3本流れることもあり、舞台のユニオンEquityを含め同時に3ユニオンの保険をもらうこともあった。
例えば11月、12月の2ヶ月で4万ドルの収入があることもあった。
今の若い人に言いたいのは、僕の頃は、河原乞食でないと、いい演技は出来ないと言われてた時代で、贅沢をせず、俳優をするのが当たり前でしたが、今の若い人は普段の生活も普通の人と同じように楽しんでいるが、其のお金があったら、自分に投資して勉強にお金を使ってた方がいいと思う。若いときにしか身につかないことが多くあるので、お金はあとからついてくるから、
その時にしかできないことがあるので、其の時を大切にしてほしい。

当時のニューヨークはモダンダンスの文化庁の派遣ダンサーぐらいしか、日本人がいない時代だったので、日本人役が回ってきやすかったのではないでしょうか?

昔の米国で活躍してた日本人の俳優さんに、
早川雪洲、青木つるこ、上山草人などがいました。 
当時、雪洲さんは、週に5千ドル(1920年代)をもらっていた。 サイレント映画時代。
自分の劇団もお持ちでしたし、演じた役柄のため、日本人コミュニティーから嫌われていたが貢献しようともしていました。

青木つるこさんは約40本の映画に出演。
雪洲さんが帰国後活躍した上山草人さんは47本の映画に出演。しかし無声映画時代が終わるとトーキーになり仕事がなくなった。

英語と日本語がネイティヴに喋れる人が増えてきている今、日本人の俳優も変わってくるのでは?と思います。

他によく聞かれるのは、「出演料はいくら?」という質問。
ユニオンが決めるミニマムレートがあります。
いろんなクラス、例えば エリアごとなどがありますが、
CMですと、8時間まで$671.69。しかし、放送ごとにお金が入る仕組み。
ネットワーク(TVドラマ)毎年値段が上がってきています。
現在:996ドル 

我々の仕事はエージェントがいないと成り立たないので、このミニマムレートではエージェントの仕事にならないので、上乗せの交渉をしています。

映画 8時間$933
映画1本いくらとか、Weekly Player とか、 とか、こちらもいろいろあります。

役者としては、今はあまり良くない時代。
昔は、戦後に近ければ近いほど、戦争物が多かったので、日本人、日系人の役も多かったのですが、今は減ってきていますよね。

他界された日系人のactorも亡くなる前、「俺がやりたかった役はみんな三船が持っていった」とおっしゃったように、米国にもたくさんいい日系の役者はいるのですが、日本で配役することがおおかった。それは、お金の問題(スポンサー)も関係してくるんです。


オーディション
時間に合わせて会場にいくのですが、オーディション会場で待っている人を見ると、大きな役をもらって活躍してた人がいたりします。
役が終わったらただの人。
よっぽどの俳優さんは別ですが、普通はそんな感じ。
僕はエージェントのオフィッスに遊びに行くように努めています。来るなというところもあるのですが、エージェントが何をやっているのか知りたいですよね。
昔は、今のようにインターネットでプロフィールを送る時代ではなく、郵送の時代。
なので、顔写真headshotとか履歴書(resume)の在庫をエージェントに行って確認を定期的に確認しに行ったりしてました。その時にエージェントと話も出来ます。今はインターネットで全て行います。

オーディションというのは、サイドというのがあり、そのシーンしか見られないのです。
新しいシーズンが始まると、それを全部みて、自分で研究したりします。
そのオーディションで出て来るキャラクターをどんな役者がやっているのかを調べたりします。
セリフとセリフの間のト書きは自分で作る。自分で足して行く。
だからactorによって解釈が違い、その解釈があっている役者が役を勝ち得たりします。
オーディションでやった演技が本番でもできることも大切。
受かればいいのですが、落ちた場合、受かった役者の演技をみて、反省。
そして その役のキャラクターにあっているか否かなど、いろいろな要因の運、不運があります。
自分で選ぶことができない。
落ちたら、また次があるさ、そういう気持ちでやっていかないと続きませんよね。

自分に役にたつのは、ショートフィルム。
お金にはなりませんが、精神的な充実感が得られ、デモテープにも使えます。
ビッグプロジェクトでは、自分のパートを演じ、お金にはなり、多くの人にみてもらう喜びはありますが、
ショートフィルムは、自分たちで作っているという過程も楽しめるんです。
そのフィルムメーカーがいつ有名になるかもわかりません。そこにチャンスが生まれる可能性があります。
[Eight Samurai]という、黒沢映画をフューチャーしたものを学生が作ったのですが、
それは日本の黒沢映画祭でも上映され、出演料チェックを送ってくれた初めての学生映画。


硫黄島からの手紙。
二宮くんに「自爆しろ」と命令する役だったのですが、その撮影現場に入るときには、彼は遠くにいても私の姿を見るとすぐ来て、しっかりと挨拶をしてくれ、礼儀正しく、本当にいい役者さんでした。

この映画に関して、日本からの俳優さんのオーディションを受けられる権利は何かの作品で主役をやったことがある人だけにしか与えられなかったそうです。

クリントイーストウッドのクルーは、何年も同じチームで動いていて、クリントが何も言わなくても、それぞれの役割が分かっていて、とても早いスピードで撮影が進んでいきました。



明日は明日の風が吹く そういう精神で今日まできました。

若い方々には、自分に投資をしていってほしいと思います。
お金は後からついてきます。
目の前のものを一生懸命やることが大切。
持って生まれたもの。それはハンデにもなりますが、
僕は才能がないと言われ続けました。しかし、唯一、続けていける才能があると言われました。
だから僕は今も続けています。





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